「先に帰ってたんじゃないんですか?」

 店の外にいたクラネスさんに声をかけた。

 「この時間に女性を一人歩かせるわけにはいかないだろ」

 パーティーが終わる前に店から出て行ったのを見ていたので、帰ったものだと思っていた。
 もしかして、わざわざ迎えに来てくれた?

 「ほら、帰るぞ」

 「あ、はい」

 先を歩く背中を追いかける。
 この時間に二人で町を歩くのは初めてだ。


 月明かりに照らされる静かな夜。歩いているのは私たちだけ。
 ペースを早め、私はクラネスさんの隣に並んだ。

 「クラネスさん、バレンタインって知ってます?」

 特に何の意味もなく話題を切り出した。

 「あぁ、前にヴァイトから聞いたことがあるな。大切な者にお菓子を贈る日だと」

 ヴァイトちゃんならそういうことに詳しそうだな。
 反応を見る限り、この町にバレンタインの風習はなさそうだ。

 「では、バレンタインにカップケーキを贈る意味をご存知ですか?」

 今日はバレンタインデーでもなければ、そんな風習もない町で生まれたクラネスさんからすると何を言っているんだと思われるだろうな。
 それでも私は、彼を置いてけぼりにして言葉を続ける。

 「カップケーキには、自分にとって相手が"特別な存在"である、という意味があるそうです。なんて、渡してから思い出したんですけどね」

 思い出した、ね。そんなの、今となっては嘘でも真実でもどちらでもいい。

 「花言葉や宝石言葉みたいに、お菓子にもそれぞれ意味があって、贈る相手のことを考えて選んでしまう人たちもいます。好きなものを好きな人に贈ればいいのにって思ってましたけど。普段言えない気持ちを、プレゼントに託して伝えるのも悪くないですね」

 受け取り手が贈り物の意味を気にするかは分からない。渡す側も、あわよくばそこに気づいてもらえればいいなと気持ちを乗せるだけ。自分の気持ちはおまけみたいなもので、本当に伝えたいことがあるのなら言葉にして伝えるべきだ。
 でも今の言葉はどこか他人事で、自分のものではないみたいに浮いている。
 私はそれでいいと思っていた。

 すると、隣を歩いていた足が止まった。

 「クラネスさん?」

 振り返って声をかけると、その視線は下を向いていた。
 伸ばそうとした手を握りしめ、次の言葉が紡がれるまでの間、私はそっと待っていた。

 「昼間に言いかけたことだが」

 彼は顔を上げ、前を向いて話す。

 あの時は子どもたちの声に掻き消されていたけれど、今はちゃんと聞こえる。
 聞きたいけれど、聞きたくない。
 どんな話をされるのか分からないのに心臓がうるさい。

 「灯は以前、俺の言う"好き"は、子に注ぐ愛情と同じだと言ったな?」

 「あ……はい」

 今度は私が視線を逸らした。

 「確かに幼い頃から灯のことを見ていて、愛らしいだの心配だのと思っていたのは、そういう愛情と呼ばれるものだったのかもしれない」

 ゆっくりと体の奥から熱いものが込み上げてくる。
 イタイ。胸が締めつけられる。

 「だが時間と共に感情も変化していくものだ。いつまでもそのままというわけではない」

 そう言うとクラネスさんは私の前に立った。

 「下を向いて、歩くことを諦めていた子が、自分の足で歩いて前向きに行動するようになった。その姿勢は、見ているこちらにも新しい感情を与えていると気づいていないのか?」

 「え……それ、は」

 震える声で返事をするのが精一杯。
 上げた視線が絡み、体が固まる。
 視界に入った彼の頬は、ほんのり赤くなっていた。

 「俺はその姿がとても好ましいと思った。灯は共に過ごす時間の中で色んな顔を見せてくれる。特に、皆に見せる笑顔は可愛らしくて独り占めしたいと思うほどに……これを聞いてもなお、俺の本当の気持ちは見えないか?」

 息を呑む音がうるさいくらいに耳に届いた。
 呼吸が乱れていくのが分かる。
 顔を合わせられない。
 でも、何か言わなきゃ……。

 「あっ」

 言葉を発したのと同時に視界が滲んだ。隠していたはずの熱が込み上げてくる。
 その雫が地面に落ち始めると、もう止めることはできない。零れる涙に感情を持っていかれる。

 「それは、本当ですか?」

 「本当だが、この気持ちを受け取りたくないと思うなら、聞かなかったことにしてもらっても構わない」

 泣いている私を見たクラネスさんは一歩引いてしまう。
 違う、そうじゃない。

 「嬉しい、です。けど、涙が……」

 本当は素直に受け取りたい。ありがとうと伝えたい。でも。

 「私、ここにずっといたいです。クラネスさんと、離れたくない……!」

 心の奥底に沈んでいた思いが、とめどなく溢れ出す。こんなことを言っても困らせてしまうだけなのに。
 そう分かっていても、涙が止まらなかった。

 彼は生きている世界が違う人。たとえお互いを思う気持ちが同じでも、その事実は変わらない。
 好きなのに、そばにいられない。

 「灯……」

 泣きじゃくる頭に優しい温もりを感じた。

 「本当は言わないつもりだった。それが正しいと思っていたから。でもその選択をすることで、後悔が残ると気づいた」

 反対の腕で、そっと私を抱き寄せる。

 いつかは離れなければならないと分かっているのに、恋に落ちるのはいけないことだと思っていた。叶わない気持ちに溺れるのは、自分が苦しいだけだから。

 けれど彼からは、そんな思いを溶かすほどの温もりを感じた。

 「好きだ」

 冷めきっていない身体が、伝わってきた彼の体温と合わさって更に熱を帯びる。
 私はクラネスさんの背に手を回し、力を込めた。

 好き。その気持ちを聞けた時、絡まっていた苦しみの糸が解けたように楽になった。
 叶わない気持ちに溺れて苦しむよりも、今ある気持ちをなかったことにする方がずっと辛い。
 二人の時間が永遠に続かなくても、二度と会えなくても、彼はまだここにいる。

 もう自分の気持ちに嘘はつけない。

 「私も、好きですよ」

 静かな灯りに照らされる中で、二人だけの時間が流れる。

 今の私にできることは、明るく着飾った声で言葉を交わすこと。
 満月の日まで、残り三日。それまでに覚悟が決まるだろうか。この温もりから、離れることができるだろうか。

 私が腕の力を緩めると、クラネスさんもその手を解いた。

 「帰りましょうか」

 そう言って、残りの道を二人並んで歩いた。