デイブレイク・ムーン

 ――


 パーティーが始まると、店には沢山の人が足を運んでくれた。

 今日の店ではバイキング形式でスイーツを並べているスペースや子どもが座って食べられる場所も設けている。もちろん大人も楽しめるようにお酒も用意してある。


 「こんにちは、灯さん」

 「エイトさん、来てくださってありがとうございます」

 滅多に町に来ることはないと言っていたエイトさんが一番に声をかけてくれた。

 「こちらこそ、お誘いありがとう。とっても素敵だね」

 いつものように和装に身を包んだエイトさんが優しい笑顔を向けてくれる。
 交友関係は広くないけれど、町の人たちのことを大切に思っている彼に少しでも顔を出してもらいたくて招待状を送っていた。

 「なんだか、ここへ来た時よりも大人びて見える」

 「え、そうですか?」

 「顔つきが変わったからかな」

 当初、俯くことが癖になっていた私の表情は暗かった。不安や恐怖を抱え、迷いがあった自分の気持ちに蓋をしていた過去。けれど、今は違う。

 「今の私は、前しか見えていないようですから」

 変わり続ける世界で後ろを向いてばかりでは道を見失う。下を向いていては置いていかれてしまう。追いつきたいなら、前を向くしかないのだと分かったから。

 「頼もしいですね」

 挨拶を終えた後、エイトさんはクラネスさんのところへ向かった。
 そんな彼の背中を見つめていると、ワンピースの裾を引っ張られた。

 「アカリ……」

 そこにはアロくんがいた。ということは……。
 入口の方へ顔を向けると、おひさま園のみんなが来ていた。

 「お姉ちゃん!」

 そう言って私の方へ駆け寄って来てくれた。

 「アカリさん。今日はありがとうございます」

 サイトくんを抱えたオルドさんが、みんなを連れて来てくれた。
 パーティーの開催時間をお昼からにしたのは、子どもたちも参加しやすいようにしたかったから。

 「いえ、楽しんでいただけると嬉しいです!」

 小さめのテーブルとイスが用意してあるスペースにみんなを案内した。そこにはジュースとスイーツが並んでいる。

 「わぁ!名前が書いてある!」

 それぞれの席にはネームプレートを置いていた。名前の横にはイラストを描いている。

 「すごい、可愛い!」

 「よかったら持って帰って?」

 「いいの?やった!」

 ネームプレートならおひさま園でも使えると思って作った、私からのプレゼント。
 みんな喜んでくれたみたいでよかった。


 「あ!ジャラジャラの兄ちゃんだ」

 席に着いた後、ガクくんが入口を指さした。
 そのワードに思い当たる人は一人しかいない。

 「リィンさん、来てくれたんですね」

 私は挨拶をしに彼の元へ行った。

 「あいつに少しくらい顔を出せと言われたからな」

 視線の先にいたのはモモさんだった。
 普段酒場に行かない私が行くんだからあんたも来なさいと説得されたらしい。

 「ありがとうございます」

 私は満足気に笑顔を向けた。
 その顔に軽く舌打ちされたのは聞かなかったことにする。

 「ジャラ(にい)、一緒に遊ぼ」

 怖いもの知らずのライカちゃんが声をかけた。

 「は?誰がお前らなんかと」

 「え、兄ちゃん遊んでくれるの?」

 子どもたちがリィンさんの元へ集まってきてしまった。
 それを見た私は面白くなって思わず笑いながら言った。

 「いいじゃないですか今日くらい」

 「なんでだよ」

 「今度クラネスさんがお酒奢りますよ」

 少し黙り込んだ後、盛大なため息が聞こえた。
 彼がなんだかんだで優しいお兄さんなのは分かっていた。だって、子どもたちから声をかけてしまうほどなのだから。

 「あとでお酒持って行ってあげよ」

 ここから離れたスペースに、お酒が飲める席もある。

 楽しそうにしている彼らを見て、私は新しいパウンドケーキを焼くために一度キッチンへ戻った。

 「灯、お客さんだぞ」

 焼き上がったケーキを盛りつけていると、クラネスさんに呼ばれた。

 「人気のない場所に案内してある」

 クラネスさんの言葉通り店の隅っこで、ある人が待っていた。
 彼は私を見つけると優しく笑ってくれた。

 「クロムさん。来てくださってありがとうございます」

 持っていたドリンクを彼に渡す。

 「僕なんかが来ていいものかと思ったけど、灯さんに会えるならと思って立ち寄ったんだ」

 「……!嬉しいです」

 クロムさんにもお会いできたらと、無理を承知で手紙を出していた。

 「やはり君とクラネス以外には見えていないみたいだ」

 店内に向ける視線は静かで落ち着いた。
 クロムさんにとってここは気軽に楽しめる場所ではないかもしれないから、無理をさせてしまわないか不安だった。
 何か話を……と考えていると、誰かがこちらへ近づく足音が聞こえた。


 「クロムさん?」

 私とクロムさんが話しているところに来たのはモモさんだった。

 「お会いできて光栄です」

 彼女は丁寧にお辞儀をした。

 「こちらこそ。あの時は何も話せなかったからね」

 そんな彼女に対して優しく微笑んでいた。
 モモさんもクロムという透明人間がいることを知っている、見える人。

 するとその後ろからヴァイトちゃんが、ひょっこり顔を出した。

 「この人は?」

 「え、ヴァイトちゃん見えてるの?」

 彼女はクロムさんの方をじっと見つめている。

 「見えてるってどういうこと?今モモちゃんと話してたでしょ?」

 彼女はクロムさんのことを知らないはずだ。それなのに、彼のことが見えている。
 初めは驚いていたクロムさんも、ヴァイトちゃんの背に合わせて挨拶をした。

 「初めまして、クロム・ランナイトです」

 彼はそっと手を差し出した。彼女もそれに応えるように手を重ねる。

 「ヴァイト・エールよ」

 その様子にモモさんと顔を合わせて微笑んだ。

 「モモさんと話してたから見えたんですかね?」

 「どうかしら。でもこの子は周りをよく見ているから、私たちがいなくても声をかけていたかもしれないわね」

 クロムさんのことを知ったヴァイトちゃんは、モモさんと二人きりにしてしまうと不自然に見えてしまうかもしれないから三人でいようと提案した。

 まだやることが残っていた私は、名残惜しくも再びキッチンへと戻った。


 その後も色んな人たちがこの場に足を運んでくれた。

 「すごい、これ全部アカリちゃんが作ったの?」
 「スイーツは、そうですね。ドリンクやおつまみはシュベルトさんに手伝ってもらいましたけど」

 「とっても美味しいわ」

 「よければ作り方を教えてくれないか?」

 モモさん行きつけのスイーツショップの店主に褒められてしまった。

 「私でよければ」

 慣れない環境で今日まで生きてこられたのは間違いなく、この町の人たちのおかげだ。
 今日ここへ来てくれた人たちは皆、笑顔になってくれている。そんな時間が当たり前になればいいと強く思った。

 「お嬢さん、そろそろ休憩したらどうだ?ずっと動きっぱなしだろ?」

 シュベルトさんに言われて、パーティーが始まってから一度も休憩していないことに気がついた。

 「そうですね、では少し席を外してもいいですか?」

 「少しと言わず、ゆっくりしてきなさい」

 「ありがとうございます」

 私は紙袋を持ってキッチンを出た。


 まだまだ賑わっているパーティー会場で、ある人を探す。

 「あ」

 ……いた。
 見つけた先でも相変わらず人に囲まれている。

 私は軽く深呼吸をして近づく。そして後ろから彼の腕を軽く(つつ)いた。

 「クラネスさん、ちょっといいですか?」



 町の中を吹き抜ける風が心地良い。賑やかな場所もいいけれど、こういう時間も落ち着く。

 この店の外は目の前を遮る建物がなく、遠くの景色まで見える。
 少しの間、私たちはパーティーを抜け出していた。

 「パーティーって楽しいですね。初めて知りました」

 過去にこういった集まりがあっても避けてきた私にとっては初めての経験だった。

 「俺もだ。こんな大勢が集まる場なんて今までになかったからな」

 「楽しんでもらえてなによりです」

 お互い顔を合わせることなく、ここから見える町を眺めながら話す。

 「この町へ来た時は早く帰りたいって思ってましたけど、今は少しだけ帰るのが寂しかったりしてます」

 私の言葉に彼はそっと耳を傾けてくれている。

 「自分で見て、感じて、考えて、色んな思いに触れてきました。その中で、この町は私の心の奥で眠っていた本当の思いに気づかせてくれました。ここで過ごした時間は、私にとって大切なものになりました」

 身体をクラネスさんの方へ向けると、目を合わせてくれた。

 「クラネスさん。一人でいた私を連れ出してくれて、ありがとうございます」

 今日一番伝えたかったこと。
 全ての始まりはこの人との出会いから。クラネスさんがいなければ、今も私はあの部屋に閉じこもったままだっただろう。

 クラネスさんは、私の笑顔に照れているように見えた。

 「俺は誘拐犯じゃなかったのか?」

 「誘拐犯でも、いい人でした。私にとっては、す……」

 「ん?」

 「いや、なんでもないです!」

 好きな人ですから。なんて気持ちは奥にしまっておこう。
 なんでもないと言ったことについて、それ以上追求されることはなかった。けれど彼の表情は、どこか浮かなかった。

 「あかっ」
 「アカリ姉ちゃん!」

 クラネスさんに名前を呼ばれた気がしたけれど、タイミングよく中にいる子からも名前を呼ばれ、そちらに反応してしまった。

 「行っておいで」

 何と言おうとしていたのか聞く前に背中を押された。

 「あ、じゃあこれ!クラネスさんのために作ったので、よかったら食べてください!」

 勢いに任せてカップケーキの入った紙袋を渡した。

 「さっきの続き、また後で聞かせてくださいね」

 私は流れるようにしてこの場を去った。


 そして中に入ると子どもたちに囲まれてしまった。

 「アカリごめん。こいつらどうしてもって聞かなくてさ」

 サージくんが困ったように言った。
 「どうしたの?」と聞き返すとリンちゃんが隣に来て教えてくれた。

 「お姉ちゃんの歌が聞きたいなって」

 「歌?」

 「前に聞いた時とっても素敵だった!」
 「もう一回聞きたい!」

 期待の視線を寄せられているけれど、ここで歌うと他の人たちにも聞かれてしまう。
 聞かれて困ることではないけれど、なんだか恥ずかしい。

 「あ、それならみんなも一緒に歌おうよ」

 私の言葉にみんなは頷いてくれた。
 そして賑やかなパーティー会場に、可愛らしい歌声が響き渡った。


 日が沈むまで続いたパーティーは過去の思い出となり、皆が帰った店内はとても静かだった。

 「お疲れさん」

 「お疲れ様です、シュベルトさん。今日一日ありがとうございました」

 彼は準備から片づけまで、ずっと手伝ってくれていた。自分の店だから当然だと言われたけれど、私のわがままで一日付き合わせてしまった。

 「お嬢さんのおかげで久しぶりに店も明るくなって楽しかったよ。ありがとな」

 「そんな、とんでもないです。ここへ来てシュベルトさんには助けられっぱなしで、本当にありがとうございます!」

 初めて会った時から優しく声をかけてくれて、不安がっていた私を見守ってくれていた。今日も最後までやり遂げられたのは彼がいたからだ。

 「ま、お嬢さんのケーキを看板メニューにしてほしいとせがまれた時は、どうしようかと思ったけどな」

 「それは、すみません」

 こんな風に笑い合えるのもあと少し。
 窓から見える空を見上げると、町は暗くなっていた。

 「もうすぐ満月か。特にクラネスは寂しがるだろうな」

 シュベルトさんが呟いた。
 直接寂しいと言われたことはないけれど、そう思ってくれているのだろうか。

 「お、噂をすればだ。お嬢さん、迎えが来てるぞ」

 「え!?」

 そう言ってシュベルトさんに持っていた箒を取り上げられた。

 「今日は疲れてるだろうから早く休みなさい」

 一瞬驚いたけれど、これは早く帰れと言われている。

 「はい、ありがとうございました!」

 頭を下げると急いで外に出た。

 「先に帰ってたんじゃないんですか?」

 店の外にいたクラネスさんに声をかけた。

 「この時間に女性を一人歩かせるわけにはいかないだろ」

 パーティーが終わる前に店から出て行ったのを見ていたので、帰ったものだと思っていた。
 もしかして、わざわざ迎えに来てくれた?

 「ほら、帰るぞ」

 「あ、はい」

 先を歩く背中を追いかける。
 この時間に二人で町を歩くのは初めてだ。


 月明かりに照らされる静かな夜。歩いているのは私たちだけ。
 ペースを早め、私はクラネスさんの隣に並んだ。

 「クラネスさん、バレンタインって知ってます?」

 特に何の意味もなく話題を切り出した。

 「あぁ、前にヴァイトから聞いたことがあるな。大切な者にお菓子を贈る日だと」

 ヴァイトちゃんならそういうことに詳しそうだな。
 反応を見る限り、この町にバレンタインの風習はなさそうだ。

 「では、バレンタインにカップケーキを贈る意味をご存知ですか?」

 今日はバレンタインデーでもなければ、そんな風習もない町で生まれたクラネスさんからすると何を言っているんだと思われるだろうな。
 それでも私は、彼を置いてけぼりにして言葉を続ける。

 「カップケーキには、自分にとって相手が"特別な存在"である、という意味があるそうです。なんて、渡してから思い出したんですけどね」

 思い出した、ね。そんなの、今となっては嘘でも真実でもどちらでもいい。

 「花言葉や宝石言葉みたいに、お菓子にもそれぞれ意味があって、贈る相手のことを考えて選んでしまう人たちもいます。好きなものを好きな人に贈ればいいのにって思ってましたけど。普段言えない気持ちを、プレゼントに託して伝えるのも悪くないですね」

 受け取り手が贈り物の意味を気にするかは分からない。渡す側も、あわよくばそこに気づいてもらえればいいなと気持ちを乗せるだけ。自分の気持ちはおまけみたいなもので、本当に伝えたいことがあるのなら言葉にして伝えるべきだ。
 でも今の言葉はどこか他人事で、自分のものではないみたいに浮いている。
 私はそれでいいと思っていた。

 すると、隣を歩いていた足が止まった。

 「クラネスさん?」

 振り返って声をかけると、その視線は下を向いていた。
 伸ばそうとした手を握りしめ、次の言葉が紡がれるまでの間、私はそっと待っていた。

 「昼間に言いかけたことだが」

 彼は顔を上げ、前を向いて話す。

 あの時は子どもたちの声に掻き消されていたけれど、今はちゃんと聞こえる。
 聞きたいけれど、聞きたくない。
 どんな話をされるのか分からないのに心臓がうるさい。

 「灯は以前、俺の言う"好き"は、子に注ぐ愛情と同じだと言ったな?」

 「あ……はい」

 今度は私が視線を逸らした。

 「確かに幼い頃から灯のことを見ていて、愛らしいだの心配だのと思っていたのは、そういう愛情と呼ばれるものだったのかもしれない」

 ゆっくりと体の奥から熱いものが込み上げてくる。
 イタイ。胸が締めつけられる。

 「だが時間と共に感情も変化していくものだ。いつまでもそのままというわけではない」

 そう言うとクラネスさんは私の前に立った。

 「下を向いて、歩くことを諦めていた子が、自分の足で歩いて前向きに行動するようになった。その姿勢は、見ているこちらにも新しい感情を与えていると気づいていないのか?」

 「え……それ、は」

 震える声で返事をするのが精一杯。
 上げた視線が絡み、体が固まる。
 視界に入った彼の頬は、ほんのり赤くなっていた。

 「俺はその姿がとても好ましいと思った。灯は共に過ごす時間の中で色んな顔を見せてくれる。特に、皆に見せる笑顔は可愛らしくて独り占めしたいと思うほどに……これを聞いてもなお、俺の本当の気持ちは見えないか?」

 息を呑む音がうるさいくらいに耳に届いた。
 呼吸が乱れていくのが分かる。
 顔を合わせられない。
 でも、何か言わなきゃ……。

 「あっ」

 言葉を発したのと同時に視界が滲んだ。隠していたはずの熱が込み上げてくる。
 その雫が地面に落ち始めると、もう止めることはできない。零れる涙に感情を持っていかれる。

 「それは、本当ですか?」

 「本当だが、この気持ちを受け取りたくないと思うなら、聞かなかったことにしてもらっても構わない」

 泣いている私を見たクラネスさんは一歩引いてしまう。
 違う、そうじゃない。

 「嬉しい、です。けど、涙が……」

 本当は素直に受け取りたい。ありがとうと伝えたい。でも。

 「私、ここにずっといたいです。クラネスさんと、離れたくない……!」

 心の奥底に沈んでいた思いが、とめどなく溢れ出す。こんなことを言っても困らせてしまうだけなのに。
 そう分かっていても、涙が止まらなかった。

 彼は生きている世界が違う人。たとえお互いを思う気持ちが同じでも、その事実は変わらない。
 好きなのに、そばにいられない。

 「灯……」

 泣きじゃくる頭に優しい温もりを感じた。

 「本当は言わないつもりだった。それが正しいと思っていたから。でもその選択をすることで、後悔が残ると気づいた」

 反対の腕で、そっと私を抱き寄せる。

 いつかは離れなければならないと分かっているのに、恋に落ちるのはいけないことだと思っていた。叶わない気持ちに溺れるのは、自分が苦しいだけだから。

 けれど彼からは、そんな思いを溶かすほどの温もりを感じた。

 「好きだ」

 冷めきっていない身体が、伝わってきた彼の体温と合わさって更に熱を帯びる。
 私はクラネスさんの背に手を回し、力を込めた。

 好き。その気持ちを聞けた時、絡まっていた苦しみの糸が解けたように楽になった。
 叶わない気持ちに溺れて苦しむよりも、今ある気持ちをなかったことにする方がずっと辛い。
 二人の時間が永遠に続かなくても、二度と会えなくても、彼はまだここにいる。

 もう自分の気持ちに嘘はつけない。

 「私も、好きですよ」

 静かな灯りに照らされる中で、二人だけの時間が流れる。

 今の私にできることは、明るく着飾った声で言葉を交わすこと。
 満月の日まで、残り三日。それまでに覚悟が決まるだろうか。この温もりから、離れることができるだろうか。

 私が腕の力を緩めると、クラネスさんもその手を解いた。

 「帰りましょうか」

 そう言って、残りの道を二人並んで歩いた。


 家に着いてしばらくすると、月が雲に隠れてしまった。

 「私が帰る日は晴れますかね」

 ここを出るのは、月の見える夜。

 「天候が崩れることはあまりないから心配いらないと思うが、万が一雨が降ってもちゃんと帰れるから安心しろ」

 この町に来てから何度か雨は降っていたけれど、それが長く続くことはなかった。

 何気ない会話の中で、先程までの熱が残っていた私はなんの躊躇いもなく質問した。

 「クラネスさんは、私が離れたくないと言ったらどうにかしてくれますか?」

 「叶えてやりたい気持ちもあるが……新しいエネルギー源には人間の世界とこの世界を繋ぐ力がない」

 今二つの世界は夢で繋がっているけれど、それはエネルギー源のおかげであり、人の夢に頼らなくても成り立つ町ができれば、その繋がりは必要なくなる。当然会いに行ける手段も消える。

 最後に旧エネルギー源の力を使えるのは壊した後、僅かに力が残っている数日だと言われた。
 つまり私は、満月の日までに帰らなければこの世界から出られなくなってしまう。

 「ここに残ることもできるが、この世界にいる人間の時は止まってしまう。だから最悪町が無くなってしまった場合でも、灯は一人この地を彷徨い続けることになる。俺は、そうはさせたくない」

 クラネスさんの悲し気な表情に、次の言葉が喉に詰まる。

 「そんな辛そうな顔で言わないでくださいよ。ちゃんと帰りますから、安心してください」

 明るく振る舞う自分の声が頭に響く。
 大丈夫、ちゃんと帰るから。心配かけないから。ただ少し、寂しいだけで。

 夢はいつか覚めるもの。
 ここへ来た時に決めたはずだ。今日までの出来事は、長い夢だと思えばいいと。

 「灯は生きるべき世界で、好きな奴と生きろ。俺は好きな人が幸せならそれでいい」

 それを聞いた瞬間、私の中で何かが切れた。
 その勢いのままクラネスさんに近づく。

 「私はクラネスさんじゃなきゃ嫌です」

 正面からぶつけた答えに、クラネスさんは困ったように笑っていた。

 「全く、子どもだな。俺なんかよりいい奴はいるだろ。これから色んな出会いがあるんだから、視野を広くな」

 「俺なんかって言わないでください。私はあなたがいいんです。たとえクラネスさんに別の好きな人ができても、私は一生片思いのままでいいですので」

 私はいつからこんな自分勝手な人間になっていたんだろう。言葉だけでも「はい、分かりました」と言えばいいのに。
 一生片思いなんて相手にも迷惑だ。
 そう思っていたのに、返ってきたのは予想外の言葉だった。

 「可愛いことを言ってくれるな」

 そして顔を赤らめたクラネスさんに抱きしめられた。

 「なにも一途に愛してくれとは言わない。ただ、俺の存在に縛られて新たな出会いを見落とさないでほしいだけだ」

 同じ世界で生きられる人ではないからこそ、こんな風に言ってくれているというのは分かっている。
 だけど、愛おしくて大切な存在に会えない寂しさを私は知っている。それならせめて、言葉に残しておきたい。伝えられなくなってからでは遅いから。

 「視野は広く持ちますよ。だからクラネスさんを好きでいていいですか?」

 包まれた温もりの中、顔を上げて言った。
 この記憶を忘れないように。

 「俺は嬉しいが、なぜそこまでこだわる?」

 あ……目、逸らした。
 可愛いところもあるんだ、なんて心の中で微笑みながら考えた。
 今まで誰かをこんなに好きになったことがないから、初めての恋に舞い上がっているのかもしれない。
 それでもきっと、クラネスさん以上に好きになれる人はもう現れないと思うから。こんな素敵な相手は他にいない。

 「それくらいクラネスさんのことが好きってことですよ」

 言葉にしたのはこれだけだった。
 自分でも酔いそうになるくらい甘くて、こんなことを考えているのが信じられない。
 でも素直になった途端、心も身体も軽くなった気がした。

 「そうか、灯はそんなに俺のことが好きだったのか」

 彼は嬉しそうに頷いていた。
 そうだ、クラネスさんはこういう人だった。
 私が好きを伝えたせいで、調子に乗るかもしれない。そう気づいた時にはもう遅かった。

 「そこまで言うなら、俺も灯の好きなところを教えてやろう」

 「え、あの」

 こうなると私の声は届かない。

 「まずは可愛らしい笑顔だな。それから寝顔が可愛いところ、その声で名前を呼んでくれるところ、歌声も好きだな。あとは素直に気持ちを打ち明けてくれるところ、手を引っ張ってくれるところ、真実を見ても逃げないで向き合ってくれたところ」

 「あー!もういい!」

 声を上げて続く言葉を遮った。
 この調子だといつ終わるか分からないし、何を言われるか分からない。

 「好きなのは伝わりましたから、もういいです」

 私は手で顔を隠した。
 これ以上は、さすがに恥ずかしい。

 それを見たクラネスさんは、ふっと笑って腕の力を緩めた。

 「さて、もう遅い。今日は疲れただろうから早く休めよ」

 「はい、おやすみなさい」

 肩に手をトンっと置かれ、クラネスさんは部屋を出ていってしまった。



 私は寝る支度を手早く済ませ、布団に潜った。

 「パーティー楽しかったなぁ」

  天井を見上げて今日のことを思い出していた。

 一日で一週間分の体力を使い果たした感じがする。
 パーティーの準備から動き回って、みんなと会って話ができて楽しかったな。帰りにはあんな……。

 あ、私告白されたんだ。

 忘れていたわけではない。一時的に記憶から消していただけで、ちゃんと覚えている。
 思い出すとまた体が熱くなってきた。

 眠れるわけがない。告白をされたら冷静になれるはずがない。
 思い返せば私も雰囲気に流されたとは言え、あんなことを……。

 「あー、忘れたい」

 告白された事実だけを残して後の記憶は消したい。泣いたし抱きついたし、好きとか言ってたし。あんなの私じゃない。
 幻滅されていたらどうしよう。やり直したい。今度は泣かずにちゃんと返事をするから。

 「はぁぁぁぁ」

 なぜ寝る前に思い出してしまうのか。
 それに今は、会えなくなる寂しさよりもあの距離感の恥ずかしさの方が勝っている。

 「至近距離で見たクラネスさん、普通にかっこよかった」

 背中に乗った時の頼もしさも、抱きしめられた時の温もりも、笑顔を向けてくれた時も、胸が締めつけられるほど、どうしようもなく好きだと思った。

 誰かを好きになるって、こんな感じなんだ。温かくて痛くて寂しくて優しい。思い出すだけで幸せになれる。忘れたくないもの。

 「……好き」

 鮮明な記憶を抱きしめるように、私は眠りに落ちた。


 何もない、真っ白な空間。
 この場所に来るのは何度目だろう。

 私また風邪引くのかな。
 こんな大事な時に、それは困る。

 辺りを見渡しても、あの影はいない。
 もしかして違う夢?


 ――灯。

 どこからか優しい声が聞こえてきた。

 「誰?」

 私は後ろを振り向いた。


 「灯」

 そこには誰もいなかったはずなのに。

 「お母さん……」

 淡い光に包まれている母親が見えた。
 夢だ……これは夢だから。
 でも、今まで一度も夢で会ったことはなかった。

 私は引き寄せられるように足を動かした。
 その姿はよく覚えている。いつもそばで笑ってくれていた、太陽のような人。辛い時は励まして、悲しい時は寄り添って、楽しい時は一緒に笑ってくれる人。

 「お母さん!」

 「灯、大きくなったね」

 これは夢だ。分かってる。
 私は駆け寄った先で、その人の顔を見た。

 「会いたかった」

 言葉と共に涙が溢れる。


 「灯、ずっと見てたよ。よく頑張ったね」

 その笑顔に手を伸ばす。

 「え……」

 左肩辺りに触れた指が止まった。
 少し透けているように見えたから、触れられると思わなかった。

 「知らない場所で怖かっただろうけど、素敵な人たちと出会ったね。お母さん、嬉しくなっちゃった。灯もあんな風に笑えるんだね。お母さんそっくり」

 嬉しそうに話す母親の手が私の頬を包んだ。その冷たい手が、現実ではないことを実感させる。
 都合のいい夢だな。本当に会えても、お母さんは私にこんなことを言ってくれるのかな。こんな風に笑ってくれるのかな。流した涙を拭ってくれるのかな。

 「灯。お母さんからお願いがあるんだけど、いい?」

 「お願い?」

 「今の灯にならできることだよ」

 包んでいた手をそっと離して私と向き合った。
 その笑顔は温かいけれど、寂しい。

 「歌って、灯」

 「歌?ここで?」

 「ううん、この夢から覚めた時。図書館に行くの」

 図書館……エネルギー源。

 「どうして、そのことを……あ、夢だからか」

 今の私の状況を知っているのは、私が見ている夢だから。
 一人納得した私を見た母親は、わざとらしく悩んでいた。

 「うーん。それじゃあ、起きたら窓の外を見て、雨が降ってたらお母さんのこと信じてくれる?」

 私の言うことは真実だと、瞳の奥が訴える。
 信じるって、目の前にいる人は幻想ではないということ?
 もしそうなら私は今、死んだはずの母親と会話をしている。
 ……あの世界があるくらいだから、もうなんでもありなんだろうな。
 私は考えることをやめて冷静になった。

 「雨か晴れなら二分の一じゃん」

 それくらいなら当たろうが外れようが変わらない気もする。
 母親は昔と同じように、私のツッコミに楽しそうに笑っていた。

 「そうだね、まぁどちらでもいいよ。とにかく明日歌ってほしいの」

 クラネスさんに歌ってほしいと言われたのは明後日。目が覚めたら明日になるけれど。

 「明日は一日雨。だけど朝方、一瞬だけ晴れる時間があるの。その時に歌って」

 明日、つまり今日。

 「どうして?」

 「明日の午後に嵐が来る。そのせいで灯が元の世界に帰れなくなってしまう。でも彼の作ったエネルギーなら、そんな嵐も吹き飛ばしてしまうから」

 天候が崩れることはあまりないと聞いた日にこれか。
 私が歌うことでエネルギーが動き出し、嵐を吹き飛ばすといったシナリオ。そんな力があのエネルギー源にあるという話は聞いたことがない。
 これが嘘だった場合、多くの人に迷惑をかけるのは目に見えている。

 「信じ難いけど、一応頭には入れとくよ」

 私は軽く言葉を返した。
 この人は嘘をつけるようなタイプではないし、私を傷つけることは言わない。それは夢であっても同じだ。
 大体全部顔に出るから最初から分かってたけどね。
 最後にどうするかは私が決める。

 「ありがとう。……やっぱり変わったね、灯」

 「えっ?そうかな」

 「うん、目が違う。それならもう迷子にならないね」

 そうだね、今はちゃんとやりたいことが分かっているから。もう見失わない。

 「私が変われたのはクラネスさんやみんながいたからだよ。私の力じゃない」

 そう言い切った私に不敵な笑みを向けてきた。

 「でもその彼に、変わっていく姿に惹かれたって言われたんでしょ?なら自信持たなきゃ」

 「そんなことまで知ってるの!?」

 思いもよらない発言に顔が熱くなった。

 「ずっと見てたからね」

 私のことを面白がっているのか、無邪気に笑っていた。

 「みんなと出会って変われたのは本当で、周りの環境が灯をそうさせたのかもしれない。でも、変わろうと決めたのは灯自身でしょ?その覚悟を信じなさい」

 私に言葉を遺すその顔は、紛れもなく一人の母親だった。それも子を守る母親ではなく、私の背中を押してくれる心強い母親(みかた)

 「そうだね。お母さんに言われちゃったら、信じないと」

 私が笑いかけると、母親を包んでいた淡い光が(まばゆ)く光り始めた。

 「前向いて走ってる灯、とってもかっこいいよ。これからもお父さんと見守ってるからね」

 焦りも不安も悲しみさえも感じさせない、いつもの笑顔を見せてくれたお母さん。それに応えるように私も笑う。

 「うん。ありがとう」

 ずっと言いたかった感謝の五文字だけを伝えた。
 白い空間に同化していく。

 「大好きだよ、灯」

 最後まで笑顔を絶やさなかったあの人は、さようならもまたねも言わずに消えていった。
 私一人が残ったこの場所で、光の粒子が舞っている。


 私は明晰夢から目覚める方法を知っている。

 少しの時間だったけど、会えてよかった。
 私も大好きだよ、お母さん。

 夢の世界に別れを告げ、私は私に、母親から託された願いのバトンを渡した。



 静かに目を開いた。時刻は明け方。

 夢を見ていたのに疲労感も眠気もない。ただ、すっきりとはしなかった。それはこの天気のせいだろう。
 私は布団から起き上がり、窓に近づいた。

 「雨だ」

 昨晩から天候が怪しかったから、こうなることも予想できた。
 いつから降っていたのか分からないけれど、大粒の雨が町を濡らしいてる。

 私は窓についた水滴が垂れていくのをしばらく眺めていた。

 「二分の一だもんな」

 水滴を内側から触れ、気だるげに呟く。
 お母さんが言うには、朝方にこの雨は止む。それもほんの少しの間だけ。
 不確かな夢で言われたことを私が勝手に信じるだけで、他の人を巻き込むわけにはいかない。やるなら一人でやらないと。
 雨音に飲み込まれそうになる意識を手繰り寄せる。
 考えたくはないけれど、もしものことがあってはいけない。

 我に返り、急ぎ足で机に向かう。
 ノートを一枚破ってペンを走らせた。
 最悪、私がここへ帰って来られなくなるようなことがあれば……そう思った私はメッセージを残した。

 途中、手が震えて文字が弱々しくなったり、涙ぐんで書けなくなることもあった。

 それでもなんとか最後まで書ききることができた。


 普段なら朝日が出ている時間。今は曇り空。

 手紙を折り込み、気づいてもらえるようにテーブルの真ん中に置いた。
 クローゼットからワンピースを取り出し、着替えて身だしなみを整える。鏡の前に立ち、最後にバレッタをつけた。

 クラネスさんが作ったエネルギー源は作業部屋にある。
 今日は自分の部屋で眠っているから、こっそり忍び込んで箱の前に置いてある原石を持ち出せた。
 そっと持ち上げて右手を下に、左手を側面に添える。

 家の中を歩いて移動し、クラネスさんの部屋の前に来た。
 本当は話すべきか悩んだ。きっと、なぜ相談しなかったんだと言われるだろうから。
 だけど答えは変わらなかった。

 私は小声で言葉を零す。

 「ごめんなさい。いってきます」


 外に出ると東の空に晴れ間が見える。雨は小降りになっていた。
 天候のせいか、外に出ている人はいない。

 軽く深呼吸をして前を見た。


 行こう。


 手の中にあるものを落とさないように、駆け足で向かった。

 雨上がりの空気は澄んでいて気持ちがいい。
 たまに水たまりを飛び越えたりしながら進む。
 聞こえてくるのは自分と足音と風の音だけ。
 何度も行き来したこの町が雨に濡れて、綺麗な星を纏っているように見えた。

 私、この町が好きだ。見える景色全部好き。
 出会えたみんなのことが好き。
 好きが詰まったこの場所を、私は一気に駆け抜けた。