山を下りたのは、黄昏色の空が広がる時間だった。
足の怪我を診てもらうために医者を呼び、私はヴァイトちゃんの家に泊めてもらうことになった。
「灯を頼めるか?」
「まかせて!」
クラネスさんは作業があるらしく、深紅石を持って先に帰った。今回は何やら手の込んだことをするようで、しばらく部屋から出られないとのこと。
「そばにいてやれなくて悪いな」
「お気にならさず」
ベッドに寝転んだままクラネスさんを見送る。
私は誰もいなくなった部屋で布団を被った。
今日のあれ、なかったことにしたい。今になって恥ずかしさが込み上げてくる。
もう少し別の言い方があっただろとか、あのタイミングでなくてもよかっただろとか、自分に対して文句を言っていた。
告白も流れるように終わったし、本当何やってんだろ私。
「あーもう!考えてたって仕方がない。もう終わった恋なんだ。早く忘れよ」
被っていた布団から勢いよく起き上がった。
安静にしていろと言われても、人様の家でじっとしているのは落ち着かない。
次の日の午後になると足の腫れは引いていたし、まともに歩けるようにもなったので、私はキッチンを借りていた。
「ヴァイトちゃん、喜んでくれるといいな」
山で転んだ時に顔にも擦り傷を作ってしまったらしく、ヴァイトちゃんが手当をしてくれた。
そのお礼に、彼女はラズベリーが好きだと聞いたので、ベリーを使ったタルトを作ることにした。
「アカリ様、何かお手伝いすることはございますか?」
料理人から声をかけられた。
キッチンの使用許可をもらえただけでありがたかったんだけれど、ずっと後ろに立たれているのも気まずい。
「じゃあ、タルトの生地をお願いしてもいいですか?」
その後、特に会話が弾むこともなく、お互い黙々と作業を進めていた。
――
「これ、アカリが作ったの?」
完成したタルトをヴァイトちゃんの元へ持って行くと、彼女はしっぽを揺らしながら一口食べてくれた。
「美味しい!」
私が眠る前、小さな体で部屋を何度も行ったり来たりしていた。体調はどうか、何か欲しいものはあるかと聞いてきたり、替えのタオルや水を持ってきたり、とにかくずっと動き回っていた。
クラネスさんの頼みだから張り切っていたのか、そこまでしてくれるとは思わなかった。案の定、途中で疲れて私がいた部屋で眠ってしまい、使用人に連れられて部屋に戻って行ったけれど。
初めは私のことを恋敵か何かだと認識されているものだと思っていたけれど、そうではなさそうだった。なぜなら、ベリーのタルト作ったらすぐに懐いてくれたから。
「こんなに美味しいベリータルトは初めて!」
それにしてもさっきからすごく喜んでくれている。
ここには料理人もいるから、私が作ったもので満足してもらえるか不安だった。
そんな私の前で彼女は目を輝かせ、頬を薄紅色に染めている。それを見ているこちらまで幸せな気分になってしまう。
作ったのはごく普通のベリータルトだ。初心者でも作れるような簡単なもの。
「料理人さんが作る方が見栄えもいいし、美味しいんじゃない?」
私の言ったことにヴァイトちゃんは首を横に振った。
「スイーツはあまり食べないの。誕生日や特別な日にだけ出してくれるし、普段は栄養バランスを考えた体にいい食事ばかりだから、つまんないの」
それもヴァイトちゃんのためを思ってのこと。
子どもには好きなものを食べさせてあげたい気持ちもあるけれど、好き嫌いなく食べてもらえるように頑張っていると、料理人も言っていた。
「今日も、野菜食べなさいって言われた。ちゃんと食べてるのにー!あと部屋の片づけもしなさいって……あれのどこが散らばってるって言うのー!」
ヴァイトちゃんは頬を膨らませていた。
使用人たちも彼女とどうやって接していけばいいのか模索しているらしい。
そういえば、ここはみんな一緒に住んでるんだよね。ヴァイトちゃんも使用人たちも。こんな大勢が住んでいる家は他にはないはず。
彼女の体質あってのことなんだろうけど、ヴァイトちゃんはどう思っているんだろう。
「ここにいるのは窮屈?」
ヴァイトちゃんは、その問いに少し悩んで俯いてしまった。
「私はここにしかいたことがないから、他がどんな風になっているのか知らない。でもみんな、ヴァイト様って私の機嫌を伺って接してくるから、ちょっと窮屈かもしれない」
好きだから、大切に思っているからこそ、嫌がられない距離で接したいけれど分からなくて空回りしてしまう。それが本人にまで伝わって、ヴァイトちゃんもどうすればいいか分からないといったところだろうか。
大切なものほど手放したくないし、嫌われたくない。だからといって距離を取りすぎてしまうと、その人がどこかへ行ってしまいそうで不安になる。
私は今、誰を思ってこんなことを考えているのだろう。
「だけど、みんながいてくれるから寂しくはないの。みんながいてくれるから、私がいられる。そんな場所があるって幸せなことだよね」
ヴァイトちゃんまでそんな風に笑うんだ。
この子はきっとこの世界のことを知っている。
今が幸せだと気づいて言葉にできる人は多くはないだろうから、それを伝えられるヴァイトちゃんは素敵な子だ。
私は、この話を誰かがこっそり聞いているのを知っていた。その人たちにも聞こえるように答えた。
「そうだね。みんな一緒で幸せだね」
ここにいる人たちはこれからも変わらず、ずっと一緒にいるんだろうな。