その日の夜。私はクラネスさんの部屋にいた。
自分の意志を伝えるために。
『私のことが大切なら、私の気持ちを優先してくれますよね?』
弱みに漬け込んだみたいで卑怯ではあるけれど、それくらいしないと聞いてもらえないと思った。
私の答えに、もう迷いはない。
「私は、この町で生きている人たちが心から笑える未来を作りたい。この町が安心して暮らせる居場所であってほしい。そのために私ができるのは、続く可能性を信じて歌うこと。だから、受け取ってもらえますか?」
言い切った。これが私の願い。町の人たちと関わることで見つけた答え。
端的に言えば、私はクラネスさんのエゴに巻き込まれた部外者で、その上歌声までも取られてしまう。
それでも託すと決めたのは、大切なものを犠牲にしてでも守りたいものがあると気づいたから。それが偶然クラネスさんだっただけで、異世界の町だっただけで、その答えに悔いはない。
あとはクラネスさんからの言葉を待つだけだ。もっとも、そこに選択の余地なんてものはないけれど。
「あぁ、受け取らせてもらおう。子どもたちと接している姿を見て、ちゃんと前を向いているのだと確かめられたからな」
「あれ?もしかして私、試されてました?」
嘘つきの笑顔を貼りつけると、勝手に言葉が零れてくる。
歌が歌えなくなったっていい。それだけが自分と母親の記憶を繋ぐものではないから。それに父親への思いも見つけることができた。大切なものは歌以外にも沢山ある。
でも、たったひとつだけ心残りがあるとするならば。
……私の歌声を好きだと言ってくれた人のために歌えなくなるのは、辛いです。
そう素直に言えたら楽になれるのに。矛盾した気持ちを伝えれば、クラネスさんに歌声を受け取ってもらえない。新しいエネルギー源が完成しない。だから隠せ、これだけは。
「だが、歌声は一番最後だ。エネルギーを動かすために必要な力で、完成したものの前で歌ってもらう」
次で集める材料は最後。終われば、もう二度と会うことはない。今まで通りやれば気づかれないし、隠し通せる。大丈夫だ。そう思っていたのに。
.
.
「灯、それ取ってもらえるか?」
「は、はい!」
話しかけられる声やお互いの距離。触れる肩や指先。
「灯、次の交渉相手なんだが」
「え!?あ、はい」
意識してしまっているせいか、過剰に反応してしまう。私は自分の感情を隠すのがこんなに下手だっただろうか。
特に。
「灯」
名前を呼ぶ声が頭から離れない。今までだって何度も呼ばれてきたけれど、こんなに動揺することはなかったはず。
このままでは怪しまれてしまう。
「すみません!私やることあるので!」
距離を置けば何とかなる。そんなやり方しか思いつかなかった。
「最近変じゃないか?」
「……なにがですか」
いつもように夕食を食べていた時、突然投げられた言われたくない言葉に目を逸らした。
「避けられているのは最初からだから、それは別にいいんだが」
気づかれていた。
確かに最初は避けていたとはいえ、最近では周囲に指摘されるほどお互いの距離は近くなっていた。それなのに、また避け始めると怪しまれるのは当然のこと。
今までどうやって隣を歩いてたっけ。どこを見て話してた?そんな些細なことを考えてしまうほど、今の状況に耐えられなくなっていた。
「悪いが明日は一緒に来てもらうぞ?最後の持ち主に会いに行く」
「はい!ヴァイトさんのところですよね?」
話を聞いている時間でさえ集中できていなかったけれど、持ち主についての話だけはちゃんと聞いていた。
そして翌日、訪れたのはこの町で一番大きな洋館だった。
ここまで来るのに会話はなく、歩く時も人一人入る分の間を空けていた。
ベルを鳴らして中から主が出てくるのを待つ時間でさえ気まずい。
「あー!クラネスだ!」
家から出てきたのは可愛らしい女の子。クラネスさんを見つけると迷うことなく飛びついてきた。
「えっ」
その光景に目が点になった。
「いつものことだ、気にするな」
彼女は私と六歳ほど年が離れている。つまり子どもだ。
「ヴァイト様、クラネス様が困っておられますよ」
ヴァイト様って……洋館に住んでいて、使用人がいて、この子もしかしてお嬢様だったり。
「いいの!私、クラネスのこと好きだから!」
使用人に向かってヴァイトちゃんは笑顔を見せていた。
その様子に私は黙ってクラネスさんの方を見た。
「いつものことだ」
「いつも……」
「俺を見つける度に飛びついてきて、しばらく離れない」
あー、だからか。ここへ来る前やたらとため息が多いと思っていた。
クラネスさんは少し鬱陶しいと思いながらも、それを彼女に悟られないように接している。
それにしてもこの子、クラネスさんにべったりだな。
いや別に、嫉妬とかしてない。
彼女はヴァンパイアで、クラネスさんとは同種族なわけで、年は離れてるけれど同じ世界に生きている人たちだから、私なんかより釣り合うのは分かる。まだ自分の気持ちを言えていないからって嫉妬とか別に。子ども相手だし、なんとも思ってないと心の中でぶつぶつ言っていた。
そんな私を見て、クラネスさんは笑っていた。
「妬いてるのか?」
「違います!」
顔に出していないはずなのになんで……いや、そもそも妬いてないし。
「皆様、中へどうぞ」
使用人の言葉に頷いて足を動かした。
私は何さっきから自分に対してツッコミを入れているのだろう。何とも思っていないのなら、気にしなければいいのに。
洋館の中に入ると広間に案内された。使用人が数名いる。おしゃれな内装に、高価な家具。
私の向かい側には、クラネスさんとヴァイトちゃんが並んで座っている。
ヴァイト・エール。
闇魔族のヴァンパイア。ツインテールで赤色の瞳をしている。羽もしっぽも本物みたいで、動いている。
生まれつきの愛され体質らしく、彼女を見ると世話を焼きたいと思う人がいるらしい。そのため一緒に住んでいる使用人たちは、ヴァイトちゃんが望んだわけではなく勝手に世話をしている。
以前クラネスさんが作っていたクラッカーの防犯グッズや、モモさんとリィンさんがデザインした洋服は彼女のもので、使用人が依頼したらしい。
ヴァイトちゃんは、この町で有名なお嬢様だった。確かに可愛いし、世話を焼きたくなるのも分かる。分かるけども……。
「ヴァイト、例の話なんだが」
「うん!」
やっぱり近くないか!広いソファに座っているのに、二人の距離はほぼゼロ。
クラネスさんのことが好きなのは十分伝わってきた。私もそこまでされてわざわざ引き離そうとか考えていない。
ただ、ヴァイトちゃん。私の方を見てニヤけるのをやめていただきたい。
「あぁ、その石なら洞窟に沢山あるよ」
「洞窟ですか?」
「家の所有している山の中にあるし、それなりに整備されてるから勝手に取って行っていいよ」
最後の材料は鉱石。
ちらっと二人の方を見ると、ヴァイトちゃんはクラネスさんと離れたくなさそうにしていた。
私はワンピースを着ていて山登りに適している格好ではないけれど、整備されてる道なら大丈夫かな。
「じゃあ私、行ってきます」
クラネスさんと二人きりにならずに済むなら一人で行った方がいい。
「灯一人じゃ危険ではないか?」
立ち上がった私に声をかけてくれた。
「大丈夫ですよ。日が沈むまでには帰ってきますから」
今はまだ午後の明るい日差しが届いている時間帯。夕方までに帰ってくれば何とかなるだろう。
家の裏は辺り一面山だった。
目印として洞窟への道にある木々にはロープが結ばれている。一本道で迷うことはない。
普通の山道だけれど、急な坂もないし、不安定な階段もないから案外平気かもしれない。
洞窟の前にはヴァイトちゃんが遊べるように花畑を作っているらしい。そこを目指して歩く。
「はぁぁぁ」
自然の空気を吸えば頭を空っぽにできると思っていた。
でもなぜか私は、人気のない場所に来ると考え事をしてしまうらしい。
クラネスさん大丈夫かな。ヴァイトちゃんの扱いには慣れてそうだったけど。
気になって無心で歩くことができない。
私もヴァイトちゃんみたいに気持ちを言えたらいいのにな。
素直になったとして、私は何を言うつもりなんだろう。
「いっそこのまま、うわっ!?」
独り言に気を取られ、その衝撃に目をつぶった。
私は冷たい地面にうつ伏せになって倒れていた。足元には飛び出ている木の根。これに躓いたらしい。
転ぶとか子どもじゃないんだし。こんなところを誰かに見られなくてよかった。
ゆっくりと立ち上がり、服についた土を払う。
「いっ……」
歩こうと左足に力を入れた瞬間、電気が走ったような痛みに襲われた。
転んだ時に捻ったのかな。
一度引き返そうかと思ったけれど、こんな格好のまま手ぶらで帰ったら転んだことに気づかれる。せめて鉱石を持って帰らないと。
私はできるだけ左足に負担がかからないように歩いた。そうすることで痛みは和らぐけれど、その分時間がかかってしまう。
感覚的に転ぶまで半分は登れていたと思う。その後は痛みに耐えながら進むことに必死で、どれくらい歩いたかなんて考えなかった。
それから少しして。
「嘘でしょ……」
目の前には木でできた階段。この上に花畑があって、洞窟がある。つまりこれを登らなければならない。
行くしかないか。
ここには掴まれる木や手すりはない。
「うっ……くっ……」
息を零しながら、崖の断面に手を添えて一段ずつ上がっていく。
こんな階段、怪我なんてしていなければすぐに登れるのに。時間が経てば傷も悪化する、急がないと。
そう頭では分かっていても、体は思うように動いてくれない。最後の段を登りきる頃には息が切れていた。
「はぁ、はぁ……つい、た」
言われた通りそこには色とりどりの花が咲いている花畑があった。とても綺麗だけれど今は景色を楽しんでいる余裕はない。
顔を上げると数メートル先に洞窟が見えた。
花に囲まれた道を真っ直ぐ進み、洞窟の岩壁に手をついて中を覗くと、暗闇に赤く光る石がいくつもあった。
「これだ、深紅石」
この洞窟にしかない珍しいもの。濃い赤色をしている手のひらサイズの鉱石。
どれも地面に転がっているため、しゃがまないと採れない。右足に重心を置き、少しずつ地面との距離を縮めた。
「あ!」
途中で足が滑って、座り込んでしまった。おかげで鉱石には手が届いたけれど、ここからまた立たなきゃいけない。
来た道を戻らなければ。私は洞窟の中から花畑の向こうに見える木々をぼんやりと眺めていた。
このペースだと三十分以上はかかってしまう。そうなると、この左足が持つか分からない。
軽く足首に触れると、そこは熱を持って腫れていた。冷やして治るまで安静にしないと……ここが山でなければ。
少し休もうかな。
洞窟の中は涼しくて気持ちがいい。それに、下りるための体力を回復させたかった。
でも、急がなきゃ。
空はいつの間にかオレンジ色になっていた。このままでは夜になってしまう。
私は近くの岩に手をついて立ち上がろうとした。
「灯?」
突然視界が陰り、顔を上げた。
「え……」
そこにはクラネスさんがいた。
「どうしたんですか?」
気が抜けていたせいか、力のない声を上げてしまった。
「一人では心配だから、様子を見に来たんだが」
クラネスさんは、じっとこちらを見つめていた。
そうだ。私は今、服を汚してしゃがみ込んでいる。黙って顔を上げているだけだと怪我に気づかれてしまう。……何か言わないと。
「洞窟の中、気持ちよかったから休憩していたんですよ。すみません」
私は咄嗟に笑顔を作った。
「みんな心配しているから、早く下りるぞ」
彼は私に背を向けて歩き出した。
今のうちに立って追いかけないと。
岩に両手をつき、体重を預けるようにして立ち上がった。まだ痛みは引いていない。
私は怪我に気づかれないよう、できるだけ普通に歩いた。
花に囲まれた道の中。前を歩く背中を追いかけていたその時、ぱっと彼がこちらを振り向いた。
「わぁっ!」
驚いた私は、目を閉じて尻もちをついてしまった。
芝生があったおかげでそこまで痛みは感じなかったけれど、つぶっていた目を開けた時、目の前にはクラネスさんがいた。
「お前、怪我してるだろ」
「えっと……」
青色の瞳に見つめられ、目を逸らせない。
「見せてみろ」
腫れていた左足を見せた。
どうなっているか見なくても分かるから、私は視線を外した。
「どうして分かったんですか」
クラネスさんは持っていた布を足首に巻いてくれていた。
「歩く音だ。まぁ洞窟の中に座り込んでいる時点で怪しいとは思っていたが、隠すつもりだっただろ?だからわざと脅かした」
ばかだな。普通に考えたら気づかれると分かるはずなのに。上手く頭が働かないせいで、余計に迷惑をかけてしまった。
「ひとまずこれで」
左足を固定し終わったクラネスさんは私と距離を詰めてそのまま顎を掬い、強引に視線を重ねた。
「いいか怪我人。今から俺の言うことはなんでも聞くと約束しろ」
その目は怒っているのか、愉んでいるのか分からない。ただ、逃げるなと言われていることだけは分かった。
「……はい」
私は、そう返事をすることしかできなかった。
「乗れ」
クラネスさんは背中に私を乗せて山を下りると言った。
「いや、さすがにそれは……」
「約束」
「……」
背中から見えない圧を感じる。
私は、土に触れた手で彼の服を汚してしまわないように、黙って腕を回した。
静寂の中で地面を踏む足音と、風に揺れている葉の音が聞こえる。
しばらく無言の時間が続いていたけれど、クラネスさんが口を開いた。
「最近俺のこと避けてただろ?」
その言葉に鼓動が早まる。
「……バレてました?」
騒ぐ心臓に振り回されず、言葉を探す。
「隠したいことがあるならもう少し上手くやれよ」
「クラネスさんに言われたくないですよ」
後ろから彼の表情は見えない。
見えないのなら、言ってしまおうか……全部。
山の中は薄暗い。もうすぐ夜になる。
「クラネスさん。私、ずっとクラネスさんに言いたかったことがあるんです」
「なんだ?」
その足は止まることなく進み続ける。
私は彼に届くように優しく言った。
「私が怖いって言ったから、夜は会わないようにしてくれてますよね?」
「……そんなつもりはなかったが」
今の間は、多分図星。
「気にしてたから、容姿を変えたんでしょ?気づいてますよ」
「……」
夜になると私の前には現れないようにしていると気づいた日。実はこっそりコンタクトをつけて部屋を覗いていた。
以前私は、少女漫画に出てくるようなイケメンの吸血鬼だったらよかったのにと言った。それは本来の姿がイケメンではないというわけではなく、少し視線が冷たかったり、青白い肌に傷があったりして、普段との温度差に怖がっていたから。
「できるだけ、今の姿と変わらないようにしてますよね」
その日私が見たのは瞳の色が変わっただけの、いつも通りのクラネスさんだった。
容姿を変えるものなんて、この人ならすぐに作ってしまうだろうから、私に言われた翌日にでも試していたのかもしれない。
「どうして怖がっていいなんて言ったんですか」
「灯を不安にさせたくなかったからだ」
「でも気にしてたんですよね」
「気にしていたわけではない。ただ、好きな人にとって理想の姿でありたいと思っただけだ」
好き。
淡々と過ぎる時間の中で、その言葉だけがふわりと浮いていた。
私は、手をきゅっと結んだ。
「どんな姿になっても、クラネスさんはクラネスさんです。……私が好きなことには変わりないですよ」
「それは、どういう意味だ?」
返ってきた言葉は先程までと変わりない調子だった。
私は自分にも聞こえるように言った。
「言葉通りの意味ですよ。私はクラネスさんのことが好きなんです」
この人、私に対して抱いている感情はあるくせに、私の気持ちには気づいていなかったんだ。
そうなると私が避けていた理由は本当に分かっていなくて……それはそれで、ちょっと申し訳ないことをしたかもしれない。
少し間が空いた後、私は言葉を続けた。
「クラネスさんは私のことが大切だとか、好きだとか言ってくれてますが」
「あぁ」
「……クラネスさんの言う好きは、恋愛感情の好きではないですよね?」
「では恋愛の好きとはなんだ?」
言葉だけじゃ本当はどんなことを思っているのか分からない。
知りたい……喜びか、悲しみか、哀れみか、迷惑に思っているのか。
「私を気遣ってくれているなら、その必要はないですよ。もう分かってるので」
「……」
私は軽く息を吐いた。
これで最後だ。
「クラネスさんの言う好きは、親が子どもに注ぐような愛情と同じですよね。小さい頃から私のことを見ていたのなら、その成長過程を見守る中で芽生えた愛情」
声が震える。
次の言葉が紡がれるまでが長く感じる。
「……どうだろうな」
「そこ曖昧にする必要あります?」
笑い混じりに言い返した。
その後、何も言葉は続かなかった。
私は、いつから好きだと気づいていたんだろう。
一緒に過ごす時間の中で距離が縮まって、彼の隣が心地良くて、見えていなかった優しさに気づいて、どうしようもなく好きだと思った。その形は不器用で繊細なものかと思えば、急に言葉にしてこちらを見つめてくるし、私から近づくと一歩引かれてしまう。
私はクラネスさんの肩に、こつんと額をつけた。
人生初告白だったんだけどな。
初めから上手くいくなんて思っていなかった。唯一ありがたかったのは、彼がいつも通りに言葉を返してくれたこと。変な空気になることなく、聞き流すわけでもなく、いつもと変わらない時間の中にいられたこと。それだけで十分だった。
これでもう、思い残すことはなにもない。
山を下りたのは、黄昏色の空が広がる時間だった。
足の怪我を診てもらうために医者を呼び、私はヴァイトちゃんの家に泊めてもらうことになった。
「灯を頼めるか?」
「まかせて!」
クラネスさんは作業があるらしく、深紅石を持って先に帰った。今回は何やら手の込んだことをするようで、しばらく部屋から出られないとのこと。
「そばにいてやれなくて悪いな」
「お気にならさず」
ベッドに寝転んだままクラネスさんを見送る。
私は誰もいなくなった部屋で布団を被った。
今日のあれ、なかったことにしたい。今になって恥ずかしさが込み上げてくる。
もう少し別の言い方があっただろとか、あのタイミングでなくてもよかっただろとか、自分に対して文句を言っていた。
告白も流れるように終わったし、本当何やってんだろ私。
「あーもう!考えてたって仕方がない。もう終わった恋なんだ。早く忘れよ」
被っていた布団から勢いよく起き上がった。
安静にしていろと言われても、人様の家でじっとしているのは落ち着かない。
次の日の午後になると足の腫れは引いていたし、まともに歩けるようにもなったので、私はキッチンを借りていた。
「ヴァイトちゃん、喜んでくれるといいな」
山で転んだ時に顔にも擦り傷を作ってしまったらしく、ヴァイトちゃんが手当をしてくれた。
そのお礼に、彼女はラズベリーが好きだと聞いたので、ベリーを使ったタルトを作ることにした。
「アカリ様、何かお手伝いすることはございますか?」
料理人から声をかけられた。
キッチンの使用許可をもらえただけでありがたかったんだけれど、ずっと後ろに立たれているのも気まずい。
「じゃあ、タルトの生地をお願いしてもいいですか?」
その後、特に会話が弾むこともなく、お互い黙々と作業を進めていた。
――
「これ、アカリが作ったの?」
完成したタルトをヴァイトちゃんの元へ持って行くと、彼女はしっぽを揺らしながら一口食べてくれた。
「美味しい!」
私が眠る前、小さな体で部屋を何度も行ったり来たりしていた。体調はどうか、何か欲しいものはあるかと聞いてきたり、替えのタオルや水を持ってきたり、とにかくずっと動き回っていた。
クラネスさんの頼みだから張り切っていたのか、そこまでしてくれるとは思わなかった。案の定、途中で疲れて私がいた部屋で眠ってしまい、使用人に連れられて部屋に戻って行ったけれど。
初めは私のことを恋敵か何かだと認識されているものだと思っていたけれど、そうではなさそうだった。なぜなら、ベリーのタルト作ったらすぐに懐いてくれたから。
「こんなに美味しいベリータルトは初めて!」
それにしてもさっきからすごく喜んでくれている。
ここには料理人もいるから、私が作ったもので満足してもらえるか不安だった。
そんな私の前で彼女は目を輝かせ、頬を薄紅色に染めている。それを見ているこちらまで幸せな気分になってしまう。
作ったのはごく普通のベリータルトだ。初心者でも作れるような簡単なもの。
「料理人さんが作る方が見栄えもいいし、美味しいんじゃない?」
私の言ったことにヴァイトちゃんは首を横に振った。
「スイーツはあまり食べないの。誕生日や特別な日にだけ出してくれるし、普段は栄養バランスを考えた体にいい食事ばかりだから、つまんないの」
それもヴァイトちゃんのためを思ってのこと。
子どもには好きなものを食べさせてあげたい気持ちもあるけれど、好き嫌いなく食べてもらえるように頑張っていると、料理人も言っていた。
「今日も、野菜食べなさいって言われた。ちゃんと食べてるのにー!あと部屋の片づけもしなさいって……あれのどこが散らばってるって言うのー!」
ヴァイトちゃんは頬を膨らませていた。
使用人たちも彼女とどうやって接していけばいいのか模索しているらしい。
そういえば、ここはみんな一緒に住んでるんだよね。ヴァイトちゃんも使用人たちも。こんな大勢が住んでいる家は他にはないはず。
彼女の体質あってのことなんだろうけど、ヴァイトちゃんはどう思っているんだろう。
「ここにいるのは窮屈?」
ヴァイトちゃんは、その問いに少し悩んで俯いてしまった。
「私はここにしかいたことがないから、他がどんな風になっているのか知らない。でもみんな、ヴァイト様って私の機嫌を伺って接してくるから、ちょっと窮屈かもしれない」
好きだから、大切に思っているからこそ、嫌がられない距離で接したいけれど分からなくて空回りしてしまう。それが本人にまで伝わって、ヴァイトちゃんもどうすればいいか分からないといったところだろうか。
大切なものほど手放したくないし、嫌われたくない。だからといって距離を取りすぎてしまうと、その人がどこかへ行ってしまいそうで不安になる。
私は今、誰を思ってこんなことを考えているのだろう。
「だけど、みんながいてくれるから寂しくはないの。みんながいてくれるから、私がいられる。そんな場所があるって幸せなことだよね」
ヴァイトちゃんまでそんな風に笑うんだ。
この子はきっとこの世界のことを知っている。
今が幸せだと気づいて言葉にできる人は多くはないだろうから、それを伝えられるヴァイトちゃんは素敵な子だ。
私は、この話を誰かがこっそり聞いているのを知っていた。その人たちにも聞こえるように答えた。
「そうだね。みんな一緒で幸せだね」
ここにいる人たちはこれからも変わらず、ずっと一緒にいるんだろうな。
それからヴァイトちゃんの好きな人の話になった。
「クラネスはね、私のことをちゃんとヴァイトとして見てくれるから好き!あとモモちゃんもとリィンもそうだった!」
そう話す顔には笑顔が咲いて、私も頷きながら聞いていた。
ヴァイトとして見てくれるというのは、一人の女の子として相手をしてくれるということなんだと思う。クラネスさんはそれを分かっているから、抱きつく彼女を振りほどけない。
「私は、私が好きな私を好きでいてくれるみんなが好きなの。もちろんアカリのことも好き!だから恋の応援するね!」
突然の言葉にカップを持っていた手が止まり、むせてしまった。
「えっ!?なんのこと……」
あの時と同じ笑顔を向けて来た。
ヴァイトちゃんの言う好きは恋愛感情ではないことは確かだ。それを分かった上で私に言ってきたということは、もうそういうことだ。
「ヴァイト様には何でもお見通しなのだー!」
楽しそうに笑みを浮かべる彼女はとても眩しかった。
「アカリは、クラネスと一緒にこの町を変えるんでしょ?」
クラネスさんから聞いていたのか、彼女は鉱石の使い道を知っていた。
「ヴァイトちゃんは、この町が変わっても平気?」
彼女は迷わず首を縦に振ってくれた。
「町の在り方が変わっても、私が私でいられることには変わりないから。それに、この町も少しくらい変わった方が面白いよね!」
そう言って私にも抱きついてきてくれた。
彼女を見ていると私まで幸せになれるのは、選ぶ言葉やその明るさが母親と似ているからなのかもしれない。
「アカリ、またね!」
「うん!またね!」
見送りに来てくれたヴァイトちゃんと、使用人に手を振った。
そうだね。またねは、自分から迎えに行かないとだめなんだ。
私にはこの世界での次がない。でも最後が分かっているから、今ある時間で何がしたいか決められる。
「足はどうだ?」
「もう大丈夫ですよ」
私は、元気になった足で跳んで見せた。
本当は昨日から平気だったけれど、念の為一日休んでいた。
その間に例のエネルギー源も形は完成したそうで、あとは私が歌うだけとなった。
「なんだか、思ったより小さいですね」
クリアシルクで作った天然水晶の中には歯車とネジを組み合わせたものが入っている。その周りで小さく光っているのはプラチナだろうか。
そして中心には赤く燃えている炎があった。
「これ、もしかして深紅石?」
「あぁ。少し手を加えて炎にした」
少しいじっただけでできるようなことではないと思うけれど。
「この炎は、一生消えることはない」
そう言って私の手に乗せてくれた。
クラネスさんの作ったエネルギー源は、両手に収まるサイズだった。
今あるエネルギー源は図書館の屋上にあり、遠くからでも見える大きなものだ。それと比べるとかなり小さい。
「灯が歌った後、唐打紐で水晶を結んで終了だ」
私が歌うのは、満月の日の前日。図書館の屋上で歌い、そのまま新しいものに取り替えるという流れだ。
「皆さん賛成してくれますかね」
そう言うとなぜかクラネスさんに頭を撫でられた。
「皆が好きになれる世界は作れない。どう考えても無理だ。だからと言って、立ち止まっているわけにもいかないだろ?一歩歩いて、進めたならそれでいい。だめだったら違うやり方を試せばいい。続けるということは、そういうことじゃないか?」
続く可能性を信じる彼らしい考えだった。
「俺にとってこの世界は変えたい存在だ。だが、灯に会わせてくれた場所でもある。好きでもなければ嫌いにもなれない世界だ」
そう話す表情は優しかった。
「じゃあ、新しい世界は好きになれるといいですね」
顔を上げて言った私の言葉にクラネスさんは「そうだな」と笑ってくれた。
この町で過ごせる時間も残り僅か。クラネスさんと一緒にいられる時間も……。
気づいてはいけない感情も顔を出している。寂しい。ここにいたい。できることなら、ずっと一緒に……。だめだ、そんな考えは捨てろ。
私は元の世界へ帰らなければならない。
いつもなら割り切れる思いに躊躇いがある。初めから分かっていたことなのに、自分が望んでいたことなのに。
誰かを好きになるって、こんなにも自分を見失ってしまうものなのか。
「満月の日も近い。何かやりたいことはあるか?」
お礼も兼ねて、できることは叶えてやると言われた。
やりたいこと。そう言われて一つだけ思いついたものがある。
最後にもう一度、会いたいな。
「私、パーティーをやりたいです!」
少ない時間で皆と会うには、一度に会える時間を作ればいいんだ。
その数日後、私の希望通りスイーツパーティーが開催されることになった。
場所はシュベルトさんの店。一日貸し切りで使わせてもらえることになった。
「すみません、わがまま聞いてもらっちゃって」
私は会場作りを手伝ってくれているシュベルトさんと話していた。
「他でもないお嬢さんの頼みだからな。昼間からここが賑やかになるのも悪くない」
普段は夕方からしかやっていない酒場。
今日は誰でも気軽に入れるように内装を飾りつける予定だ。
今まで関わってきた人はもちろん、町の掲示板にパーティーのことを書き込み、誰でも立ち寄れるようにしている。
「ほんと、この短期間で町のやつらと打ち解けられるなんて。さすがだな」
テーブルに並んだ食材を確認しながらシュベルトさんが言った。
私がパーティーをやる話をしたら、町の人たちから果物や小麦粉などの食材を譲ってもらえたのだ。
「それは皆さんのおかげです。私一人では何もできなかったと思うので」
そんな感謝の気持ちを伝えるためにも、今日は皆に楽しんでもらいたい。
「灯、バルーンはこのくらいでいいか?」
装飾の用意を手伝ってくれていたクラネスさんが、カラフルな風船を持って出てきた。
「ありがとうございます!あとで私たちが飾りつけておくので、クラネスさんは休んでいてください」
告白の一件から何か変わったことがあるかと言われると、何もない。
お互いの距離も変わることなく、私はいつも通りに接していた。
「アカリー!」
テーブルとイスを並べ終えた後、モモさんとヴァイトちゃんが一足先にやって来た。
二人には店内の飾りつけを一緒に手伝ってほしいと声をかけていた。
「私、こういうの初めてだから楽しみ!」
三人で店内を風船やリースで華やかにしていく。
モモさんとヴァイトちゃんは以前から交流があって仲も良く、一緒に話したいと思っていた。
「それにしても、急にパーティーなんてどうしたの?」
「まぁ、色々理由があって」
感謝を伝える以外にも、この町の新たな出発をお祝いしたいという個人的な理由もあった。
ヴァイトちゃんが特別な日にしかスイーツが食べられないと言っていたことをヒントに、今日のパーティーを企画した。
「私はアカリのスイーツが食べられるならなんでもいい!」
「ありがとう。嬉しいな」
ヴァイトちゃんは私の作ったケーキを気に入り、自分でも作ってみたいからレシピを教えてほしいと言われ、いくつか紙に書いて渡していた。
「あ……それ、いつもつけてくれてるわよね?」
私の髪を見たモモさんがバレッタを指した。
「これはモモさんがくれたお守りだから」
つけているとモモさんがそばにいてくれているみたいで勇気をもらえた。だから、もらった日から肌身離さずつけている。
「うぅ……アカリ!」
涙目になったモモさんが抱きついてきた。
これは、私にとって大切なものだ。
「いいなぁ」
「ヴァイトにも今度作ってあげるわよ」
泣いてしまうのにはまだ早いのに、目元がじんわり熱くなってくる。今日は笑顔でいようと決めたんだから、笑え。
二人のおかげで飾りつけはあっという間に終わった。
時間の流れが早く感じるのは、終わってほしくないという気持ちの表れなのかもしれない。だけどまだパーティーは始まっていない。
「私は用意があるので、二人はゆっくりしててください!」
そう言ってキッチンに向かった。
今日はスイーツの他にも軽食やドリンクも提供する。
「スイーツはお嬢さんにまかせるな」
「はい!」
一度に沢山作れるクッキーやパウンドケーキ。モモさんの好きなガトーショコラに、ヴァイトちゃんが好きなベリーを使ったケーキはもちろん、様々なスイーツを用意する。
当日は作業がスムーズにいくように、ある程度前日から仕込んでいた。
エイトさんは和菓子が好きだと言っていた。以前家庭科で習ったいちご大福を思い出しながら生地を作る。
リィンさんは甘いものが苦手らしい。そんな人のために甘さを控えたゼリーも。
オルドさんからは、子どもたちが好きなドーナツのレシピを教えてもらっていた。
「シュベルトさん、このチーズケーキどうですか?」
「うん、美味いな」
「よかったです!」
シュベルトさんには味見をしてもらいながら好みを探っていた。
クロムさんはなんでも食べられるから適当に作ってやれとクラネスさんに言われた。彼は誰かに作ってもらえるだけで十分なのだと。
そんなクラネスさんには、他とは違うものを作りたいと考えていた。
生地を作る手を止めて、今までお世話になったのだから当然だというのは建前で、心のどこかでまだ期待している自分がいるのだと気づいてしまう。
「あの人なら、受け取ってくれるよね」
――
パーティーが始まると、店には沢山の人が足を運んでくれた。
今日の店ではバイキング形式でスイーツを並べているスペースや子どもが座って食べられる場所も設けている。もちろん大人も楽しめるようにお酒も用意してある。
「こんにちは、灯さん」
「エイトさん、来てくださってありがとうございます」
滅多に町に来ることはないと言っていたエイトさんが一番に声をかけてくれた。
「こちらこそ、お誘いありがとう。とっても素敵だね」
いつものように和装に身を包んだエイトさんが優しい笑顔を向けてくれる。
交友関係は広くないけれど、町の人たちのことを大切に思っている彼に少しでも顔を出してもらいたくて招待状を送っていた。
「なんだか、ここへ来た時よりも大人びて見える」
「え、そうですか?」
「顔つきが変わったからかな」
当初、俯くことが癖になっていた私の表情は暗かった。不安や恐怖を抱え、迷いがあった自分の気持ちに蓋をしていた過去。けれど、今は違う。
「今の私は、前しか見えていないようですから」
変わり続ける世界で後ろを向いてばかりでは道を見失う。下を向いていては置いていかれてしまう。追いつきたいなら、前を向くしかないのだと分かったから。
「頼もしいですね」
挨拶を終えた後、エイトさんはクラネスさんのところへ向かった。
そんな彼の背中を見つめていると、ワンピースの裾を引っ張られた。
「アカリ……」
そこにはアロくんがいた。ということは……。
入口の方へ顔を向けると、おひさま園のみんなが来ていた。
「お姉ちゃん!」
そう言って私の方へ駆け寄って来てくれた。
「アカリさん。今日はありがとうございます」
サイトくんを抱えたオルドさんが、みんなを連れて来てくれた。
パーティーの開催時間をお昼からにしたのは、子どもたちも参加しやすいようにしたかったから。
「いえ、楽しんでいただけると嬉しいです!」
小さめのテーブルとイスが用意してあるスペースにみんなを案内した。そこにはジュースとスイーツが並んでいる。
「わぁ!名前が書いてある!」
それぞれの席にはネームプレートを置いていた。名前の横にはイラストを描いている。
「すごい、可愛い!」
「よかったら持って帰って?」
「いいの?やった!」
ネームプレートならおひさま園でも使えると思って作った、私からのプレゼント。
みんな喜んでくれたみたいでよかった。
「あ!ジャラジャラの兄ちゃんだ」
席に着いた後、ガクくんが入口を指さした。
そのワードに思い当たる人は一人しかいない。
「リィンさん、来てくれたんですね」
私は挨拶をしに彼の元へ行った。
「あいつに少しくらい顔を出せと言われたからな」
視線の先にいたのはモモさんだった。
普段酒場に行かない私が行くんだからあんたも来なさいと説得されたらしい。
「ありがとうございます」
私は満足気に笑顔を向けた。
その顔に軽く舌打ちされたのは聞かなかったことにする。
「ジャラ兄、一緒に遊ぼ」
怖いもの知らずのライカちゃんが声をかけた。
「は?誰がお前らなんかと」
「え、兄ちゃん遊んでくれるの?」
子どもたちがリィンさんの元へ集まってきてしまった。
それを見た私は面白くなって思わず笑いながら言った。
「いいじゃないですか今日くらい」
「なんでだよ」
「今度クラネスさんがお酒奢りますよ」
少し黙り込んだ後、盛大なため息が聞こえた。
彼がなんだかんだで優しいお兄さんなのは分かっていた。だって、子どもたちから声をかけてしまうほどなのだから。
「あとでお酒持って行ってあげよ」
ここから離れたスペースに、お酒が飲める席もある。
楽しそうにしている彼らを見て、私は新しいパウンドケーキを焼くために一度キッチンへ戻った。