オルドさんの元を訪ねる三日前。
「いよいよ五人目の交渉ですか」
この時、おひさま園という場所があることを初めて知った。
「今回の相手は先生だな。子どもたちの面倒を一日中見ているから園に直接訪ねに行くわけだが」
子ども、園、面倒を見る。まず不安だったのが。
「私、年の離れた子たちと話すの小学生以来なんですけど大丈夫ですかね」
同級生と話すことすらなかった自分が、一回りも違う子どもと上手くやれるのか自信がない。
クラネスさんはおひさま園に月一で顔を出しているらしく、その時に作ったおもちゃを必ず持って行く。それで子どもたちの人気者となってしまい、毎回数時間拘束されているという。
交渉のアポを取りに行った時、その日は子どもたちと一緒に遊んであげてほしいと言われ、今回私は子どもたちの相手役としておひさま園にお邪魔する。
「子どもって勘がよかったりしますよね。私が人間だってバレたりしないですか」
「そこら辺は探られないように頑張れ」
「いつにも増して適当なアドバイスですね」
探られないようにするなら、私が子どもたちのことを知っておけばなんとかなるのではないかと思い、とりあえず子どもたちの情報を収集することにした。名前と容姿の特徴、好きなことや嫌いなこと。クラスでの過ごし方など、クラネスさんから知っている情報を聞き出した。
「さすが毎回子どもたちと遊んでるだけありますね。これだけあればなんとかなりそうです」
「遊ばれているの間違いだろ。あいつらは俺のことおもちゃとしか思ってないからな」
今までにない緊張感があるけれど、私が不安そうにしていると、子どもたちにまでそれが伝わってしまうこともある。だからとにかく笑顔だ。笑っていればなんとかなるだろう。
そう思っていたのは杞憂で、実際子どもたちと話していると自然と笑顔になっていた。
「アカリちゃん!」
「遊ぼ!」
子どもって凄いな。見ているだけで元気になれるし励まされる。
今日一緒に過ごすのは、オルド先生が担当している三歳から六歳の子どもたち十人。
この施設には他にも0歳クラスや一、二歳の子たちがいるクラスもある。
私たちがいるのは二階で、一階にはまだ歩くことができない小さな子を含めた十人。合計二十人の子どもがここいる。
おひさま園は町で唯一の子どもが集まる場所。そんな場所がある理由についてクラネスさんから聞いた。この世界に住んでいる人たちに共通する重要な秘密を。
「アカリお姉ちゃんは、クラネスさんと友達なの?」
ここへ来て最初に声をかけてくれたアズキちゃん。
「クラネスさんのところで色々お手伝いしてるんだよ」
「アカリちゃんこの絵本読んで」
絵本が好きなマリーちゃん。
「アカリ!俺たちと勝負しようぜ」
確かこの二人はよく喧嘩をしているカイくんとサージくん。勝負事が好きな、このクラスの最年長。
前後左右、声がかかるタイミングはバラバラ。分かってはいたけれど、これは大変だ。耳と腕がもう二セットずつ欲しい。
「こらこら、アカリさんを困らせてはいけないよ。みんなで仲良くね」
子どもたちの声に埋もれてしまいそうなところに先生が来てくれた。
「すみませんオルドさん」
「いえ、一応この部屋にはいますので何かあれば声をかけてください」
そう言って仕切りを挟んだ場所にクラネスさんと移動した。
この部屋には子どもたちが遊ぶスペースと、来客用に作られた休憩スペースがある。同じ部屋にいるとはいえ、私一人で対応できるか分からない。
「あ!掃除してた姉ちゃんだ」
外から帰ってきた子が私を見て声を上げた。
「やっぱり!あの時のガクくんだったんだね」
リィンさんの店で掃き掃除をしていた時、私に挨拶をしてくれた子がいた。それが彼だ。
「ガっくん、お姉さんと知り合いだったんだ」
「わっ!ライカちゃん……びっくりした」
いつの間にか私の背後に立っていた彼女は、気配を消すのが上手いミステリアスな子。
「この前町で見かけたんだ。その時は掃除してたけど、今日はここに来たんだ」
「まぁ色々あってね」
ガクくんとライカちゃんは同い年で仲が良いらしい。雰囲気も大人びていて、私の素性に気づく可能性が最も高い二人。
「アカリ……膝枕」
そしてブランケットを持って寄って来る子が一人。
「ひざっ、え」
どこでも眠るアロくん。私の膝を枕にして、あっという間に眠ってしまった。
立ち替わりみんなが寄って来てくれるので順番に喋りながら部屋を見渡す。
あ、あそこにいるのはコウちゃんだ。一人遊びが好きで、よく隅っこにいるから気にかけてあげてほしいと言われていた。ちょっと呼んでみよう。
「コウ……」
「びやぁぁぁぁぁ!」
声が一瞬で掻き消された。
泣き虫なサイトくん。このクラスの最年少で、なんと彼は伝説族のミニドラゴン。
「どうしたの?」
左腕に泣きつくサイトくんの頭を撫でながら訊ねるも答えてはくれない。
「サイト、おもちゃ壊れて泣いちゃったの」
そこへしっかり者のリンちゃんが声をかけてくれた。
何とかしてあげたいけれど、おもちゃ壊れたはどうにもできない……。
あぁ、だめだ。顔と名前その他諸々覚えても上手くいかない。頭パンクしそう。
よし、こうなったら。
「絵本読むからみんな集まれー!」
私はマリーちゃんが持ってきてくれた絵本を読むことにした。絵本の読み聞かせは、やったことないけれど今はこれしか思いつかなかった。
隅っこにいたコウちゃんも、眠っていたアロくんも起きて私の周りに座ってくれた。
みんながこっち見てる……いや、緊張してる場合じゃない。
声を上げて、本を持ち上げた。
「それじゃあ、お話の始まりでーす!」
これはおひさま園に行く前、クラネスさんから聞いた話。
おひさま園は日本でいうところの保育所のような場所。違う点は、生まれた時から七歳になるまでの間、家に帰ることはなく一日中園にいる。
「気づいているかもしれないが、この世界には本来あるべきものが存在していない」
クラネスさんの言葉に、私は驚かなかった。
「そうですよね。町の様子を見ていて、何となく分かっていました」
初めは気づけなかったけれど、町の人たちと関わっていく中で感じた違和感。
この町には、家族が存在しない。
ずっと不思議だった。町の人たちが会話をしている様子を見ても、近所付き合い、知り合い、友人、といったような距離感。一番の決め手は、子どもと一緒に歩いている大人がいないこと。
「我々にとっては当たり前のことだから疑問には思わないが、灯からすれば理解できないだろ。親がいない俺たちはどこから生まれてくるのか、とか」
「ご存知なんですか?」
「生まれた時の記憶はないが、そのことについて詳しい者に話を聞いたことがある」
図書館の裏側に隠れるように存在している大きな湖。そこの番人に聞いた話。
どこから始まっているか分からない湖から、たまに流れ着くものがあるらしい。時間は決まって霧のかかっている早朝。
ある朝、番人は湖の畔でタオルに包まれた何かを見つけた。
そこには眠っている一人の赤ちゃん。その子は人間の姿をしていた。
今では子どもを見つけると、おひさま園へ運んでその後の面倒を見てもらっているけれど、昔は町の誰かが育ての役を担っていた。
町の者たちは、生まれてから一年の間は人の姿のままだという。時の経過と共に姿を変え、この町に溶け込んでいく。
誰もが同じ道を辿るのだからと、いつしか子どもは町の者たちが協力して育てていくものになった。
そして七歳になった子どもは、おひさま園を離れ、自分の行きたい場所へ行く。
この町ではほとんどの者が職を持ってる。子どもたちは気になる店の手伝いをしたり、弟子入りしたり、新しいことを始めてもいい。そうやって店や職を引き継ぎながら時を重ねている。
湖はどこから続いているのか、子どもはどこから生まれてくるのか謎のまま。
「この町で血の繋がった家族は存在しない。皆知らない場所から生まれてくる。不気味だろう。それよりも恐ろしいことがある」
この世に生まれてきたのなら避けることができない死について、クラネスさんは教えてくれた。
「我々は普通の人間や動物ではないから寿命はない。命を奪っても死なない」
「それは、命がない……というわけではないですよね?心臓は動いていましたから」
触れた手には温もりがあったのを覚えている。
「そうだな。だが心臓にナイフを刺したところで、二、三日あれば歩けるようになる」
不死身のように思えるけれど、そうではない。ある日突然なんの前触れもなく終わりが来るのだという。まるで誰かが操作しているように。そこに年齢は関係ないが二十歳以上というのが条件であると分かっている。
そして、亡くなった者の生き骸は、湖へと還すのが仕来りとなっている。
「俺だって同じだ。今こうやってエネルギー源を作っているが、明日死んでしまうかもしれない」
感情的に話すと私まで辛くなってしまうから、それを見せないようにしてくれている。平然と語ってくれる言葉の裏には、どんな思いを隠しているのだろう。この人は、どんな思いで今日まで研究を続けてきたのだろう。
生まれた場所も、最期も分からない。そんな中で彼らは生きている。いつ終わるか分からない時間を過ごしている。だから、寂しそうに笑う人がいる。
ならば私は、子どもも大人も、この町で生きている皆が心から笑える未来を作りたい。
「すみません。こんなことをお話させてしまって」
「構わない」
そっと息を吐くと、クラネスさんは呟いた。
「俺がいなくなっても町は続いていく。そのために何か一つでも明るい未来に繋がる道を作っておけば、あとは誰かが繋げてくれるかもしれない。俺は、終わる可能性よりも続く可能性を信じたいから」
『ただ一ヶ月間、何もせずに時が経つのを待っているのと研究に協力するのとじゃ、かなり変わってくると思うけどな』
なんてことない言葉だけれど、今なら痛いほど身体に染み込んでくる。
待っている時間なんて、この世界にはない。
続く可能性を信じて私ができること、それは歌うことだ。
迷いのない瞳を前へ向け、一歩を踏み出した。
「そうですね。私も、続く可能性を信じたいです」
✾
子どもたちのはしゃぐ声を聞きながら、クラネスはオルドと研究のことについて話していた。
「そうですか。では、アカリさんは全てを知った上で協力しているのですね」
オルドは今日までクラネスの研究に賛成できずにいた。
彼には現状を変えたいという願いはあった。しかし今ある形を崩してしまうと築き上げてきたものが消え、子どもたちに示す道標も消えてしまうのではないかと思っていた。
「今あるエネルギー源を壊してしまうと、湖から何かが流れ着くことはなくなるだろうな」
「そうですよね」
彼が心配していたのは、この町の未来を担う子どもがいなくなってしまうこと。
そんなオルドを見たクラネスは、笑顔で話す灯の姿を思い出して言った。
「だがここは種族の異なる者たちが集まる、素晴らしい場所らしいからな。我々の力だけでこの町を続けていくというのも、悪くないのではないかと思う」
エネルギー源が代われば、操られているようなこの命も自分のものになるだろう。
「図書館の倉庫に"人"に関する書物がある。昔誰かが、こんな本は必要ないと仕舞っていたものだ。それを見ればなんとかなるだろう」
なぜそんなことを知っているのかと聞かれると、クラネスは「友人の伝でな」と答えた。
未来のことを考えるクラネスの話を聞いたオルドの表情は穏やかなものになった。
「僕は、町の者たちを嫌う人間が苦手だったんです。そして我々を怖がる人間に何ができるのかと思っていました。……ですが、アカリさんのような方もいらっしゃるんですね。こんな僕たちにも笑顔で接してくれている」
子どもたちと遊んでいる灯の姿を見たオルドは、彼女のことなら信じてもいいと思った。
「彼女の心が見えていなかったなんて、養育者失格ですね」
苦笑いを浮かべるオルドに、クラネスは優しく笑いかけた。
「彼女は誰かのことを思って行動できる優しい子ですから、大丈夫ですよ」
✾
「みんなで仲良く暮らしましたとさ」
私は絵本を閉じた。
読み聞かせは人生初めてで緊張はしたけれど、みんな喜んでくれた。
「ねぇねぇ、おかあさんってなぁに?」
子どもたちから質問が飛んできた。
私もなぜこんな絵本が置いてあるのか疑問に思っていた。ここには当たり前のように母親が描かれていた。
両親の存在を知らない彼らにとって、この話がどう映っているのか分からない。
「お母さんって言うのはね、オルド先生やおひさま園にいる先生たちみたいな人だよ」
子どもたちが知っている言葉を並べてそれっぽく説明してみた。
「先生がお母さん?」
きっと彼らにとっての親はオルド先生だろう。そうなると、町の人たちが色々なことを教えてくれる先生のようにも思える。
「じゃあアカリちゃんのお母さんは?」
私のお母さん……。
本当のことを言うのはやめておこう。いない、なんて答えは求められてないだろうから。
そんな時、ある記憶が頭の中で再生された。
「私にはね、二人いるんだよ~」
この話を誰かにするのは初めてだ。
「オルド先生が二人?変なの!」
子どもたちの反応に思わず笑ってしまう。二人というのは、私の両親のことだ。
「うん、お父さんって言うんだけどね」
そして、私は閉じていた記憶のページをそっと開いた。
✾
私には父親がいない。
『灯ちゃんの髪型可愛いね』
『お母さんが結んでくれたんだ』
子ども同士がする在り来りな会話。その中で聞かれたこと。
『じゃあ、灯ちゃんのパパはどんな人?』
質問に対して特に何とも思っていなかったから当然のように答えた。
『お父さんはいないんだ』
私が生まれてからすぐに亡くなってしまったから、私の記憶にお父さんはいない。
感覚的には一+一=二と同じ。なぜ二になるの?と問われても答えることは難しいけれど、それが二になることは当たり前に思うのと同じだった。
『そうなんだ、寂しいね』
いないことが当たり前だった私にとって、いない=寂しいにはならなかったから、その言葉は意外だった。
悪気はなかったとはいえ友達に悲しい顔をさせてしまったから、この話はもう誰にもしないと決めた。
その日、家に帰ってお母さんに話を聞いた。
『お父さんはね、優しくてかっこいい人だよ』
お父さんの話をする時、お母さんは幸せそうな顔をする。
そして、私とお母さんのことが大好きだったこと、私の花嫁姿を見たがっていたこと、一生をかけて見守りたかったと言っていたこと、色々教えてくれた。
『そうだ!これを灯に渡してほしいって言われてたんだった』
そう言ってお母さんから手渡されたのは、ある花のイラストが書かれた栞だった。
『お父さんが、灯が小学校に入学したら渡したいって言ってたんだけど叶わくて。私も渡すのが遅くなってごめんなさいね』
それから、預かっていたメッセージも受け取った。
『お父さん、本を読むのが好きで灯にも好きになってほしいからって。この花は、勿忘草。「俺がいたことを忘れないでほしい」って言ってた』
あぁ、だから勿忘草だったんだ。花を持っていた夢は、その話を聞いた直後だったのかもしれない。
クラネスさんが持ち帰った勿忘草は、お父さんからの、最初で最後の贈り物。
誰にもしないと決めていた話を引っ張り出したのは、もう仕舞っておく必要はないと思ったから。
過去の自分だったら隠したまま話さなかっただろう。でも今の私なら、父親の生きた証を話せると思った。
「私のお父さんはね、遠くでお仕事してるの」
私は父親のことをあまり知らない。
「どんなお仕事?」
残っていたのは勿忘草の栞。
「本を読むお仕事だよ」
優しくてかっこいい、ちょっぴり寂しがり屋な家族思いの人だから、私が忘れちゃだめなんだ。
「本を読むことがお仕事なの?」
「そうだよ」
私は今、お母さんがお父さんの話をする時と同じような顔をしている気がする。
「じゃあもう一人のお母さんは?」
「私のお母さんはね、明るくて元気な人だよ。あと、歌がとっても上手なんだ」
私の話を聞いていた子どもたちが期待の視線を寄せる。
「アカリちゃんのお歌聞きたい!」
なんとなくこうなるのは予想していた。
「じゃあ、少しだけ」
私はあの歌を口ずさんだ。
母親は、太陽のような人だった。そんな人に私もなりたい。
あの人は、私に笑ってほしくてこの歌を歌っていた。聞いた私が笑顔になれたように、この子たちにも笑顔になってほしい。それがずっと続いてほしい。そう願って歌った。
「お姉ちゃん上手だね!」
歌い終わると拍手を贈られた。小さな発表会みたい。
「ありがとう!」
目の前にいるみんなが笑ってくれている。
それが嬉しくて、見ている私も心が温かくなるのを感じた。
「素敵ですね」
教室の外に出ていたオルドさんが帰ってきた。
私の声が聞こえてたのだろうか。
「そうだろ?」
すると私の後ろから得意気に話す声が聞こえてきた。
「え!?クラネスさん、いつからそこにいたんですか?」
私の立っている位置から、ちょうど死角になる場所から出てきた。
「ずっとここにいたぞ?灯が気づいていなかっただけで」
ずっとって……オルドさんが出て行ったのは読み聞かせが終わる少し前。その時からだとすると、私の両親の話も聞いていたということになる。別に聞かれて困ることではないけれど、自分の鈍さに嫌気が差す。
そんなやり取りを見ていたアズキちゃんが口を開いた。
「クラネスさんは、アカリお姉ちゃんのこと好きなの?」
「えっ、ちょっ!?」
引き止めたかったけれどもう遅かった。
子どもの純粋さは可愛らしいけれど、時に恐ろしい武器になるのだと理解した。
次第に子どもたちの視線がクラネスさんに集まっていく。でも彼は特に焦っている様子もなかった。
「そうだな、好きだぞ」
真っ直ぐすぎる答えに一瞬ドキッとしてしまった。
「……本心です?」
「なぜそこで疑う」
そりゃ、子どもの前で好きじゃないなんて言えないだろうから仕方ないけれど。あまりに直球すぎる。
「じゃあアカリは?」
「あ、えっと」
どうしよう、今度は私が標的に……。
「はいはい、みんなそこまで。アカリさん困ってるよ」
子どもたちを止めてくれたオルドさんの方を見ると、クラネスさんと視線を合わせ合図を送っていた。
これからまた何か話すのかと思っていたら、私もオルドさんと目が合った。
「アカリさんもよければ」
「え、私もいいんですか?」
「はい。お話したいこともありますので」
私もそこに同席させてもらえることになった。
少しの間だからと子どもたちは年長組に任せて、談話スペースに案内された。
「こちらが頼まれていたものです」
オルドさんから差し出されたのは、五つ目の材料のネジだった。
「知り合いから譲り受けたもので何やら不思議な力があるとか、僕には分からないですけどね」
これは恐らくクロムさんの歯車と合わせて使うものだろう。
「感謝する。……それで、話というのは?」
クラネスさんの言葉にオルドさんは少し気まずそうに視線を逸らした。
そして紡がれたのは、彼の思いだった。
「おひさま園を創ったのは、生まれてきた自分の面倒を見てくれた人がいたからなんです。彼のように自分も、子どもたちが生きていくための手伝いをしたいと思いました」
今のおひさま園は子どもたちにとって必要な居場所で、安心できる家。
「でも僕にできるのは、鏡の向こうへ行く前の子どもたちの面倒を見ることだけ。そこから先は彼ら自身の足で歩いていかなければならない」
この町で七歳を迎えた子どもたちは仕事ができる。そして鏡に入ることも。
「だから子どもたちにとってこの町は生きやすい場所であってほしい。僕の願いはそれだけです」
誰よりも子どもに対する思いが強いオルドさんが創り上げたおひさま園は、彼の願いの象徴。
「過去には人間に対して拒絶反応を起こしてしまう者もいました。僕を育ててくれた人も最期まで人間を嫌っていた。もう、誰もそんな思いをしてほしくないんです。ここは皆にとって安心できる場所であってほしい」
それは私も同じだ。だけど私は、彼らにとって生きづらい理由を作っている人間で、部外者。
「僕も初めは反対していたんです。新しいエネルギー源を作ることに。ましてや人の子の力を借りて作るものなど、良いようには思えなかった。……ですがアカリさんを見ていたら、そんな風に考えていた自分が恥ずかしくなりました」
「えっ」
「あなたは僕たちに優しく接してくれる。子どもたちに笑ってほしいと、そう心から願っているのが伝わってきました。だから、この町の未来を託したい」
その言葉に心臓が強く揺れ動いた。
行動を起こさなければ何も変わらない。眠っている思いにも気づけない。そう分かったから、前を向いた。
私の行動が、思いが、願いが、彼を変えた。覚悟を決めて挑むことに、無駄なものなんてないのだと気づかせてくれた。
「ありがとうございます……」
絞り出した声に、オルドさんは優しく笑ってくれた。
「本来なら我々は人間とは交わらないものです。それに、元々人間だったのだから恨んだり妬んだり嫌ったりなどの感情は生まれないもの」
そっと告げられた大きな事実に、驚いたのは少しだけ。そして自然と隣にいる人を見ていた。
「……っ」
クラネスさんの瞳が一瞬揺れた。その瞬間、以前彼が私に話そうとしてやめた話があったことを思い出した。
人間だったというのは、前世と言われるもの。
そう言われているだけで、彼らに人間だった頃の記憶があるわけではない。
そして一度この町へ来たら、もう二度とこの世界に来ることはないという。
何があってこの町へ来ることになったのか、前世で悪人だったからなのか善人でも関係ないのか分からない。単なる都市伝説のようなものだ。
しかしこの話を聞かされた誰もが納得してしまうらしい。
「来世では報われてくれるといいですよね」
それはまるで他人事のようだった。
そんな風に言うのは、現世の言葉は来世の自分には届かないと分かっているから。
その寂しげな笑顔が、胸を締めつける。
✾
「えぇお姉ちゃんもう帰っちゃうの?」
「アカリまたね!」
「また遊びに来てほしいな」
私は、見送りに来てくれた子どもたちが見えなくなるまで手を振り続けた。
またね、か。私にこの町での"また"あるのだろうか。
お互い一言も話さないまま、二人の足音だけが聞こえる帰り道。夕日に伸びる影が大きく見える。
「クラネスさん、私は大丈夫ですよ」
隣を歩く彼に、前を向いたまま言った。
おひさま園を出るまで崩さなかった笑顔に本音を隠しているように見えて、私はそれに心当たりがある。
「あれがこの町についての、最後の秘密だったんじゃないですか?全て知るまで時間かかっちゃいましたけど」
クラネスさんはオルドさんがあの話をすることを知っていたと思う。その上で、私をあの場にいさせた。
「……本当は今日までに話そうと思っていたが、どうしても不安が消えなくてな。すまない」
話を聞いた私が何を思うのか。ショックを受けるか、はたまたあっさり受け入れるのか。どちらにしても複雑な感情に抑え込まれる可能性はあった。
クラネスさんはそれを恐れて話さなかった。私のことをよく知っているから、一番近くにいるから言えなかった。
けれどそれは以前までの私なら、の話。
「心配しすぎですよ。そんなんじゃ私が帰る頃には寂しくて離れたくなくなっちゃいますよ?」
冗談ぽく笑ってみせた。これは私の勘違いであってほしかったから。
「そうかもしれないな」
少し前のあなたに同じことを言っても、その言葉を返されていただろう。だけど、そんな顔では答えないはずだ。
「そこは否定してくれないと嫌ですよ」
自分の気持ちに蓋をするように言った。
そんな悲しそうに笑わないで。私たちは本来交わらない存在で、私は元の世界へ帰らなければならない。
もう二度と会うことのない相手に、好意を持ってどうするの。
その日の夜。私はクラネスさんの部屋にいた。
自分の意志を伝えるために。
『私のことが大切なら、私の気持ちを優先してくれますよね?』
弱みに漬け込んだみたいで卑怯ではあるけれど、それくらいしないと聞いてもらえないと思った。
私の答えに、もう迷いはない。
「私は、この町で生きている人たちが心から笑える未来を作りたい。この町が安心して暮らせる居場所であってほしい。そのために私ができるのは、続く可能性を信じて歌うこと。だから、受け取ってもらえますか?」
言い切った。これが私の願い。町の人たちと関わることで見つけた答え。
端的に言えば、私はクラネスさんのエゴに巻き込まれた部外者で、その上歌声までも取られてしまう。
それでも託すと決めたのは、大切なものを犠牲にしてでも守りたいものがあると気づいたから。それが偶然クラネスさんだっただけで、異世界の町だっただけで、その答えに悔いはない。
あとはクラネスさんからの言葉を待つだけだ。もっとも、そこに選択の余地なんてものはないけれど。
「あぁ、受け取らせてもらおう。子どもたちと接している姿を見て、ちゃんと前を向いているのだと確かめられたからな」
「あれ?もしかして私、試されてました?」
嘘つきの笑顔を貼りつけると、勝手に言葉が零れてくる。
歌が歌えなくなったっていい。それだけが自分と母親の記憶を繋ぐものではないから。それに父親への思いも見つけることができた。大切なものは歌以外にも沢山ある。
でも、たったひとつだけ心残りがあるとするならば。
……私の歌声を好きだと言ってくれた人のために歌えなくなるのは、辛いです。
そう素直に言えたら楽になれるのに。矛盾した気持ちを伝えれば、クラネスさんに歌声を受け取ってもらえない。新しいエネルギー源が完成しない。だから隠せ、これだけは。
「だが、歌声は一番最後だ。エネルギーを動かすために必要な力で、完成したものの前で歌ってもらう」
次で集める材料は最後。終われば、もう二度と会うことはない。今まで通りやれば気づかれないし、隠し通せる。大丈夫だ。そう思っていたのに。
.
.
「灯、それ取ってもらえるか?」
「は、はい!」
話しかけられる声やお互いの距離。触れる肩や指先。
「灯、次の交渉相手なんだが」
「え!?あ、はい」
意識してしまっているせいか、過剰に反応してしまう。私は自分の感情を隠すのがこんなに下手だっただろうか。
特に。
「灯」
名前を呼ぶ声が頭から離れない。今までだって何度も呼ばれてきたけれど、こんなに動揺することはなかったはず。
このままでは怪しまれてしまう。
「すみません!私やることあるので!」
距離を置けば何とかなる。そんなやり方しか思いつかなかった。
「最近変じゃないか?」
「……なにがですか」
いつもように夕食を食べていた時、突然投げられた言われたくない言葉に目を逸らした。
「避けられているのは最初からだから、それは別にいいんだが」
気づかれていた。
確かに最初は避けていたとはいえ、最近では周囲に指摘されるほどお互いの距離は近くなっていた。それなのに、また避け始めると怪しまれるのは当然のこと。
今までどうやって隣を歩いてたっけ。どこを見て話してた?そんな些細なことを考えてしまうほど、今の状況に耐えられなくなっていた。
「悪いが明日は一緒に来てもらうぞ?最後の持ち主に会いに行く」
「はい!ヴァイトさんのところですよね?」
話を聞いている時間でさえ集中できていなかったけれど、持ち主についての話だけはちゃんと聞いていた。
そして翌日、訪れたのはこの町で一番大きな洋館だった。
ここまで来るのに会話はなく、歩く時も人一人入る分の間を空けていた。
ベルを鳴らして中から主が出てくるのを待つ時間でさえ気まずい。
「あー!クラネスだ!」
家から出てきたのは可愛らしい女の子。クラネスさんを見つけると迷うことなく飛びついてきた。
「えっ」
その光景に目が点になった。
「いつものことだ、気にするな」
彼女は私と六歳ほど年が離れている。つまり子どもだ。
「ヴァイト様、クラネス様が困っておられますよ」
ヴァイト様って……洋館に住んでいて、使用人がいて、この子もしかしてお嬢様だったり。
「いいの!私、クラネスのこと好きだから!」
使用人に向かってヴァイトちゃんは笑顔を見せていた。
その様子に私は黙ってクラネスさんの方を見た。
「いつものことだ」
「いつも……」
「俺を見つける度に飛びついてきて、しばらく離れない」
あー、だからか。ここへ来る前やたらとため息が多いと思っていた。
クラネスさんは少し鬱陶しいと思いながらも、それを彼女に悟られないように接している。
それにしてもこの子、クラネスさんにべったりだな。
いや別に、嫉妬とかしてない。
彼女はヴァンパイアで、クラネスさんとは同種族なわけで、年は離れてるけれど同じ世界に生きている人たちだから、私なんかより釣り合うのは分かる。まだ自分の気持ちを言えていないからって嫉妬とか別に。子ども相手だし、なんとも思ってないと心の中でぶつぶつ言っていた。
そんな私を見て、クラネスさんは笑っていた。
「妬いてるのか?」
「違います!」
顔に出していないはずなのになんで……いや、そもそも妬いてないし。
「皆様、中へどうぞ」
使用人の言葉に頷いて足を動かした。
私は何さっきから自分に対してツッコミを入れているのだろう。何とも思っていないのなら、気にしなければいいのに。
洋館の中に入ると広間に案内された。使用人が数名いる。おしゃれな内装に、高価な家具。
私の向かい側には、クラネスさんとヴァイトちゃんが並んで座っている。
ヴァイト・エール。
闇魔族のヴァンパイア。ツインテールで赤色の瞳をしている。羽もしっぽも本物みたいで、動いている。
生まれつきの愛され体質らしく、彼女を見ると世話を焼きたいと思う人がいるらしい。そのため一緒に住んでいる使用人たちは、ヴァイトちゃんが望んだわけではなく勝手に世話をしている。
以前クラネスさんが作っていたクラッカーの防犯グッズや、モモさんとリィンさんがデザインした洋服は彼女のもので、使用人が依頼したらしい。
ヴァイトちゃんは、この町で有名なお嬢様だった。確かに可愛いし、世話を焼きたくなるのも分かる。分かるけども……。
「ヴァイト、例の話なんだが」
「うん!」
やっぱり近くないか!広いソファに座っているのに、二人の距離はほぼゼロ。
クラネスさんのことが好きなのは十分伝わってきた。私もそこまでされてわざわざ引き離そうとか考えていない。
ただ、ヴァイトちゃん。私の方を見てニヤけるのをやめていただきたい。
「あぁ、その石なら洞窟に沢山あるよ」
「洞窟ですか?」
「家の所有している山の中にあるし、それなりに整備されてるから勝手に取って行っていいよ」
最後の材料は鉱石。
ちらっと二人の方を見ると、ヴァイトちゃんはクラネスさんと離れたくなさそうにしていた。
私はワンピースを着ていて山登りに適している格好ではないけれど、整備されてる道なら大丈夫かな。
「じゃあ私、行ってきます」
クラネスさんと二人きりにならずに済むなら一人で行った方がいい。
「灯一人じゃ危険ではないか?」
立ち上がった私に声をかけてくれた。
「大丈夫ですよ。日が沈むまでには帰ってきますから」
今はまだ午後の明るい日差しが届いている時間帯。夕方までに帰ってくれば何とかなるだろう。
家の裏は辺り一面山だった。
目印として洞窟への道にある木々にはロープが結ばれている。一本道で迷うことはない。
普通の山道だけれど、急な坂もないし、不安定な階段もないから案外平気かもしれない。
洞窟の前にはヴァイトちゃんが遊べるように花畑を作っているらしい。そこを目指して歩く。
「はぁぁぁ」
自然の空気を吸えば頭を空っぽにできると思っていた。
でもなぜか私は、人気のない場所に来ると考え事をしてしまうらしい。
クラネスさん大丈夫かな。ヴァイトちゃんの扱いには慣れてそうだったけど。
気になって無心で歩くことができない。
私もヴァイトちゃんみたいに気持ちを言えたらいいのにな。
素直になったとして、私は何を言うつもりなんだろう。
「いっそこのまま、うわっ!?」
独り言に気を取られ、その衝撃に目をつぶった。
私は冷たい地面にうつ伏せになって倒れていた。足元には飛び出ている木の根。これに躓いたらしい。
転ぶとか子どもじゃないんだし。こんなところを誰かに見られなくてよかった。
ゆっくりと立ち上がり、服についた土を払う。
「いっ……」
歩こうと左足に力を入れた瞬間、電気が走ったような痛みに襲われた。
転んだ時に捻ったのかな。
一度引き返そうかと思ったけれど、こんな格好のまま手ぶらで帰ったら転んだことに気づかれる。せめて鉱石を持って帰らないと。
私はできるだけ左足に負担がかからないように歩いた。そうすることで痛みは和らぐけれど、その分時間がかかってしまう。
感覚的に転ぶまで半分は登れていたと思う。その後は痛みに耐えながら進むことに必死で、どれくらい歩いたかなんて考えなかった。
それから少しして。
「嘘でしょ……」
目の前には木でできた階段。この上に花畑があって、洞窟がある。つまりこれを登らなければならない。
行くしかないか。
ここには掴まれる木や手すりはない。
「うっ……くっ……」
息を零しながら、崖の断面に手を添えて一段ずつ上がっていく。
こんな階段、怪我なんてしていなければすぐに登れるのに。時間が経てば傷も悪化する、急がないと。
そう頭では分かっていても、体は思うように動いてくれない。最後の段を登りきる頃には息が切れていた。
「はぁ、はぁ……つい、た」
言われた通りそこには色とりどりの花が咲いている花畑があった。とても綺麗だけれど今は景色を楽しんでいる余裕はない。
顔を上げると数メートル先に洞窟が見えた。
花に囲まれた道を真っ直ぐ進み、洞窟の岩壁に手をついて中を覗くと、暗闇に赤く光る石がいくつもあった。
「これだ、深紅石」
この洞窟にしかない珍しいもの。濃い赤色をしている手のひらサイズの鉱石。
どれも地面に転がっているため、しゃがまないと採れない。右足に重心を置き、少しずつ地面との距離を縮めた。
「あ!」
途中で足が滑って、座り込んでしまった。おかげで鉱石には手が届いたけれど、ここからまた立たなきゃいけない。
来た道を戻らなければ。私は洞窟の中から花畑の向こうに見える木々をぼんやりと眺めていた。
このペースだと三十分以上はかかってしまう。そうなると、この左足が持つか分からない。
軽く足首に触れると、そこは熱を持って腫れていた。冷やして治るまで安静にしないと……ここが山でなければ。
少し休もうかな。
洞窟の中は涼しくて気持ちがいい。それに、下りるための体力を回復させたかった。
でも、急がなきゃ。
空はいつの間にかオレンジ色になっていた。このままでは夜になってしまう。
私は近くの岩に手をついて立ち上がろうとした。
「灯?」
突然視界が陰り、顔を上げた。
「え……」
そこにはクラネスさんがいた。
「どうしたんですか?」
気が抜けていたせいか、力のない声を上げてしまった。
「一人では心配だから、様子を見に来たんだが」
クラネスさんは、じっとこちらを見つめていた。
そうだ。私は今、服を汚してしゃがみ込んでいる。黙って顔を上げているだけだと怪我に気づかれてしまう。……何か言わないと。
「洞窟の中、気持ちよかったから休憩していたんですよ。すみません」
私は咄嗟に笑顔を作った。
「みんな心配しているから、早く下りるぞ」
彼は私に背を向けて歩き出した。
今のうちに立って追いかけないと。
岩に両手をつき、体重を預けるようにして立ち上がった。まだ痛みは引いていない。
私は怪我に気づかれないよう、できるだけ普通に歩いた。
花に囲まれた道の中。前を歩く背中を追いかけていたその時、ぱっと彼がこちらを振り向いた。
「わぁっ!」
驚いた私は、目を閉じて尻もちをついてしまった。
芝生があったおかげでそこまで痛みは感じなかったけれど、つぶっていた目を開けた時、目の前にはクラネスさんがいた。
「お前、怪我してるだろ」
「えっと……」
青色の瞳に見つめられ、目を逸らせない。
「見せてみろ」
腫れていた左足を見せた。
どうなっているか見なくても分かるから、私は視線を外した。
「どうして分かったんですか」
クラネスさんは持っていた布を足首に巻いてくれていた。
「歩く音だ。まぁ洞窟の中に座り込んでいる時点で怪しいとは思っていたが、隠すつもりだっただろ?だからわざと脅かした」
ばかだな。普通に考えたら気づかれると分かるはずなのに。上手く頭が働かないせいで、余計に迷惑をかけてしまった。
「ひとまずこれで」
左足を固定し終わったクラネスさんは私と距離を詰めてそのまま顎を掬い、強引に視線を重ねた。
「いいか怪我人。今から俺の言うことはなんでも聞くと約束しろ」
その目は怒っているのか、愉んでいるのか分からない。ただ、逃げるなと言われていることだけは分かった。
「……はい」
私は、そう返事をすることしかできなかった。
「乗れ」
クラネスさんは背中に私を乗せて山を下りると言った。
「いや、さすがにそれは……」
「約束」
「……」
背中から見えない圧を感じる。
私は、土に触れた手で彼の服を汚してしまわないように、黙って腕を回した。
静寂の中で地面を踏む足音と、風に揺れている葉の音が聞こえる。
しばらく無言の時間が続いていたけれど、クラネスさんが口を開いた。
「最近俺のこと避けてただろ?」
その言葉に鼓動が早まる。
「……バレてました?」
騒ぐ心臓に振り回されず、言葉を探す。
「隠したいことがあるならもう少し上手くやれよ」
「クラネスさんに言われたくないですよ」
後ろから彼の表情は見えない。
見えないのなら、言ってしまおうか……全部。
山の中は薄暗い。もうすぐ夜になる。
「クラネスさん。私、ずっとクラネスさんに言いたかったことがあるんです」
「なんだ?」
その足は止まることなく進み続ける。
私は彼に届くように優しく言った。
「私が怖いって言ったから、夜は会わないようにしてくれてますよね?」
「……そんなつもりはなかったが」
今の間は、多分図星。
「気にしてたから、容姿を変えたんでしょ?気づいてますよ」
「……」
夜になると私の前には現れないようにしていると気づいた日。実はこっそりコンタクトをつけて部屋を覗いていた。
以前私は、少女漫画に出てくるようなイケメンの吸血鬼だったらよかったのにと言った。それは本来の姿がイケメンではないというわけではなく、少し視線が冷たかったり、青白い肌に傷があったりして、普段との温度差に怖がっていたから。
「できるだけ、今の姿と変わらないようにしてますよね」
その日私が見たのは瞳の色が変わっただけの、いつも通りのクラネスさんだった。
容姿を変えるものなんて、この人ならすぐに作ってしまうだろうから、私に言われた翌日にでも試していたのかもしれない。
「どうして怖がっていいなんて言ったんですか」
「灯を不安にさせたくなかったからだ」
「でも気にしてたんですよね」
「気にしていたわけではない。ただ、好きな人にとって理想の姿でありたいと思っただけだ」
好き。
淡々と過ぎる時間の中で、その言葉だけがふわりと浮いていた。
私は、手をきゅっと結んだ。
「どんな姿になっても、クラネスさんはクラネスさんです。……私が好きなことには変わりないですよ」
「それは、どういう意味だ?」
返ってきた言葉は先程までと変わりない調子だった。
私は自分にも聞こえるように言った。
「言葉通りの意味ですよ。私はクラネスさんのことが好きなんです」
この人、私に対して抱いている感情はあるくせに、私の気持ちには気づいていなかったんだ。
そうなると私が避けていた理由は本当に分かっていなくて……それはそれで、ちょっと申し訳ないことをしたかもしれない。
少し間が空いた後、私は言葉を続けた。
「クラネスさんは私のことが大切だとか、好きだとか言ってくれてますが」
「あぁ」
「……クラネスさんの言う好きは、恋愛感情の好きではないですよね?」
「では恋愛の好きとはなんだ?」
言葉だけじゃ本当はどんなことを思っているのか分からない。
知りたい……喜びか、悲しみか、哀れみか、迷惑に思っているのか。
「私を気遣ってくれているなら、その必要はないですよ。もう分かってるので」
「……」
私は軽く息を吐いた。
これで最後だ。
「クラネスさんの言う好きは、親が子どもに注ぐような愛情と同じですよね。小さい頃から私のことを見ていたのなら、その成長過程を見守る中で芽生えた愛情」
声が震える。
次の言葉が紡がれるまでが長く感じる。
「……どうだろうな」
「そこ曖昧にする必要あります?」
笑い混じりに言い返した。
その後、何も言葉は続かなかった。
私は、いつから好きだと気づいていたんだろう。
一緒に過ごす時間の中で距離が縮まって、彼の隣が心地良くて、見えていなかった優しさに気づいて、どうしようもなく好きだと思った。その形は不器用で繊細なものかと思えば、急に言葉にしてこちらを見つめてくるし、私から近づくと一歩引かれてしまう。
私はクラネスさんの肩に、こつんと額をつけた。
人生初告白だったんだけどな。
初めから上手くいくなんて思っていなかった。唯一ありがたかったのは、彼がいつも通りに言葉を返してくれたこと。変な空気になることなく、聞き流すわけでもなく、いつもと変わらない時間の中にいられたこと。それだけで十分だった。
これでもう、思い残すことはなにもない。