「これは?」

 クロムさんの話を聞いている途中、テーブルの上に何かを置かれた。

 「コンパスだよ」

 これが過去と未来が見えるコンパス。

 「壊れてしまったけどね。少し前までは動いていたんだ」

 「故障ですか?」

 「いいや、もう直らない。未来が変わってしまったからね」

 未来が、変わった?

 「クラネスが灯さんをここへ連れて来た、それが何よりの証拠だよ。本来人間が住んでいる世界とこちらの世界を行き来できる鏡なんて作れない。だけどそれを、クラネスはやってのけた」

 私がここに来たことで未来が変わった。あの人、そんなすごいことやってたんだ。
 何も言わずに誘拐みたいな形で連れて来られた時は何考えているか分からない人だったのに、その後ろでこんな大きなものを抱えていたなんて気づけるはずがない。

 「灯さんが持っているそのメガネ。それはクラネスから返されたものだよ」

 「もしかしてメガネに代わる別のものって、私のコンタクトだったりします?」

 あの時は試作品だと言われていた。これをつけて効果を確かめられるのは私しかいなかったから。

 「正解、そうだよ。完成したからってアポを取るついでに返された」

 そう話すクロムさんは嬉しそうだった。

 そして彼はクラネスさんの研究を手伝っていた。エネルギー源に必要な材料がどこにあるのか調べ、探し出す。材料の持ち主全員を見つけられたのはクロムさんのおかげらしい。


 「このコンパスの歯車を君に預ければ、僕の役目は終わる」

 四つ目の材料、それはクロムさんが持っているコンパスの中にある歯車だった。

 「信じると言ったけど、本当は怖いんだ。優しくて臆病なクラネスにやらせてよかったのかと……だから灯さん、最後まで彼を見守ってあげてほしい。僕は陰から見ていることしかできないから」

 「陰から?どうしてですか?」

 クロムさんは静かに下を向く。

 「カーネットさんが仕立ててくれた服を着ていても、周りの人たちがクロムという存在を認識しなければ、僕は見えない。僕のことが見えるのは、クロムの存在を認知した人だけだから。できるだけ人前に出ることは避けたいんだ」

 だから私はクロムさんと初めて会った時、話しかけられるまで気づかった。目の前にクロムという()()()()がいることに。
 クロムという透明人間がいるということを知っている人にしか彼は見えない。しかしクロムさんは自らを知られるようなことは避けている。


 「結果さえあればいいんだよ」

 「え?」

 その声は、ひどく落ち着いていた。

 「僕の場合は、その結果でさえ気づかれないけど」

 急に何を……と思ったけれど、彼からすればこんな話は急でもなかったのかもしれない。

 「皆が見るのは結果だけ。それさえしっかりしていれば後はどうでもいいんだ。結果の過程なんて面白味のない部分を見たって仕方がない」

 「そんなことは……」

 「君は、リレー大会の決勝で優勝した人の練習と決勝に出られなかった人の練習、どちらを知りたいと思う?実際前者には才能があってあまり練習しなかった。後者は毎日実りのある練習をしていたが、決勝に出られなかった」

 結果を見た上で判断するのであれば前者かもしれない。後者のことを考えるきっかけなんてどこにあるのだろう。その人のことを知っている人以外は考えない気がする。
 あ、そうか。そういうことか。

 「僕が何かを作った場合、役に立つものができたとしても、皆が求めるのは見えない過程や結果ではなく、確かな結果だ」

 その言葉は、これから起こりうる未来のことを言っているようにも聞こえる。
 クラネスさんの研究が上手くいったとして、結果として残るのはクラネスさんが成し遂げたという事実。クロムさんの存在は誰も知らないし、どこにも残らない。これまでも、これからも……本当に?

 彼との出会いがなければ、鏡の効果は分からなかった。あの出会いがなければ、クラネスさんが今も研究を続けていたか分からない。そんな、始まりの存在がいつかは消えてしまう。

 「そんなことありません。私はちゃんと聞きました、クロムさんがやってきたこと。何を思って、何を願ったのか。それは、私の記憶に残ります」

 拳を握りしめ、自分の中にある悔しさを押し殺しながら話す。

 「たとえ見える結果でしか判断されなくても、クロムさんの存在は私の中に残ります!それはクラネスさんだって同じです!だからクロムさんも、クロムさんのことを信じてあげてください。クロムさんは見えない存在じゃありません。ちゃんとここにいるんです」

 どうか、自分の存在を否定しないで。見てくれている人は、必ずいるから。