何もない真っ白な空間。どこまで続いているのか分からない。そんな場所に立っていた。

 ――♪

 あれ、何か聞こえる。
 私の耳には聞いたことのある歌声が微かに届いていた。

 私は声のする方へ近づいた。

 ……お母さんだ。この歌は、お母さんが昔歌ってくれていたもの。

 そこには小学生かそれより前の頃の私とお母さんが映っている写真が落ちていた。
 こんなの撮った覚えないんだけどな。

 当時、家には私とお母さんの二人だけしかいなかった。それなのに、ここには二人とも映っている。誰かが撮ったものになるんだろうけど、こんな場面はさすがに他人に見せられるようなものではない。
 その写真にはお母さんの膝の上で頭を丸め、体を縮こませて泣きじゃくる私がいた。
 嫌な記憶は頭から離れないもので私は昔、雷が怖かった。今でも苦手なのには変わりない。

 私が初めて雷を見た時。あの大きな音と言い、カーテンを閉めた窓越しにも見える稲妻と言い、本当に怖かった。
 そんな私を落ち着かせるために、お母さんは歌を歌ってくれた。

 綺麗で優しい、忘れもしない歌声が聞こえてくる。今ではもう聞くことのできない歌声が、鮮明に。


 ――これ、夢だな。


 中学の卒業式の日、私の母親は来なかった。来なかったというか来られなかった。途中事故に遭って。
 私は卒業証書を受け取らずに病院へ走った。だけどそこに、いつもの母親はいなかった。
 あまりに突然のことで、ただ立ちすくむことしかできなかった。
 その日は雨だった。遠くには雷雲。

 私は一年間何もできずに抜け殻のようになっていた。一時期は部屋にこもって、歩くことも、食べることも、話すこともなかった。だから同級生と一緒に高校へ進学できなかった。

 この歌は死んだ母親を思い出してしまうものだ。歌えば雷が、もう会えない母親が、死んだ記憶が蘇る。私は、歌が嫌いになった。
 いや、それは違うか。
 私は好きだったものの記憶を自らの手で思い出したくない記憶に塗り替えていた。本当は母親の歌声が好きで、私は歌うことが好き。だけどそれを嫌うことで逃げ道を作っていた。向き合うことが、怖かったんだ。


 「あ」

 ――……またこれか。
 私の前には見覚えのある黒い影がいた。
 私を置いていこうとする影。追いかけても距離が縮まらない、手の届かない影。

 ――今回は熱が出てからなんだね。
 影は何も喋らない。

 ――あなたは誰なの?
 影は動かない。
 そして静かに消えていく。

 ――また、いなくなっちゃうんだね。
 一人にしないで。

 ……。

 「おいて、いかないで」

 ・

 ・

 ゆっくり目を開ける。

 「あかり」

 意識がはっきりしない中、聞こえてきたのは私の名前。それは聞くと安心してしまう声。だけどその表情は不安気だった。

 「クラネスさん?」

 私が名前を呼ぶとその人は安堵の笑みを浮かべた。
 どうしてクラネスさんが私の部屋に。

 「様子を見に来たら、うなされていたようだったから」

 うなされていた?
 あぁ、思い出した。夢を見ていたんだ。

 心配になって起こしてくれたのはありがたいけど……。

 「近くないですか?」

 気になったのはその距離感。ベッドで寝ている女の子をそう覗き込むかな普通。
 それに目を開けた時、手を添えられていたのか、頬に温かい感触があった。

 「目が覚めて二言目にそれか」

 どうしてだろう。あんな夢を見たせいだろうか。今、すごく安心している自分がいる。また眠ってしまいそう。
 だけど目をつぶれば置いていかれる。
 もう、一人になりたくないな。
 そう思って、私は手を伸ばした。

 「おいて、いかないで」

 その手を、ぎゅっと握り返してくれる人がいた。
 そのまま段々と意識が薄れ、私は再び眠りについた。