スープを飲み終えた後、私はクラネスさんの作業部屋に来ていた。
そこで差し出された木箱に入っていたのはコンタクトレンズ。
「これは視界に入る全てのものの真実を映す。ただ今は試作段階で、効果を試したことがない。なにせ、これをつけて効果が現れるのは人間である灯だけだからな」
私のために作られたようなコンタクトだ。その効果を試せる機会が目の前にある。
「これも研究に必要なことですか?」
「必要ない」
え、即答……。
「だが、隠し事は無しにしてほしいと言われたからな」
隠し事というのは彼自身のことであって、町全体のことを知りたいという意味で言ったわけではなかった。でもこの町と関わっていくということは、本来の姿と向き合うことも含まれるのだろう。
そう言い聞かせ、私は手を伸ばした。
あれ……今まで何ともなかったはずなのに。
コンタクトの入った木箱へ手を伸ばした瞬間、初めて自分の手が震えていることに気づいた。
「でも」
「え?」
震えに気づいたのか、クラネスさんは箱の蓋を閉じてしまった。
「なにも今すぐに試してほしいと言っているわけじゃない。少しずつ慣れていけばいい」
やると決めたからにはやりきらないと、言ったからにはちゃんと……そう思えば思うほど震えがひどくなる。
焦っている私の前でクラネスさんは言った。
「エイトから聞いたんだが、灯は町の者たちのことを聞いて悔しいと思ってくれたそうだな。見ただけで怖がられる、この町の者たちは可哀想だと」
「そんなつもりは……」
「可哀想だと思うのは何も悪いことじゃない。そこで見て見ぬふりをするならまだしも、灯は話を聞いてもなお、協力すると言ってくれた……その気持ちだけで十分だ」
そう話すクラネスさんの表情は痛いほど優しかった。
「異世界の事情に巻き込んで悪かったと思っている。だから、研究の協力も断ってくれて構わない」
「さっきと言ってることが違います」
彼の発言に驚いて咄嗟に否定した。
いや違う、この人は初めからこうするつもりだったんだ。私が怖がったから。震えていたから。こんな奴にできるわけないと思われた。
私は震えを止めるつもりで強く拳を握った。
昨夜見たものは脳裏に焼きついている。どんなに上書きをしても決して消えることはない。
どうしてこんな思いをしてまで、私はこの町にいなければならないのだろう。
隠すことができていた本音も馬鹿みたいに溢れて、自分が自分じゃないみたい。
決めたはずの心が揺らぐ。こんな自分が悔しい。どうすればいいのか分からない。
その時、優しい声が流れてきた風と一緒に私の頬を撫でた。
「怖いなら怖いと言えばいいだろ」
「え……」
「怖がっていい、嫌ってもいい。だから、怖い時は怖いと言って、辛い時は泣いて、それからどうすべきか考えるんだ。溜め込んだままでは、見えるはずの道も閉ざされてしまうからな」
それは思いもよらない言葉だった。
クラネスさんから包み込まれるような穏やかな温もりを感じる。
「そうやって自分の気持ちに蓋をするから、自分を見失うんだ」
「……っ」
「言っただろ?お前のことは何でも知っていると」
全てを見透かすような視線が突き刺さる。偽りのない瞳が私を映している。
無意識のうちに、私は握りしめていた手の力を緩めていた。
「試しに当ててやろう。灯は今、強さの裏に怖いという感情を隠している。強がることで、恐怖心が消えると思ってな」
「なん、で」
図星だった。
事情も知らずに怖がってはいけないと思って、意識的にそうしていた。
怖いと思い込み、相手を拒絶してしまわないか不安で、嫌いな自分になりたくなかったから。
誰かが嫌っているから私も嫌い。誰かが否定したからこの答えは間違っている。そう思ってしまう自分が嫌いだから、人と関わることを避けた。そうすることで、誰も傷つけないし、自分も傷つかずに済むと思っていた。
でも実際、恐怖心は消えなかった。その上、彼を傷つけた。
自分の行動を思い返しても反吐が出る。正しいと思ってやっていたことが裏目に出て、空回りしてばかり。こんな自分は、もう嫌だ。
「己の価値観を強要するのはよくないが、だからと言って自身の考えや感情を否定するのは違うと思う。自分で見て感じて怖いと思ったら、それが灯の答えだ」
怖いなら泣いてもいい。逃げてもいい。昨日までの自分に同じことを言えば、そうしていたと思う。
でも今までの自分にはうんざりだった。私が本当に嫌いなのは他人色に染まる自分じゃなくて、そんなことを考えて振り回されている自分だ。
蓋をした気持ちを放していいのなら……盾にする強さではなく、誰かのためになる強さがほしい。傷つけることを怖がって向き合わないのではなく、向き合った先で傷つけない方法を見つけたい。
『私が見たあの化け物は……!』
自分の言った言葉が頭の中に響いてくる。
あの時、彼は傷ついた心を隠すように笑っていた。
それでも私と向き合ってくれている。
拒絶さてれもおかしくないのは私の方なのに。
「灯は、どうしたいんだ?」
人と関わることを避けてきた自分が、人ではないと言われた町の人たちと上手く関わっていけるのか分からない。
だけどそれを理由に逃げ出したくない。ここで逃げると、本当に全てを失ってしまいそう。
私がどんなに嫌がっても聞かないふりをして、ここまで連れて来た。怖がっても追い出さないで私の気持ちを聞こうとしてくれている。そんな人をもう傷つけたくない。ちゃんと向き合いたい。
深く深呼吸をして、クラネスさんを見る。
「さっき研究に協力すると言ったのは、やけになって、こんな私でも役に立てるならなんだっていいと思ったからです。それに強気でいれば、やり通せると思っていました。……正直に言うと、鏡の部屋で見たクラネスさんは怖かったです。それこそ少女漫画に出てくるようなイケメンの吸血鬼だったらよかったのにとは思いましたよ。……でも、クラネスさんはどんな姿になったってクラネスさんです。私は自分を信じてあげられない臆病者だけど、そんな私と向き合ってくれた。だから私も、逃げずに向き合いたいと思いました。町のことを知りたい。全部知った上で、できることをやりたい。それが私の答えです」
曇りのない真っ直ぐな瞳はクラネスさんを映す。
「分かった。灯が後悔しないのなら、ここにいろ」
私の言葉を受け止めたクラネスさんは微笑んでくれた。
「……!はい!」
その瞬間、靄のかかっていた感情に晴れ間が差した気がして、私は潤んだ瞳を笑顔で隠した。
「やっと素直になったな」
「え?」
聞こえてきたそれが、なぜか引っ掛かった。
「もしかして私の意思を確認するために、わざとあんな言い方をしたんですか?」
探るように聞くと、彼は楽しそうに笑っていた。
「今頃気づいたのか?コンタクトのくだりから、そのつもりで話していた。そもそも初めから、ここを追い出すつもりはなかったぞ」
つまり全てクラネスさんの計算通りで、狙い通りに私が本音を吐き出したということ。
「なんかずるくないですか」
「曖昧な気持ちのままここにいると、いつか自分を見失ってしまう。そうならないためにもはっきり聞いておきたかったんだ」
「それならそうと言ってくれればよかったじゃないですか!どうしてあんな言い方を!」
恐怖や不安を抱えたまま研究に協力することはよくないと思っていた。だから自分の口でやりたいと言った時、迷いが消えて楽になれた。でもそれは全部、初めから仕組まれていたことで、素直に悔しくなった。
「真剣に考えてる姿、なかなか面白かったぞ?」
こっちは真剣に悩んでたのに……!
大人の手のひらで転がされた、自分はまだまだ子どもなのだと思い知らされる。
「……一発殴っていいですか?」
私が拳を握ると、彼はジャケットをひらりと翻して後ろを向いた。
「嫌だ」
今のはちょっとイラついた。
「それはそうとコンタクト、つけないのか?」
「話逸らさないでください!つけますけど!」
先程までの真面目なトーンが嘘みたいに部屋が騒がしくなる。
先を行く背中を追いかけながら、この人には勝てないと心の隅で思った。