長い夜が明け、朝日が顔を出し始める。結局一睡もできないまま朝を迎えた。
 布団に潜り、目をつぶっても消えない記憶。私の手は冷たいままだ。

 この家の主と次に会った時どんな顔をすればいいのか、それだけで一時間も悩んだ。
 身支度をして階段を下りる。リビングをこっそり覗くと、部屋には誰もいなかった。
 テーブルの上には「出かけている」というメモ。それを見て安心してしまう自分がいた。

 何かを食べる気にはなれないし、お腹も空いていない。
 私は水を一口だけ飲んで、家を出た。


 外は昨日と同じく朝市で賑わっていた。
 人混みを避け、できるだけ日陰の道を通る。
 頭が働かないせいか、道中何度か転びかけた。

 目的地に着くと、またあの人が迎えてくれた。

 「よく来たね」

 今日は長居するつもりなかったのに、縁側が見える部屋に案内された。


 「行きました」

 畳の上で座ることなく私は口を開いた。
 俯いたまま顔を上げられない。

 「ちゃんと見ましたよ」

 この人はどんな表情で聞いているのだろう。

 「そうか」

 この人は私に何をさせたいのだろう。

 「あれは……」

 「吸血鬼だよ」


 淡々と返される言葉は一問一句零れることなく耳に届いた。
 声が上手く出せない。

 黙り込んだ私にエイトさんは言葉を続ける。

 「皆、姿形は違えど人ではない何かです。恐らく彼らは町の者たちのことを話す時、一度も"人"という言葉を使わなかったのではないですか?」

 盲点だった。思い返してみても人と言っていたのは私だけで、この世界に人間なんて一人もいない。
 そう分かった途端、体の震えが止まらなくなった。


 「あなたは、怖いと感じましたか?」

 「……分かりません」

 「化け物だと思いましたか?」

 「分かりません」

 「あれがクラネスだと」

 「分かりません!」

 言葉を遮るように声を荒らげた。
 誰が悪いわけでもない。ただ自分の中にあるものを否定するように叫んでいた。

 「私が見たあの化け物は……!」

 閉じた蓋から躊躇いもなく溢れたそれは、口にしてはいけない言葉だと分かっていたのに。

 「化け物、ね」

 はっ……。
 エイトさんの声を聞いて、私は続きの言葉を押し込めた。

 「すみません」

 「謝ることはない、あなたは悪くないのだから。……悪いのは何も話さないまま、この世界に連れて来た彼です」

 今まで私の方を見つめていたエイトさんの視線が動いた。私もそれを追いかけて外を見る。


 「え……」


 そこにはいつもと変わらない姿のクラネスさんがいた。
 どうしてここに……。
 体の底から緊張感と罪悪感が這い上がってくる。


 「いやぁ、エイトにはやられたな。言わないでくれと頼んでいたはずなのに」

 彼は笑っていた。偽物の笑顔を貼りつけて、感情を読まれないようにしている。

 「何も知らずにいるよりいいと思います。それに遅かれ早かれこうなっていたかと」

 今はその落ち着きと優しさが怖い。表に出していないだけで、お互いの間にドス黒いものが見える。

 何黙ってるの?早く謝らないと。
 そう思っても声が出ない。

 昨日から何度も聞いた「あなたは悪くない」という言葉。そう言われたのは、私がこの町のことを知らない部外者だからだ。
 現状、部外者であることには変わりないけれど、鏡の部屋を知ってしまった。町の秘密を知ってしまった。
 知らなかったから悪くないという言い訳ができなくなった。

 クラネスさんは、なぜ秘密にしていたかったのだろう。エイトさんの言う通り、時間が経てば気づかれてしまうようなことだ。
 もしかして、私に知られては困るようなことがあるのだろうか。それなら彼の意思を組んで、これ以上踏み込まないこともできる。
 でも私は研究の材料としてここに来たはずだ。そこに逃げるという選択肢はないと思っている。


 「皆さんは、なぜ人間を怖がらせなくてはならないのですか?」

 知らないふりができないなら、逃げられないなら、向き合うしかない。

 「この町を守っていくために必要だからですよ。それに、彼がやっている研究は町を思ってのこと。灯さんに協力する意思があるのであれば、私は止めません。間違ってもあなたを殺めたり、喰らったりすることはありませんので、心配はいりませんよ」

 死なないのであればなんだっていい。どうせ一か月はここにいなくてはならないのだから。
 町を守るための研究なら、こんな私でも何かしら役に立つのかもしれない。

 クラネスさんの方を見ても、昨夜の面影は全くない。でもまだ恐怖心は残っている。

 これだから他人に関わるのはめんどくさい。本来なら考えなくてもいいことを考えなくてはならないから。
 だけど、ここにいる限り他人との関りは避けられない。
 覚悟を決めて、クラネスさんの方を向いた。

 「クラネスさん、私はあなたの研究に協力します」

 私の言葉が予想外だったのか二人とも固まっていた。
 その空間を打ち破ったのは、クラネスさんの笑い声だった。

 「頼もしいな。後から辞めますと言っても、逃がさないからな」

 逃げ場のない場所に連れて来たのはクラネスさんだ。それにもう決めたことだから、考えは変わらない。

 「クラネスさんこそ、隠し事は無しにしてくださいね」

 強気になって言い返すと、ため息まじりに「分かっている」と言われた。

 この選択に後悔がないかと聞かれれば、答えは分からない。だけどこんな規格外な展開は二度とないだろうから、最初で最後の悪あがきだ。


 「まとまったみたいだね」

 話を聞いていたエイトさんが立ち上がった。

 「あ、そうだこれ」

 私はポケットから鍵を取り出してエイトさんに返した。

 「……っ」

 それを受け取った彼は、私の耳元に顔を寄せた。
 迷いのない行動に戸惑う間もなく言葉が紡がれる。

 「また近いうちにお会いするでしょうから、その時は私も全てお話します」

 囁かれた声は儚くて、遠く感じた。