数分後、この部屋唯一のドアが開いた。
一人の足音が響く。
そして私がいる反対側、入口から数えて四つ目の鏡の前で立ち止まった。
姿勢を低くして鏡の後ろから顔を出す。薄暗くてよく見えないけれど、その後ろ姿にはなぜか見覚えがあった。
「うっ」
突然鏡が光を放ち、その人物は鏡の中へと入っていった。
それは一瞬のことで部屋には再び静寂が訪れる。鏡は輝きを弱めるも、まだ光っていた。
「ぁぁぁぁ」
やっとの思いで喉の奥から絞り出した声が震える息と混ざって消えた。
早く……ここから、逃げないと。
急いで立ち去らなければと反射的に思った。しかし、足がすくんで倒れてしまう。
ちゃんと踏ん張らないと立つことができない。
震える体は冷たいのに、心臓が熱い。上手く呼吸ができない。吐き出してしまいたくなる。何かが込み上げてくる。
……早く立ってよ。
鏡が光った時に見えた後ろ姿は、よく知っている人だった。でも鏡に映っていたのは知らない人。いや、あれは人じゃない。本で見たことがある。
あれは、吸血鬼だ。
たった一瞬だったけれど間違いない。視力はいい方だし、あの時はまだ落ち着いていた。
私は座り込んだまま動けずにいる。その間も頭の中で勝手に再生される数秒前の記憶。そして、嫌でも焼きついた"それ"のことを思い出す。
容姿は本で読んだのと同じだった。赤い瞳に光る牙。青白い肌に残る傷。冷たい視線に見つかると喰べられる。
でもそれはフィクションで、伝説の存在で、実在するわけ……違う。ここは何でもありな異世界。つまりあれは、本物の……。
『怖いと思ったら、逃げなさい』
「……!」
その瞬間、固まっていた足に力が入り、立ち上がって勢いよく走り出した。
ドアを開けて狭い通路を抜ける。
階段を下りると、広い図書館に乱れた足音が響く。
怖い。そんな簡単な言葉で言い表せてたまるか。
気持ち悪い。吐きたい。泣きたい。叫びたい。そんな感情でぐちゃぐちゃになりながら家まで走った。振り返らず、立ち止まらず、ひたすら走った。