「……は? 今なんて?」
「そ、それはコッチのセリフです!」
豊橋さんの一言に思わず間の抜けた声を、電話口で漏らしてしまう。
対する豊橋さんも俺の言葉を聞き、まくし立てる。
「て、ていうか…、イキナリそんなこと言って来るなんて無粋じゃないですか!? 何週間ぶりだと思ってるんですか!? それにコッチだって、心の準備というか……」
ゴニョゴニョと口籠り、語尾まで聞き取れなかったが憤慨していることは間違いない。
それにしても、彼女も言うようになったものだ。
俺という人間に対して、遠慮がなくなってきた。
まぁ、その方がこの先の展開を進める上で好都合ではある。
「それは、すまん。……いや待て! それこそお互い様だろ!?」
「そ、それは……。だって気まずいじゃないですか!?」
開き直りとも取れる彼女の言葉に、思わず吹き出す。
「そうだな。その通りだ」
「ですね。何だか私たちらしいですね」
俺が笑いながら言うと、彼女もフッと息を漏らすように笑い、安堵感がこみ上げてくる。
「それで、本題だが……。そうだな。まずは豊橋さんからどうぞ」
「えっ!? 私からですか? ですから、次のターゲットが決まったと……」
「オッケー。聞き違いではなかった。だが待て! お互い誤解があるかもしれん。何故なら、俺たちはまだ具体的な固有名詞を言っていない」
「そ、そうですね。じ、じゃあせーの、で行きますか!?」
妙な胸騒ぎがするが、ココは素直に彼女の提案に乗るとしよう。
「わ、分かった。じゃあ、せーの」
「「俺!(羽島さん!)」」
嫌な予感は的中した。
「おいおい……。ちょっと待ってくれよ。それはどういう意味か分かってんのか?」
「自分を棚に上げるにしても乱暴過ぎですよっ! 羽島さんこそ、どういう意味か分かって言ってるんですか!?」
「はぁ……。いいか? 俺が今から言うことは確実に黒歴史になる。だから計画が終わり次第、記憶喪失になれ。分かったか?」
「ムチャクチャ言わないで下さいっ! そんな都合良く、部分的に消せると思ってるんですか!?」
一応、記憶を消そうとしてくれる意欲はあるようだ。
何だろう。
彼女のこういう部分は、やはり愛しく思えてしまう。
俺は意を決し、咳払いを交えつつゆっくりと言葉を紡ぎ出す。
「……シンプルに言う。豊橋さん、俺を落としてみろっ!!」
その瞬間、時間が止まった感覚に襲われた。
近くで聞いている浜松の父親は苦笑いしているが、その心境は複雑極まりないものだろう。
無理もない。
娘の元恋人が、他の女性に対して身の程知らずな発言をしている様を目の当たりにしているのだ。
安城に至っては、大凡長年連れ添った先輩に向けるソレではない視線だ。
もはや軽蔑の色を隠そうともしていない。
寸刻の沈黙を破り、豊橋さんは吹き出す。
「ぷっ。理由を聞かせてもらっても、いいですか?」
電話口の彼女の声色は、心なしか優しいものだった。
「……いいか。俺はある人間とのある勝負に負けちまった。罰ゲーム付きの、な」
「はい」
「だが、俺は迷っている。そもそもこの罰ゲームを受け入れるかどうか、だ」
「それは……、どうしてですか?」
「考えてもみろ。そもそも俺は、今どういう状態だ?」
「どう、と言われても……」
「いいか? 俺は、とある映画監督から直々に脚本制作の依頼を受けていた。だがある時、ソイツが気まぐれで、突然ボイコットしちまった。だから、俺が実質的な責任者になっちまった」
「そうですね……。整理すると、確かにそういうことかもしれませんね……」
「そうだ! もう既にスポンサーは動いている。だから作品を完成させないと、借金も背負うし、スタッフも露頭に迷うことになる。ここまでは理解できるか?」
「は、はぁ……」
我ながらなんとも回りくどい。
だが、これは一度踏まなければならないプロセスであり、儀式のようなものだ。
でないと、本当の意味で先に進めない。
俺も、彼女も。
「そして、豊橋さん! アンタは今、どういう状況だ?」
「私、ですか? デート商法という仕事に足を突っ込んでしまい、辞めようか悩んでいるところ羽し……、いえ。ある一人の男性と出会い、その方からあるミッションが課せられました」
俺の話の趣旨に合わせた言い回しで、彼女も応じる。
「そうだ。具体的には、デート商法必勝マニュアルを作ること。そうだな?」
「はい……」
「そこで、また俺の話に戻る。俺は未だに完成していない脚本を仕上げなければならない。それと同時に新しい監督を探さなければならない。だから、そもそも罰ゲームを実行する時間はない。それは分かるか?」
「はい」
「だからと言って、勝負は勝負。勝者の言うことは絶対だ。そこでだ、豊橋さん!」
「は、はい!」
「マニュアル作りの一貫として、俺に忙しい合間を縫ってでも罰ゲームを実行しようとする気分にさせろ!」
「えぇーっ!! 何ですかそれ!?」
「それともう一つ。俺は、この罰ゲームを実行させたヤツに監督も任せようと思う。理由は、この作品が恋愛映画だからだ。俺を落とし、満更でもない気分にさせたヤツこそ、この作品を仕切るに相応しい人材だと思っている」
「あの、それって……」
「もちろん、半端なヤツにやらせるつもりはない。出来損ないとは言え、これは俺がそれなりに大切にしていた案件だ。だから、本気でやれ!」
自分で言っていて、恥ずかしくなる。
早口にもなって当然だ。
顔も、あからさまに熱がこもってきたことが分かる。
身の程知らずなのは百も承知だが、生憎これ以外の表現が思いつかない。
それに、これではまるで……。
当然のことながら、豊橋さんは言葉を詰まらせる。
「フフ……。アハハハハハハハ!」
そんな気まずさを吹き飛ばすように、彼女は突如笑い出す。
息を漏らす、というようなレベルではない。
本当の意味で、彼女の笑い声を聞いたのはこれが初めてかもしれない。
一通り満足するまで笑い倒すと、彼女はゆっくりと言葉を漏らす。
「ごめんなさい。あまりにもオカシくて!」
「……悪かったな」
「いえいえ。分かりました! 羽島さんがついつい引っ掛かってしまうような甘〜いシナリオをつくってご覧にいれます!」
かつて俺が使った言い回しで、彼女は勇んで見せる。
「……で、アンタの動機はまだ聞いてないんだが」
「私の、ですか? はて? 何でしたかね?」
「何だよ、それ……」
「ごめんなさい。そんなのどうでも良いって思うくらい、羽島さんがメチャクチャだったんで」
「最近、本当に遠慮ねぇな……」
「でも、羽島さんの話を聞いて、俄然やる気が出てきました。それじゃ……、ダメですかね?」
ダメなはずはない。
必要以上に動機や理由にこだわるのは、愚の骨頂だ。
彼女も、きっとそれは分かっている。
彼女は罰ゲームの中身を知らない。
だが、彼女のゆっくりと俺の言葉の一つ一つを噛みしめるような返答から察するに、大凡の内容を理解しているのかもしれない。
だからこそ、余計に気恥ずかしくなる。
「別にダメじゃねぇよ……。詳しいことはまた改めて、豊橋さんから連絡してくれ。いいか? くれぐれも言っておくが、今回俺は饗される側だからな?」
「分かってますよ。ではまた!」
そう言って、彼女は電話を切った。
電話越しの彼女は、最後まで笑いをこらえているような様子だった。
「そうか。キミが選んだのはそういう道か……」
電話を切るなり、彼女の父親は俺に声を掛けてくる。
「はい。俺には……、いえ。俺たちにはこういうやり方しか出来そうにありません」
「そうか……」
そう言って、彼女の父親は柔和な笑みを浮かべた。
このタイミングでは、卑怯かも知れない。
だが、彼女の父親の笑みが示すものが分かる今こそ、本当の意味で謝罪が伝わる気がした。
「あの……、何年も顔見せずに申し訳ありませんでした! いつかはちゃんと向き合わなきゃとは思っていたんですが……」
「いや、良いんだよ。この2年間。ある意味、ずっと娘のことを考えていてくれたってことだろ?」
「まぁ……、そうなりますね。良い意味だけではないですけど……」
「そうだろうね。でも、その間娘は間違いなく生きていたんだ、キミの中で。もちろん、私の中でも。人生のロスタイムって言ったら乱暴だけど、そう思うだけで、何か救われる気がするんだ。親なんてそんなもんさ。今思えば、それも娘の狙いだったんじゃないかな?」
やはり、この父親にしてあの娘ありだ。
嘘なんてものは、それを言う相手があってこそのものだ。
それが何の臆面もなく言えてしまうのは、相手の善意を信じているからに他ならない。
やはり、今になって改めて思う。
他人に対して嘘ばかり吐いていた浜松朔良は、誰よりも人の本質を見つめていた。
「……アイツならまだ生き続けますよ。今より多少、存在感は薄くなるかもしれませんけど」
リップサービスとばかりに俺がそう言うと、彼女の父親は一瞬ポカンと呆然とした顔を見せる。
すると、次の瞬間には豪快に笑いながら、返答する。
「そっかそっか! 娘は最高の男を掴まえたもんだ、ハハハ!」
「いや、そんなことは……」
彼女の父親から謎の太鼓判を押され、妙な気恥ずかしさを覚えてしまう。
褒められ慣れていない、というのも陰キャたる所以なのかもしれない。
とは言え、実際今の言葉に偽りはない。
アレほど長年に渡って、太々しく俺の心をかき乱してきた女がそう簡単にくたばるとは到底思えない。
「今まで色々と悪かったね! 何分、ウチの自慢の娘はキミが思っている以上に底意地が悪くてね」
「知ってますよ。お互い苦労しますね」
「あぁ……」
そう言って、彼女の父親は一筋の涙を溢す。
彼の中でも、今日にしてようやく一つの区切りがついたのだろう。
そう考えれば、俺という存在はつくづく罪深いと思う。
しかし、だからと言って自己嫌悪に陥るのは彼女たちの本意ではない。
俺はいつまでも、迷惑で人任せで捻くれ者で、それでいて騙されやすい薄情者でいなければならない。
そんな俺だからこそ、出来ることがある。
「今日はよろしく頼むよ。今日で本当の意味で終わりだ」
「いえ……。俺の場合、問題はこれからですよ。とは言っても、俺は基本的に受け身ですけど」
「そうかそうか! これから他の女に口説かれるんだよね? 全く。キミじゃなかったらぶん殴ってるところだよ、あはは」
「ははは……。それは命拾いしましたね……」
彼女の父親は冗談めいた雰囲気で言うが、どうしても目が笑っているように見えない。
「じゃあね、羽島くん。幸せになるんだよ」
「はい。あの……、ありがとうございます」
俺の言葉を聞き届けると、彼女の父親は何も言わずに待合室から出ていった。
丸投げ、とでも何とでも言えばいい。
だが、これは俺が考えて考えて考え抜いた先で、辿り着いた結論だ。
豊橋さんと出会ってから、俺なりに彼女のことを見てきたつもりだ。
あの不器用で、こちらが息苦しくなるほど真っ直ぐな姿は、間違いなく彼女のアイデンティティだ。
だが、時折見せるあの悪戯な笑みも、紛れもなく彼女の一面だろう。
だからこそ、俺は興味がある。
豊橋さんがどんな嘘で、俺を騙してくれるのか。
そして、その先でどんな世界を見せてくれるのか。
俺たちの最後のマニュアル作りは、今こうして幕が開かれた。
「そ、それはコッチのセリフです!」
豊橋さんの一言に思わず間の抜けた声を、電話口で漏らしてしまう。
対する豊橋さんも俺の言葉を聞き、まくし立てる。
「て、ていうか…、イキナリそんなこと言って来るなんて無粋じゃないですか!? 何週間ぶりだと思ってるんですか!? それにコッチだって、心の準備というか……」
ゴニョゴニョと口籠り、語尾まで聞き取れなかったが憤慨していることは間違いない。
それにしても、彼女も言うようになったものだ。
俺という人間に対して、遠慮がなくなってきた。
まぁ、その方がこの先の展開を進める上で好都合ではある。
「それは、すまん。……いや待て! それこそお互い様だろ!?」
「そ、それは……。だって気まずいじゃないですか!?」
開き直りとも取れる彼女の言葉に、思わず吹き出す。
「そうだな。その通りだ」
「ですね。何だか私たちらしいですね」
俺が笑いながら言うと、彼女もフッと息を漏らすように笑い、安堵感がこみ上げてくる。
「それで、本題だが……。そうだな。まずは豊橋さんからどうぞ」
「えっ!? 私からですか? ですから、次のターゲットが決まったと……」
「オッケー。聞き違いではなかった。だが待て! お互い誤解があるかもしれん。何故なら、俺たちはまだ具体的な固有名詞を言っていない」
「そ、そうですね。じ、じゃあせーの、で行きますか!?」
妙な胸騒ぎがするが、ココは素直に彼女の提案に乗るとしよう。
「わ、分かった。じゃあ、せーの」
「「俺!(羽島さん!)」」
嫌な予感は的中した。
「おいおい……。ちょっと待ってくれよ。それはどういう意味か分かってんのか?」
「自分を棚に上げるにしても乱暴過ぎですよっ! 羽島さんこそ、どういう意味か分かって言ってるんですか!?」
「はぁ……。いいか? 俺が今から言うことは確実に黒歴史になる。だから計画が終わり次第、記憶喪失になれ。分かったか?」
「ムチャクチャ言わないで下さいっ! そんな都合良く、部分的に消せると思ってるんですか!?」
一応、記憶を消そうとしてくれる意欲はあるようだ。
何だろう。
彼女のこういう部分は、やはり愛しく思えてしまう。
俺は意を決し、咳払いを交えつつゆっくりと言葉を紡ぎ出す。
「……シンプルに言う。豊橋さん、俺を落としてみろっ!!」
その瞬間、時間が止まった感覚に襲われた。
近くで聞いている浜松の父親は苦笑いしているが、その心境は複雑極まりないものだろう。
無理もない。
娘の元恋人が、他の女性に対して身の程知らずな発言をしている様を目の当たりにしているのだ。
安城に至っては、大凡長年連れ添った先輩に向けるソレではない視線だ。
もはや軽蔑の色を隠そうともしていない。
寸刻の沈黙を破り、豊橋さんは吹き出す。
「ぷっ。理由を聞かせてもらっても、いいですか?」
電話口の彼女の声色は、心なしか優しいものだった。
「……いいか。俺はある人間とのある勝負に負けちまった。罰ゲーム付きの、な」
「はい」
「だが、俺は迷っている。そもそもこの罰ゲームを受け入れるかどうか、だ」
「それは……、どうしてですか?」
「考えてもみろ。そもそも俺は、今どういう状態だ?」
「どう、と言われても……」
「いいか? 俺は、とある映画監督から直々に脚本制作の依頼を受けていた。だがある時、ソイツが気まぐれで、突然ボイコットしちまった。だから、俺が実質的な責任者になっちまった」
「そうですね……。整理すると、確かにそういうことかもしれませんね……」
「そうだ! もう既にスポンサーは動いている。だから作品を完成させないと、借金も背負うし、スタッフも露頭に迷うことになる。ここまでは理解できるか?」
「は、はぁ……」
我ながらなんとも回りくどい。
だが、これは一度踏まなければならないプロセスであり、儀式のようなものだ。
でないと、本当の意味で先に進めない。
俺も、彼女も。
「そして、豊橋さん! アンタは今、どういう状況だ?」
「私、ですか? デート商法という仕事に足を突っ込んでしまい、辞めようか悩んでいるところ羽し……、いえ。ある一人の男性と出会い、その方からあるミッションが課せられました」
俺の話の趣旨に合わせた言い回しで、彼女も応じる。
「そうだ。具体的には、デート商法必勝マニュアルを作ること。そうだな?」
「はい……」
「そこで、また俺の話に戻る。俺は未だに完成していない脚本を仕上げなければならない。それと同時に新しい監督を探さなければならない。だから、そもそも罰ゲームを実行する時間はない。それは分かるか?」
「はい」
「だからと言って、勝負は勝負。勝者の言うことは絶対だ。そこでだ、豊橋さん!」
「は、はい!」
「マニュアル作りの一貫として、俺に忙しい合間を縫ってでも罰ゲームを実行しようとする気分にさせろ!」
「えぇーっ!! 何ですかそれ!?」
「それともう一つ。俺は、この罰ゲームを実行させたヤツに監督も任せようと思う。理由は、この作品が恋愛映画だからだ。俺を落とし、満更でもない気分にさせたヤツこそ、この作品を仕切るに相応しい人材だと思っている」
「あの、それって……」
「もちろん、半端なヤツにやらせるつもりはない。出来損ないとは言え、これは俺がそれなりに大切にしていた案件だ。だから、本気でやれ!」
自分で言っていて、恥ずかしくなる。
早口にもなって当然だ。
顔も、あからさまに熱がこもってきたことが分かる。
身の程知らずなのは百も承知だが、生憎これ以外の表現が思いつかない。
それに、これではまるで……。
当然のことながら、豊橋さんは言葉を詰まらせる。
「フフ……。アハハハハハハハ!」
そんな気まずさを吹き飛ばすように、彼女は突如笑い出す。
息を漏らす、というようなレベルではない。
本当の意味で、彼女の笑い声を聞いたのはこれが初めてかもしれない。
一通り満足するまで笑い倒すと、彼女はゆっくりと言葉を漏らす。
「ごめんなさい。あまりにもオカシくて!」
「……悪かったな」
「いえいえ。分かりました! 羽島さんがついつい引っ掛かってしまうような甘〜いシナリオをつくってご覧にいれます!」
かつて俺が使った言い回しで、彼女は勇んで見せる。
「……で、アンタの動機はまだ聞いてないんだが」
「私の、ですか? はて? 何でしたかね?」
「何だよ、それ……」
「ごめんなさい。そんなのどうでも良いって思うくらい、羽島さんがメチャクチャだったんで」
「最近、本当に遠慮ねぇな……」
「でも、羽島さんの話を聞いて、俄然やる気が出てきました。それじゃ……、ダメですかね?」
ダメなはずはない。
必要以上に動機や理由にこだわるのは、愚の骨頂だ。
彼女も、きっとそれは分かっている。
彼女は罰ゲームの中身を知らない。
だが、彼女のゆっくりと俺の言葉の一つ一つを噛みしめるような返答から察するに、大凡の内容を理解しているのかもしれない。
だからこそ、余計に気恥ずかしくなる。
「別にダメじゃねぇよ……。詳しいことはまた改めて、豊橋さんから連絡してくれ。いいか? くれぐれも言っておくが、今回俺は饗される側だからな?」
「分かってますよ。ではまた!」
そう言って、彼女は電話を切った。
電話越しの彼女は、最後まで笑いをこらえているような様子だった。
「そうか。キミが選んだのはそういう道か……」
電話を切るなり、彼女の父親は俺に声を掛けてくる。
「はい。俺には……、いえ。俺たちにはこういうやり方しか出来そうにありません」
「そうか……」
そう言って、彼女の父親は柔和な笑みを浮かべた。
このタイミングでは、卑怯かも知れない。
だが、彼女の父親の笑みが示すものが分かる今こそ、本当の意味で謝罪が伝わる気がした。
「あの……、何年も顔見せずに申し訳ありませんでした! いつかはちゃんと向き合わなきゃとは思っていたんですが……」
「いや、良いんだよ。この2年間。ある意味、ずっと娘のことを考えていてくれたってことだろ?」
「まぁ……、そうなりますね。良い意味だけではないですけど……」
「そうだろうね。でも、その間娘は間違いなく生きていたんだ、キミの中で。もちろん、私の中でも。人生のロスタイムって言ったら乱暴だけど、そう思うだけで、何か救われる気がするんだ。親なんてそんなもんさ。今思えば、それも娘の狙いだったんじゃないかな?」
やはり、この父親にしてあの娘ありだ。
嘘なんてものは、それを言う相手があってこそのものだ。
それが何の臆面もなく言えてしまうのは、相手の善意を信じているからに他ならない。
やはり、今になって改めて思う。
他人に対して嘘ばかり吐いていた浜松朔良は、誰よりも人の本質を見つめていた。
「……アイツならまだ生き続けますよ。今より多少、存在感は薄くなるかもしれませんけど」
リップサービスとばかりに俺がそう言うと、彼女の父親は一瞬ポカンと呆然とした顔を見せる。
すると、次の瞬間には豪快に笑いながら、返答する。
「そっかそっか! 娘は最高の男を掴まえたもんだ、ハハハ!」
「いや、そんなことは……」
彼女の父親から謎の太鼓判を押され、妙な気恥ずかしさを覚えてしまう。
褒められ慣れていない、というのも陰キャたる所以なのかもしれない。
とは言え、実際今の言葉に偽りはない。
アレほど長年に渡って、太々しく俺の心をかき乱してきた女がそう簡単にくたばるとは到底思えない。
「今まで色々と悪かったね! 何分、ウチの自慢の娘はキミが思っている以上に底意地が悪くてね」
「知ってますよ。お互い苦労しますね」
「あぁ……」
そう言って、彼女の父親は一筋の涙を溢す。
彼の中でも、今日にしてようやく一つの区切りがついたのだろう。
そう考えれば、俺という存在はつくづく罪深いと思う。
しかし、だからと言って自己嫌悪に陥るのは彼女たちの本意ではない。
俺はいつまでも、迷惑で人任せで捻くれ者で、それでいて騙されやすい薄情者でいなければならない。
そんな俺だからこそ、出来ることがある。
「今日はよろしく頼むよ。今日で本当の意味で終わりだ」
「いえ……。俺の場合、問題はこれからですよ。とは言っても、俺は基本的に受け身ですけど」
「そうかそうか! これから他の女に口説かれるんだよね? 全く。キミじゃなかったらぶん殴ってるところだよ、あはは」
「ははは……。それは命拾いしましたね……」
彼女の父親は冗談めいた雰囲気で言うが、どうしても目が笑っているように見えない。
「じゃあね、羽島くん。幸せになるんだよ」
「はい。あの……、ありがとうございます」
俺の言葉を聞き届けると、彼女の父親は何も言わずに待合室から出ていった。
丸投げ、とでも何とでも言えばいい。
だが、これは俺が考えて考えて考え抜いた先で、辿り着いた結論だ。
豊橋さんと出会ってから、俺なりに彼女のことを見てきたつもりだ。
あの不器用で、こちらが息苦しくなるほど真っ直ぐな姿は、間違いなく彼女のアイデンティティだ。
だが、時折見せるあの悪戯な笑みも、紛れもなく彼女の一面だろう。
だからこそ、俺は興味がある。
豊橋さんがどんな嘘で、俺を騙してくれるのか。
そして、その先でどんな世界を見せてくれるのか。
俺たちの最後のマニュアル作りは、今こうして幕が開かれた。