唐突だが、僕の最初の故郷はこの世界には存在しない。

 地球という星の日本という国であった。これといって大したことはしていない。中流家庭に生まれて、小中高、大学と進学して商社に就職。

 趣味はゲームと旅行。仕事でも海外出張も多く、スマホ時代でありながら紙書籍の時刻表やガイドブックを片手にいろんなところに行ったものだ。旅客船にも乗ったし、ガタガタ揺れて死ぬかもと思うような小型の飛行機にも乗った。

 で、いろいろあって地球での人生は終わりを告げ、気づけばこの世界の金髪の少年に生まれ変わっていた。確か、前世の記憶をはっきりと思い出したのは三歳くらいだったと思う。

 そこで僕は神童……ともてはやされれば良かったのだが、全然そんなことはなかった。むしろ、強さこそジャスティス、戦争こそ名誉という戦闘部族の水が少々合わなかった。

 本を読んで、算術、法律、あるいは文芸、あるいは戦闘にあまり役立たないクラスやスキルなどを調べまくる僕のことを、周囲は奇人変人と見ていた。いや、この世界では正しく奇人変人の類であった。子供らしく興味本位で行動して、元日本人らしく荒事を避けるのは、少々まずかったと今更ながら思う。

 だがそれはさておき大事なのは、僕はめちゃめちゃ揺れる船でも酔わずにノスタルジーに浸れることであった。ぎっしぎっし(きし)む船と、グロッキー状態の人々を眺めていると、昔の旅行の楽しかった日々を思い出す。

 眺めて悦に入るのも悪いので、あまりに症状がひどい人間には治癒魔法をかけてやった。

「【魔法使い:聖水】』」

 低級の水属性の魔法だ。

 コップ一杯程度の水を出し、これを飲み干すと体力が少しばかり回復する。

「す、すまねえな」

「一気に飲み干さず、ゆっくりと」

 船長からは仕事をする必要はないとは言われたが、あまり気にしていない。数百人の奴隷の中でここまで待遇が良いのは僕含めて十人もいないだろう。「あいつは遊んでたやつだ」と船旅の後も顔を覚えられっぱなしでは困る。

 ちなみに僕のように元王族とか、あるいは元貴族とか、身元と能力が保証されていて健康な奴隷は一等奴隷となる。私有財産も奪われることがなく、ただ自分に雇用主を選ぶ権利がないだけのサラリーマンだ。真面目に仕事をこなして任期を満了するか、または買取金額を雇用主に渡せば奴隷から解放される。

 借金苦によって売られた平民など、正規の手続きで奴隷となった人間は二等奴隷だ。一等奴隷との違いは身分だけで、権利などはあまり変わらない。

 一番扱いが悪いのは三等奴隷である。戦争で負けて奴隷に落とされたとか、身元不詳の人間が奴隷狩りに遭ったなど、一番分かりやすい「搾取(さくしゅ)される側」であり、奴隷の最大派閥でもある。彼らは船内での労役も多く、流石に見ていて気分が悪い。恨まれたくないという打算もあるが、放っておきたくはなかった。

「魔法で一時的に酔いは治っても、またすぐぶりかえしますよ。つらい時は遠くの、水平線の方に視線を合わせると楽になるそうです」

「助かった……」

「いえいえ。長旅ですから無理はなさらず」

 甲板の日差しは強い。

 風は少なく、熱中症に(かか)る人もいるかもしれないと思い、僕は体調の悪そうな人間に声をかけて回った。

 そして何人かの治療をしたところで、一人の女性が唐突に話しかけてきた。

「子供が大人を助けるな。つらそうにしてる子供だけ助けてやれ」

 (りん)とした声を放ったのは、美しいクリーム色の髪をした、長身の女性であった。

「十四歳で、大人です。祖国では十三歳が成人なので」

「……オレの国じゃお前は子供だ」

 女性がごまかすように顔を背けた。

 僕が子供と誤解されるのも仕方ないだろう。こちらはさほど身長が高い方ではない。また僕は男の割に肉のつきにくい体質らしく、親兄弟のようながっしりした体格を持っていない。

 対して、この女性は顔立ちこそ二十歳前後だろうが背は高い。女性の方は体も引き締まっていて、目つきは鋭い。例えるなら陸上選手のような、シャープでしなやかな雰囲気の美人だ。曲がりなりにも男として少々嫉妬せざるをえない。

 だが嫉妬など吹き飛ばすほどに、僕は彼女に好感を覚えた。誰かに売られ、どこかへ運ばれる奴隷船の中で、こんな奇特なことを言える人はなかなかいない。

「ともかく、だ。少しばかり役立つスキルが使えるからといって無闇(むやみ)に助け回るな。(あなど)られて顎で使われるだけだ」

「低級の治癒でしかありませんよ。これ以上を求められてもできませんから」

「そんなことは他人にはわからん。どうしてもと()われた時にだけ助けてやれ。報酬も要求しろ。この船にいる以上、お前は奴隷なのだろうが、顎で使われることに慣れるな」

「……優しい人ですね。お名前を聞いても良いですか?」

「なっ……!」

 ギロッと(にら)まれた。しまった、口説いてると思われたか。

「あ、いや、からかってるとかじゃないですよ。僕の名前はタクト。あなたは?」

「……オレは」

 長身の女性が口を開きかけたところで、また別方向から声が飛んできた。

「あら、マリアロンド。あなた仕事を抜け出して一夏の恋をするとは、意外に情熱的ですわね?」

 長身の女性の低い声とは対象的に、わざとらしいまでに甘い声。

 振り向けば、そこにいたのはこれまた不思議な雰囲気の女性であった。銀色のしなやかな長髪に、上質な生地の真っ白いワンピース。まさにどこかのお嬢様といった風情だが、それを帳消しにするものがある。黒いマントに、腰に付けたガンベルト。そして、そこにささっているひどく無骨な鉄。

「銃だ……」

 正確には、フリントロックピストルだ。

 火縄銃(ひなわじゅう)の火縄の部分が火打ち石になっている銃のことで、地球で言うところの一七世紀から一九世紀にかけて使われたものだが、もっとわかりやすい言い方もできる。

 アニメや映画の海賊がよく使ってるやつだ。

「あら、博識(はくしき)ですのね? ですが女性を見てその人よりも武器に気を取られるのは少々不躾でしてよ」

 マントの女性が意地悪な笑みを浮かべた。

 言うほど気分を害した様子はなかったが、失礼なのも確かだ。

「失礼しました。僕はタクト。開拓地に送られる予定の奴隷です」

「ええ、よく知っておりますとも。ローレンディアの王子様」

「ご存じで?」

「ええ。わたくし、バルディエ銃士団のミレットと申しますわ。初めまして。この船の護衛を仰せつかっております」

 バルディエ銃士団。

 その名前に少々聞き覚えがあった。少数精鋭の傭兵団で、いろんな国から仕官を求められながらも独立独歩で活動しているらしい。

「確か、二年前のアラスト渓谷戦争で戦果を上げたと。確かレーア族の部隊と共に敵の(とりで)を陥落させたと聞いております」

「あらあら、まあまあ。そのようなお話になっているのですね」

 口を当ててミレットさんが驚いた。

 あれ、これ結構有名な話だと思ったんだけどな。

 アラスト渓谷には、百年破られたことがないという難攻不落の要塞がある。そこを舞台とした戦争で渓谷を攻略した二つの傭兵団は、その名を大陸中に響かせていたはずだ。

「レーア族などという血に飢えた蛮族と並び称されてしまったので、てっきり王子から不興を買ったのかと思いましたわ」

「まさか。私の国……ローレンディアは武辺者(ぶへんもの)や荒くれ者ばかりで、勇猛な人々を尊敬の目で見てしまうのです」

 なんとか笑顔を保って京風の皮肉を回避した。こえーよこのお嬢さん。

「あら、お上手ですこと。その様子だとお国ではご苦労なさったでしょう?」

「ええ。ご覧の有様ですよ」

 彼女は共に戦ったはずの部族を蛮族などと馬鹿にしているが、ローレンディア王国の荒っぽさだって負けず劣らずだ。

 挑発的な皮肉を投げてくるのも、その国の王子とあればどのくらい血気盛んなのか確かめたくなったのだろう。「初めまして、あなたはだあれ?」程度のご挨拶のようなものだ。特に不愉快にも思わない。

 だが、僕以外の人間は不愉快を催したようだ。

「少年。陰険なバルディエ女の調子に合わせる必要はない。教育に悪い」

 最初に僕に話しかけてきた長身の女性が、まるで僕を守るかのように進み出た。

「あらマリアロンド。もしかして蛮族と言われて怒りました? わたくし、なにか間違ったことを言ったかしら?」

 どうやら二人は知己(ちき)のようだ……いや、そんな穏便な言葉で表すのも適当ではないだろう。マリアロンドと呼ばれた女性の表情には隠そうともしない敵意が浮かんでいる。

 やり取りから察するに、彼女がレーア族の人間であり、蛮族呼ばわりされたということだ。怒るのも無理はない。

「いいや、蛮族だとも。お前たちのように、誇りを捨てて()びへつらってまで仕事を得ようとは思わんからな」

 よほど痛いところを突かれたようで、ミレットさんの美麗(びれい)な顔がぎりりと(ゆが)んだ。

「ところでミレットさん、僕に話しかけたのはなにか御用があったのでは?」

 すっとぼけて話に割って入った。

 すると二人とも居心地の悪そうな顔を見せ、やがて表情を緩めた。

「……ふふ、ごめんなさいね。あなたとの話の途中だったのに」

「ふん」

 ミレットさんが微笑(ほほえ)みを浮かべる。

 そしてマリアロンドさんは、溜め息をついて背を向け、去っていった。

「気にしないでくださいまし。レーア族とはいつもこうですの」

「ああ、じゃあ本気でケンカする気はなかったんですね」

「いえ、隙を見せたら鉛玉を額に撃ち込むつもりでしたわ」

 蛮族やんけ。

 流石にそれはツッコミ入れたくてたまらない。

「さて、そろそろ外洋に入ります。特に用がないのであれば、なるべく部屋にいてください。私はこの船内の護衛を担っておりますので」

「何かあるんですか?」

「大型の鳥の魔獣や海の魔獣は手強いんですの。内海(うちうみ)より数は少ないんですけど、警戒度は上げなければいけません。乗客の安全を守るのが今の私の仕事ですから」

「どちらかというと騎士に守られる側に見えますが」

「あらお上手ですこと。大人を転がすのがうまいわね」

「転がすだなんて」

「あなたに助けられた人も多いわ。この船であなたに良からぬことを考える人も少ないでしょう。けれど」

 ミレットさんは言葉を切り、意味深に微笑みを浮かべた。

「けれど?」

「マリアロンドの忠告は本当ですわよ。求められてないならばやめておきなさい。逆に恨まれるわよ。特に、船酔いをしてるふりの人間からはね」

「船酔いの……ふり?」

「さて、私は仕事に戻るわ。じゃあね、王子様」

 意味深な言葉を残し、ミレットさんも去っていった。

 波は静かで、空は高い。

 もしこの世界に気圧配置図があれば、綺麗なまん丸の高気圧が描かれていたことだろう。

 だがそれでも、旅には常に不穏が付きまとう。