お菊さまの腹はいよいよ大きくなり、産み月が近づいていた。

気が立つのも分からなくはないが、とにかく気分が落ち着かない。

暑い暑いと泣きわめくのを、うちわで煽いでいた。

「そのように苛つかれては、お腹の子に障ります」

 間髪入れず、濡れ布巾を投げつけられる。

「お前の顔を見ているのが、一番気に障る!」

 わんわんと泣き始めたお菊さまをどうしていいのか、もう何も分からない。

苦労など何一つ知らない人だ。

あたしと歳は一つしか違わないのに、裁縫と琴しかしたことのないような体は、むくむくと白く太りたおし、もはや饅頭か大福のよう。

 廊下へ出ると、若旦那と鉢合わせた。

ビクリと体を震わせ、今までにないほど余所余所しい態度をなさる。

「あぁ。お多津か」

 もじもじと言葉を濁らせ、あたしから距離を取るように離れた。

「こないだのことは済まなかった。忘れてくれ」

 若旦那はそう言うと、閉じられたばかりの襖を開く。

「お菊。約束通り、多津とはケリをつけてきたぞ」

 廊下にあたしを残し、ぐじぐじと泣いている大福の待つ部屋へ消えてゆく。

その時は何を言われたのか、さっぱり分からなかった。

土間へ戻り、投げつけられた手ぬぐいを干したところで、ようやく気づく。

「あぁ、お菊さまに知れたのか」

 それでこのザマだ。

 旦那さまに呼び出され、座敷に上がった。

そこにお菊さまと若旦那はいなかった。

酷く得意げに興奮した奥さまにわめき散らされ、それに旦那さまはますます腹を立てた。

又吉と八代、お富まで呼び出され、それぞれに勝手な話しを持ち上げる。

「へぇ。コイツは実にいい加減な奴でごぜぇまして……」

「私といたしましても、旦那さまや奥さまに対し、誤解を招くようなことをしていたのは確かでございます。しかし、私とお多津との間にはなにも……」

「この人はいつだって無精で怠けてばかりでごぜぇます! 面倒なことはいつも、わっしに押しつけて……」

 ガザガザと枯れ草を踏む足音が聞こえる。

それは遠くから迫ってきていた。

やかましく鳴いていた虫たちが、急に静まりかえる。

 縛り上げろと言われた時、真っ先にあたしの腕を掴んだ又吉の、あの気持ち悪い顔。

八代の取り澄ましたような、他人行儀の能面づらと、お富の勝ち誇り、興奮したしゃべり方。

若旦那と交わした夜と、何も知らぬお菊さまの、美しく艶やかな佇まい……。

 気がつけば取り囲まれていた。

荒い息遣いと、よだれをすする舌なめずりまで聞こえる。

一匹? いや、もっとだ。

ヤバい、逃げなくちゃ。

逃げたいけど、逃げられない。

恐怖で体が震える。

 衣紋掛けに干された、美しい花嫁衣装を思い出す。

塩焼きの鯛をまぶした握り飯の旨さ。

あたしもいつかあんな綺麗な着物を着て、お嫁に行くんだと思っていた。

幸せな結婚をして、静かに暮らす。

どうしてそれだけのことが叶わないのだろう。

 縛り付けられ、身動きのとれないあたしには、どうしようもない。

鼻息荒く、じっとこちらを窺っている。

ぎゅっと目を閉じ、ガチガチと震える歯を食いしばった。

怖い。

全身が震える。

冷たい鼻先が、まだ感覚の残る肌に触れた。

ビクリと震えたあたしに、驚き飛び退く。

どうしてこうなった? あたしの何が悪かった? 

なんで? 何がいけなかった?

 真っ白な衣装を着て、想い想われた人のところへ嫁ぐ。

奉公人に意地悪なんて、絶対にしない。

優しい夫とその家族に囲まれて、まもなく生まれる子供のために産着を縫う。

 鋭い牙が肉に食い込んだ。

引きちぎる勢いで血まみれの着物が破ける。

叫び声を上げた。

 あぁ。それとも前に一度見た、旅芸人の仲間になるのもいいな。

美しい衣装を着て、お囃子に合わせて舞を舞う。

風のように駆け抜けて、どこまでも気の向くままに流れてゆく。

 牙が喉元に喰らいついた。

 明日、もしも明日、朝日を迎えることが出来たなら、あたしはきっと……。