奥さまはすっかりあたしを毛嫌いするようになった。

八代と懇意にしていると知ったからだ。

それを聞いたお富は、また何か余計なことを吹き込んだらしい。

「あんたがそんなだらしない女だとは、思わなかったよ」

 食べ終わった膳を下げている最中だった。

廊下ですれ違った奥さまに、足を引っかけられた。

「恥を知りなさい!」

 騒動に気づいたお菊さまが襖を開く。

ちらりとこちらを見ただけで、何も言わずにすぐに閉じてしまった。

あたしは転がった椀を拾い集め、こぼれた汁を拭く。

 こんな他愛ない出来心のような悪戯は、何もそれから始まったことではない。

ただこの辺りから、いつもよりしつこくなっただけ。

奥さまがあたしを何かにつけて馬鹿にするのを、皆が面白がって笑った。

人気の消えたところで、又吉が近寄る。

「お前の正体がバレたな」

 臭い息を耳に吹きかける。

どうしようもなく苛ついているとわかっているところへ、わざわざやってくるお前が悪い。

あたしはそのニヤついた顔に、思い切り桶の水をぶちまけた。

「てめぇごときが、余計な口利いてんじゃねぇ!」

 返り討ちで、飛んで来た拳に殴られる。

その勢いで土間に倒れ込んだあたしに、又吉はまたがった。

胸ぐらを掴み、気の済むまで殴りつける。

ようやく終わったと思ったら、最後にどかりと蹴り上げられた。

「調子のってんのは、お前の方だろ」

 又吉は唾を吐き捨て、土間を出て行く。

あたしは起き上がると、外へ飛び出した。

何を泣いているのか、なんで泣いているのかも分からなかった。

ただ目からあふれ出る滴を、止められないだけのこと。

離れの縁側の下に潜り込むと、一人でただ時の過ぎるのを待っていた。

「おや、今夜もどこかで子猫がないている」

 その夜の障子は、開け放されたままだった。

「お多津、出ておいで。またそこで一晩中泣かれたら、うるさくて仕方がない」

 若旦那は縁側に腰掛ける。

あたしはその隣に並んだ。

「また虐められたのか。好きだな、あの人たちも」

 その時に何を話したのかだなんて、今はもう覚えていない。

あたしは若旦那の話を黙って聞いていて、真夏の月がその日に限って、目の眩むほど途方もなく大きくて、今夜の月よりも大きくて、鳴き続ける虫の音は果てしなく、この世の全てに響いていた。

「お前が又吉と八代の二人を、手玉に取るような奴じゃないって、分かっているよ」

 その手が頬に触れる。

腰に手が回り、抱き寄せられる。

何も考えられなかった。

自分が空っぽになったような気がした。

「おいで。傷の手当てをしてあげよう」

 手を引かれるがまま、あたしは座敷へ上がった。