その夜以来、若旦那さまの顔を屋敷で時折見かけるようになった。
普段は忙しく旦那さまについて、あちこち走り回っている方だったのが、機嫌の悪いお菊さまの要望に応じた形だ。
「ずっと家にいるのも、退屈なものだね」
だがそれは表向きな話しで、常にわめき散らし奥さまとの喧噪が絶えないことに、旦那さまの堪忍に限界が来ただけのことだ。
おかげで若旦那さまの田や畑の仕事を手伝うことは増えていたが、お菊さまとの仲がよくなったかと言われれば、そうでもないようであった。
それでもお菊さまの機嫌が少しは持ち直したのも事実で、家の中は静かになっていた。
「お前はいつもこうして、一人であれの面倒をみていたのかい?」
お菊さまが休んでいたりする時には、若旦那から声をかけられることも多くなった。
とは言っても、他愛のない言葉を一つ二つ交わす程度で、すぐに終わってしまう。
そんな気まぐれが、たまたま昼の縁側で行われていた時だった。
「あの子の名前は? 多津は知っているのだろう?」
草刈りを終えて戻って来た八代たちに向かって、若旦那はそう言った。
「お富のことですか?」
「お富、こちらへおいで。お菓子をあげよう」
冬に牛にやる草を刈って戻ったばかりで、汗をかき土に汚れ、真っ黒に日焼けしたお富は、首を横に振った。
あたしは盆の茶碗に白湯を注ぐ。
「おや、あれはどうしたものだろうね」
頂き物の落雁の一つを口に放り込むと、若旦那は白湯をすすった。
声をかけられたのだから、素直に寄ってくればいいものを。
お富はちらちらとこちらを窺いながらも、近寄ってこようとはしない。
「多津もいただきなさい」
あたしは作業の様子を見ながら、梅の形に押されたそれをつまむ。
ほんのりと広がる甘みは、口の中ですぐに溶けてほぐれた。
「儂は嫌われておるのかな?」
三人はそのまま、刈ってきたばかりの草を干す準備を始めている。
「照れているだけでしょう」
あたしは若奥さまのお下がりの、山吹色の着物を着てそれを見下ろしていた。
今は青いあの草も、乾けば細かいクズが飛び散って、目に入るととても痛い。
「飯の支度をしてまいります」
奥さまは寺へ出かけていていない。
旦那さまも寄り合いへ行ってしまった。
土間に入ると、すぐにお富がやってくる。
「裏切り者!」
「なにが裏切り者だ」
その声に、いつにも増してうんざりする。
「又吉さんと上手くいかなくなったってのは、若旦那のせいか!」
「誰がそんなこと言った」
「若旦那に懸想なんかしたって、お前なんか相手にされるもんか!」
「二度とそんな口、利けないようにしてやる!」
冗談じゃない。
変に誤解されて妙な噂でも立てられたら、困るのはこっちの方だ。
あたしは持っていた柄杓を投げつける。
わずかに残っていた水が、お富に降りかかった。
「楽しいか、男二人にかわいがられてさぁ!」
「違うと言ってるじゃないか」
「又吉と若旦那を、いいようにしやがって」
負けじとザルを投げつけてきた、お富につかみかかる。
お富はあたしを突き飛ばした。
柄杓で叩きつけてくるのに、膳で応戦する。
思いつく限りの雑言を浴びせた。
「くだらない喧嘩なんかしてないで、さっさと飯の支度をおしや」
じっと見下ろしていたのは、腹の目立つようになったお菊さまだった。
身重となった体で、家に引きこもることの多くなったお菊さまは、ふくよかな肌がよりいっそう白く透けて見える。
「お腹空いた。早うおし」
そのまま廊下の奥に消えてゆく。
あたしは立ち上がった。
「ほら、お前も動きな」
泣き虫のお富はすぐに泣き始める。
日に焼け、力仕事で鍛えられた腕は、それでも休むことなく、言いつけ通りに動かされていた。
めそめそと泣きながら作る飯ほど、不味いものはない。
出来上がった飯を座敷に運ぶと、あたしはお菊さまに声をかけてから退出する。
主人たちの残り物で賄う飯を、あたしは一人廊下の隅で済ませた。
どこかでまた、野犬の吠えているのが聞こえる。
月は大きく傾いた。
ガサガサと足音が聞こえ、狸と目があう。
どうせなら化けて出てくれればいいものを。
狸のままでは、助けも請えぬ。
心配事というのは思わぬところからやってくるもので、あたしと若旦那さまのことが疑われるよりも早く、奥さまと八代の件が旦那さまに知れた。
八代に対する旦那さまの態度は明らかに邪険となり、奥さまは奉公人たちに寄りつかなくなった。
腹を大きくしたお菊さまは、天下を取ったかのように大手を振るう。
「お多津、今日は出かけるから供をおし」
体調もよく、以前にまして遊び歩くことが増えた。
奥さまに厳しく反対されていた芝居まで見に行くと言う。
境内に建てられた簡素な屋根の下に、小さな舞台が出来上がっていた。
渡された金で水飴を買い、お菊さまに手渡す。
敷かれた筵の上に座れるのは見物料を払った客だけで、あたしはその周辺を取り囲む、立ち見の山の隙間からチラチラとその姿を垣間見た。
芝居唄のたおやかな声が朗々と響く。
その声とお囃子だけは、あたしにも届いていた。
「あぁ、いい声だ……」
派手な衣装に身を包み、軽妙な動きにどっと笑い声を浴びる。
明日にはまた旅に出る彼らは、風のように身軽に思えた。
普段は忙しく旦那さまについて、あちこち走り回っている方だったのが、機嫌の悪いお菊さまの要望に応じた形だ。
「ずっと家にいるのも、退屈なものだね」
だがそれは表向きな話しで、常にわめき散らし奥さまとの喧噪が絶えないことに、旦那さまの堪忍に限界が来ただけのことだ。
おかげで若旦那さまの田や畑の仕事を手伝うことは増えていたが、お菊さまとの仲がよくなったかと言われれば、そうでもないようであった。
それでもお菊さまの機嫌が少しは持ち直したのも事実で、家の中は静かになっていた。
「お前はいつもこうして、一人であれの面倒をみていたのかい?」
お菊さまが休んでいたりする時には、若旦那から声をかけられることも多くなった。
とは言っても、他愛のない言葉を一つ二つ交わす程度で、すぐに終わってしまう。
そんな気まぐれが、たまたま昼の縁側で行われていた時だった。
「あの子の名前は? 多津は知っているのだろう?」
草刈りを終えて戻って来た八代たちに向かって、若旦那はそう言った。
「お富のことですか?」
「お富、こちらへおいで。お菓子をあげよう」
冬に牛にやる草を刈って戻ったばかりで、汗をかき土に汚れ、真っ黒に日焼けしたお富は、首を横に振った。
あたしは盆の茶碗に白湯を注ぐ。
「おや、あれはどうしたものだろうね」
頂き物の落雁の一つを口に放り込むと、若旦那は白湯をすすった。
声をかけられたのだから、素直に寄ってくればいいものを。
お富はちらちらとこちらを窺いながらも、近寄ってこようとはしない。
「多津もいただきなさい」
あたしは作業の様子を見ながら、梅の形に押されたそれをつまむ。
ほんのりと広がる甘みは、口の中ですぐに溶けてほぐれた。
「儂は嫌われておるのかな?」
三人はそのまま、刈ってきたばかりの草を干す準備を始めている。
「照れているだけでしょう」
あたしは若奥さまのお下がりの、山吹色の着物を着てそれを見下ろしていた。
今は青いあの草も、乾けば細かいクズが飛び散って、目に入るととても痛い。
「飯の支度をしてまいります」
奥さまは寺へ出かけていていない。
旦那さまも寄り合いへ行ってしまった。
土間に入ると、すぐにお富がやってくる。
「裏切り者!」
「なにが裏切り者だ」
その声に、いつにも増してうんざりする。
「又吉さんと上手くいかなくなったってのは、若旦那のせいか!」
「誰がそんなこと言った」
「若旦那に懸想なんかしたって、お前なんか相手にされるもんか!」
「二度とそんな口、利けないようにしてやる!」
冗談じゃない。
変に誤解されて妙な噂でも立てられたら、困るのはこっちの方だ。
あたしは持っていた柄杓を投げつける。
わずかに残っていた水が、お富に降りかかった。
「楽しいか、男二人にかわいがられてさぁ!」
「違うと言ってるじゃないか」
「又吉と若旦那を、いいようにしやがって」
負けじとザルを投げつけてきた、お富につかみかかる。
お富はあたしを突き飛ばした。
柄杓で叩きつけてくるのに、膳で応戦する。
思いつく限りの雑言を浴びせた。
「くだらない喧嘩なんかしてないで、さっさと飯の支度をおしや」
じっと見下ろしていたのは、腹の目立つようになったお菊さまだった。
身重となった体で、家に引きこもることの多くなったお菊さまは、ふくよかな肌がよりいっそう白く透けて見える。
「お腹空いた。早うおし」
そのまま廊下の奥に消えてゆく。
あたしは立ち上がった。
「ほら、お前も動きな」
泣き虫のお富はすぐに泣き始める。
日に焼け、力仕事で鍛えられた腕は、それでも休むことなく、言いつけ通りに動かされていた。
めそめそと泣きながら作る飯ほど、不味いものはない。
出来上がった飯を座敷に運ぶと、あたしはお菊さまに声をかけてから退出する。
主人たちの残り物で賄う飯を、あたしは一人廊下の隅で済ませた。
どこかでまた、野犬の吠えているのが聞こえる。
月は大きく傾いた。
ガサガサと足音が聞こえ、狸と目があう。
どうせなら化けて出てくれればいいものを。
狸のままでは、助けも請えぬ。
心配事というのは思わぬところからやってくるもので、あたしと若旦那さまのことが疑われるよりも早く、奥さまと八代の件が旦那さまに知れた。
八代に対する旦那さまの態度は明らかに邪険となり、奥さまは奉公人たちに寄りつかなくなった。
腹を大きくしたお菊さまは、天下を取ったかのように大手を振るう。
「お多津、今日は出かけるから供をおし」
体調もよく、以前にまして遊び歩くことが増えた。
奥さまに厳しく反対されていた芝居まで見に行くと言う。
境内に建てられた簡素な屋根の下に、小さな舞台が出来上がっていた。
渡された金で水飴を買い、お菊さまに手渡す。
敷かれた筵の上に座れるのは見物料を払った客だけで、あたしはその周辺を取り囲む、立ち見の山の隙間からチラチラとその姿を垣間見た。
芝居唄のたおやかな声が朗々と響く。
その声とお囃子だけは、あたしにも届いていた。
「あぁ、いい声だ……」
派手な衣装に身を包み、軽妙な動きにどっと笑い声を浴びる。
明日にはまた旅に出る彼らは、風のように身軽に思えた。