又吉が人目のつかぬところで、ベタベタと触ってくるのが嫌でたまらなかった。

出来るだけ二人きりにならぬようにしていたのに、お松さんは笑って「照れなさんな」とか「まぁ分かっておやり」とか言って、まともに取り合ってはくれなかった。

それでも冷えた茄子や蒸かした芋などを持ってきてくれた時には悪い気もしなくて、縁台や土壁にもたれてこっそり食べた。

奥さまやお松さんにそんなところが見つかっても、からかわれてお終いだった。

 若旦那が八代や又吉に文字を教えるのを、気の向いた時にはたまに一緒になって聞いていた。

字を書くのは楽しかった。

筆を持つのは鍬や鋤を扱うのとは違って難しい。

少し手を動かしただけで、筆の先はぐにゃりと曲がる。

すぐに「やめた」と放り出すあたしを見て、皆が笑った。

なかなか上達しないまま、この屋敷へ来て一年が過ぎた。

 あの日、どうしてあたしがそこにいたのか。

もうすっかり忘れてしまって思い出せない。

夏の盛りもようやく過ぎて、夜が長く延び始めたのがいけなかったのかもしれない。

どういうわけかあたしは縁側の下に隠れていて、そこに又吉もいた。

 背後から抱え込まれ、身動きが取れなかった。

耳にかかる息がとにかくうっとうしくて、振りほどこうともがく度に、きつく抱きしめられた。

もういっそ大声を上げて助けを呼ぼうかと思った瞬間、カタリと頭上の障子は開かれた。

 声が聞こえる。

二人いる。

旦那さまは村の寄り合いに出かけていない。

又吉はここにいる。

八代さん? 

お富はとっくに家に戻っていない。

「丁度良い宵闇じゃないか」

「こんな夜更けに何用でございますか」

 ぼんやりとした灯りが灯される。

「いいから、こっちへ来てお座り」

 衣ずれの音。

カチリと火打ち石の打ち合う。

少しばかり今年の収穫と出来の話しをした後で、行燈の明かりが消えた。

「このような事は困ります!」

「何を今さら」

 急に静かになった。

時折ごそごそとくぐもったような音が聞こえてくるだけで、やがてそれも声色を変え奥へと動いてゆく。

逃げるなら今だ。

動こうとしたあたしの手を、又吉は掴んだ。

目が合うと、何とも言いようのない醜く歪めた笑みを浮かべる。

 何の言葉も発しなかった。

それでも又吉の野郎が、何を言おうとしているのかは分かった。

振り払おうとする手は決して許されることなく、あたしはそこへ道連れにされたんだ。

又吉はあたしを掴んだまま縁の下から這い出し、闇へ目をこらした。

八代と奥さまの絡み合う姿に目をそらす。

「いいから見とけよ」

 冗談じゃない。

こんなところで見つかって、余計なもめ事を抱えたくない。

夢中になってのぞき見ていた、又吉の手が緩んだ。

その一瞬の隙をついて振り払う。

あたしは駆けだした。

 遠くで野犬の遠吠えが聞こえる。

どこかに群れでもいるのだろうか。

ここからは山道も見えない。

縛り付けられている目前に広がっているのは、月明かりに照らされた森だけだ。

川べりの崖の縁なのかもしれない。

目線より一段低く、黒々とした木々が広がっている。

下草が生えているから、お天道さまが昇れば日は当たるのだろう。

ゴソゴソと草がうごめいて、なにかの甲虫が這い回っている。

もう大分前から指先に感覚はない。

後ろ手に縛られた腕まで重くだるく感じられる。

さっきまで寒くて身震いしていたのに、いつの間にかそれも治まっていた。

「お多津、後でこれをうちの家まで届けておいてくれ」

 又吉にそう言って渡された、風呂敷包みの中身になんて、全く興味はない。

なぜ嫁でもないあたしが、そんな届け物をしなくてはならないのか。

「お富、あんたが代わりに行ってきな」

 物陰からじっと窺っているお富に、その包みを押しつける。

お富は恨めしそうにあたしを見上げると、それを抱えたまま、逃げ去るように行ってしまう。

「だから、恋仲なんかじゃないってのに」

 又吉から投げつけられる執拗な視線も、お富の誤解と嫉妬に満ちた態度も、何もかも嫌で嫌でたまらない。

お松さんが居てくれたなら、まだ笑って愚痴を聞いてもらえたのに、お富にはそれがない。

そもそもあたしがこんな目に遭っていること自体、何もかも間違っているんだ。

おかしい。

あり得ない。

間違いばかりだ。

 八代はそもそも大人しい人だ。

よくも悪くも、あの人は聡いんだ。

自分の損得をちゃんと分かって動いている。

仕事は遅く融通も利かぬところはあるが、寡黙で真面目で、地味でもやることはちゃんとやる。

その誠実さが、旦那さまの気に入っていたところだ。

それより少し年若い又吉は、力はあるが軽口ばかり叩いているような奴で、仕事は早いが、とにかくおしゃべりで調子がいい。

年長の八代に頭のあがらなかった又吉は、ある頃から八代に対し、強く出るようになった。

あの夜がきっかけになったことは、間違いない。

どうせ奥さまとの仲を、旦那さまの耳に入れるとかなんとか言って、脅かしていたのだろう。

「八代さん。そっちにばかりかまけてないで、こっちも手伝ってくださいよ」

 小雨の降る中、一人で田の見回りから帰ってきた八代に、又吉はそう声をかけた。

あたしとお富が縄を編んでいる横に寝転がり、ひたすらお富をからかい、笑い者にして散々馬鹿にした後だった。

「そう言うなら、お前も真面目にやれ」

 又吉は藁を打つ木槌をワザとらしくドンと叩きつけた。

渋々と起き上がる。

「やっぱ八代さんにはかなわねぇなぁ!」

 藁を柔らかくするためにかける水を、バシャリとはねさせる。

その水滴の数粒が、八代の頬に散った。

稲わらをつかみ取ると、力任せに揉み始める。

「あぁ、やっぱり手が痛ぇや。明日は晴れても草刈りは無理かもしれねぇなぁ!」

 又吉は立ち上がると、納屋の二階へと向かう梯子に手をかけた。

「少し休んでから、また手伝いますわ。多津、後で俺を起こしに来てくれ」

 残された八代は、黙々と作業を続けている。

あたしはお富からの非難じみた視線と、始まった鼻水をすすり上げる音にうんざりとしていた。

「お富、泣くな」

 八代は言った。

「泣くくらいなら、手を動かせ」

 雨の降る日は肌寒い。

雨音に藁を打つ音と、お富の泣き声が混ざる。

刈るべき草は永遠に伸び続け、あたしたちは畑に水を撒き、日は照り続ける。

何もない時がただただ過ぎていくだけの毎日に、変化が訪れた。

「多津、ようやくお菊に赤子が出来たぞ」

 若奥さまの懐妊の知らせを聞いたのは、縁側で縫い物をしている時だった。

「多津、お菊の世話を頼みます」

 若奥さまが輿入れして、数年が経っていた。

なかなか赤子の出来ないことが、なによりも奥さまを悩ませていた。

「ほら、お富はいつまでものんびりやってないで、さっさと済ましや」

 あたしの持っていた着物を奪いとると、お富に投げ渡す。

「これから多津はお菊に付きっきりにさせるから、あんたが他の仕事を全部やるんだよ」

 顎でクイと示されて、奥さまの後をついて行く。

今まであたしたち奉公人の立ち入ることが許されなかった屋敷の奥に、その人はこちらに背を向けて横になっていた。

「お菊。多津を連れてきた。身の回りの世話は、全部この多津に言いつけるんだよ」

 奥さまはあたしを振り返った。

「多津もしっかり勤めるように」

「よろしゅうお願いいたしやす」

 畳みに額をこすりつけ、じっと動かずにいた。

真綿の布団に横たわったその人の、起き上がろうとする衣ずれの音を聞いている。

「多津。よろしく頼みます」

 顔をあげ、初めてその顔をしっかりと見た。

年の頃はあたしと変わらない。

髪は乱れ、随分と顔色も悪い。

真っ白く柔らかそうな肌が、青くくすんでいる。

野良仕事などしたこともないような方だ。

見たこともない賑やかな遠い町から嫁いできた、立派な商人の娘と聞いていた。

「へぇ、こちらこそお願いいたしやす」

 再度額をこすりつける。

わずかな視界に見える布団が動いた。

美しいその人は、また横になるらしい。

「お手伝いいたしやす」

 赤地に金の刺繍の施された、派手な真綿の布団を持ち上げる。

細く今にも折れそうな体をしたお菊さまは、するするとまた横になられた。

「今はもういいから。隣の部屋にいて頂戴。呼んだらすぐに来て」

 同じ年頃の細い肩が、荒い息づかいに揺れる。

あたしは奥さまを見上げた。

「言われた通りにおしや」

 その日、あたしは襖のぴったりと閉じられた薄暗い部屋で、ただ座って一日を過ごした。

お菊さまに声を掛けられることだけを待ち続け、ただひたすら座り続けていた。