殴られた左頬がまだ痛む。
縛り付けられた縄が食い込み、全身のしびれと寒さに目を覚ました。
「あ~、くそっ!」
血生臭い唾を吐き捨てる。
空には嫌になるほど大きな月がかかっていた。
何よりも気に入らないのは、毛羽だった杉の木に縛り付けられているせいで、肌に刺さる棘までもがチクチクと痛み落ち着きが悪い。
気付けにとぶっかけられた井戸の水で、着物はすっかり濡れてしまっている。
旦那さまに呼ばれ、部屋に入った。
奥さまと番頭気取りの八代、又吉にお富の奴まで含め、奉公人皆が勢揃いしていた。
ただならぬ雰囲気に、あたしはようやく己の身に降りかかった災悪の大きさに気づく。
「決して、決してそのようなことはございませぬ!」
「では本当に、一切の非はないと己に認めるか」
そう問われて、言葉に詰まる。
己に対する非?
そんなもの、持たぬ人がこの世にあるだろうか。
恐る恐る顔を上げた。
旦那さまは怒りに満ちた目であたしを見下ろし、八代はいつものように顔色一つ変えやしない。
又吉はやたらとニヤついていた。
奥さまはすぐに騒ぎ始める。
「ほらご覧なさい! なにも言わぬのが、何よりの証拠ではありませんか!」
「そうでごぜぇますとも、全くその通りにごぜぇます!」
お富は当然のようにそれに同調した。
奥さまのわめき散らす怒鳴り声にただただひれ伏し、あたしは「申し訳ございません!」をいつものように繰り返す。
「ほら、このように多津も認めております」
その一言に、ハッとした。
「ち、違います!」
「何を言う! たった今、謝ったばかりではないか!」
「このお富が保証いたしやす。奥さま、この女は……」
「分かった、もうよい!」
旦那さまは扇子をパチリと鳴らした。
「多津を一晩、裏山に縛り付けておけ!」
だからって何も、あんなに酷く殴りつけることなんかありゃしないじゃないか。
大体何が悪いってんだ。
どれもこれも全部、あんたらのせいじゃないか。
あたしの何が悪い?
人を悪人みたいに扱いやがって。
寒さに身が震えた。
明るい満月の夜だ。
ここはどこなんだろう。
随分と山の奥まで連れてこられたもんだ。
カサリと小さな音がして、腫れ上がったまぶたを持ち上げる。
見れば小さな栗鼠がこちらを見上げていた。
一時立ち止まっただけで、あっという間に走り去ってしまう。
「おい、栗鼠なら縄ぐらい解いていけ」
きつく杉の木に縛り付けられているせいで、指の先しか動かせない。
首はかろうじて回るが、それには激しい痛みが伴う。
あの仕置きの場に若旦那さまとお菊さまのいなかったことが、あたしにとっての全てだったのだ。
どれだけ尽くしても、かばってくれる人などいやしない。
ふいに可笑しくなって、面白くもないのに笑う。
何が出替わり日を迎えないと暇はだせぬだ。
騒ぎ立てるやかましい奥さまを、さっさと黙らせたかっただけじゃないか。
結局は台所奉公の出替奉公人より、長年季で働く男手の八代と又吉を選んだってことだ。
これから稲刈りの始まる忙しい時期に、皆のご機嫌取りの道具にされたんだ。
いつだって落ち着かない居心地の悪いあの家が、こんなことで静かになんてなるもんか。
あたしに色目を使っていた又吉が、一番に縄をかけた。
元々信用もなにもなかったが、ここまで酷い男だとは思わなかった。
あんな男に惚れているお富は、どうかしている。
傷口に掛けられている縄のせいで、ズキズキと腕が痛む。
流れた血で着物は赤く染まっていた。
遠くで梟の鳴く声が聞こえて、深く息を吐き出す。
体が火照り始めていた。
熱が出てきたようだ。
頭まで痛み始める。
若旦那さまのことを、一度でもそんな目で見たことはなかったかと言われると、否定することは難しい。
だけど所詮身分の違う立場だ。
自分のような小間使いの下っ端奉公など、相手にされても、してもらうのも、いいことなんてありゃしない。
お手つきの奉公人になんて、なるもんじゃないと知っている。
そんなこと、誰に言われなくても分かってる。
だから嫌だったんだ。
こんなことになるなら、あの時にちゃんと逃げ出せばよかった。
初めて男に抱かれた。
この機会を逃せば、もう一生こんなことはないと思った。
又吉から浴びせられる色目が、とにかく気持ちわるかった。
いずれ又吉なんかにそうされるくらいなら、若旦那と床入りした方がまだマシだと思った。
ただそれだけのことだった。
あの日の晩に、なぜ自分が泣いていたのか。
あの時になぜあたしはついていったのか。
その全てが今ここに答えとしてある。
あたしはどうしても乗り越えられない何かを、風のように乗り越えてみたかっただけなのかもしれない。
縛り付けられた縄が食い込み、全身のしびれと寒さに目を覚ました。
「あ~、くそっ!」
血生臭い唾を吐き捨てる。
空には嫌になるほど大きな月がかかっていた。
何よりも気に入らないのは、毛羽だった杉の木に縛り付けられているせいで、肌に刺さる棘までもがチクチクと痛み落ち着きが悪い。
気付けにとぶっかけられた井戸の水で、着物はすっかり濡れてしまっている。
旦那さまに呼ばれ、部屋に入った。
奥さまと番頭気取りの八代、又吉にお富の奴まで含め、奉公人皆が勢揃いしていた。
ただならぬ雰囲気に、あたしはようやく己の身に降りかかった災悪の大きさに気づく。
「決して、決してそのようなことはございませぬ!」
「では本当に、一切の非はないと己に認めるか」
そう問われて、言葉に詰まる。
己に対する非?
そんなもの、持たぬ人がこの世にあるだろうか。
恐る恐る顔を上げた。
旦那さまは怒りに満ちた目であたしを見下ろし、八代はいつものように顔色一つ変えやしない。
又吉はやたらとニヤついていた。
奥さまはすぐに騒ぎ始める。
「ほらご覧なさい! なにも言わぬのが、何よりの証拠ではありませんか!」
「そうでごぜぇますとも、全くその通りにごぜぇます!」
お富は当然のようにそれに同調した。
奥さまのわめき散らす怒鳴り声にただただひれ伏し、あたしは「申し訳ございません!」をいつものように繰り返す。
「ほら、このように多津も認めております」
その一言に、ハッとした。
「ち、違います!」
「何を言う! たった今、謝ったばかりではないか!」
「このお富が保証いたしやす。奥さま、この女は……」
「分かった、もうよい!」
旦那さまは扇子をパチリと鳴らした。
「多津を一晩、裏山に縛り付けておけ!」
だからって何も、あんなに酷く殴りつけることなんかありゃしないじゃないか。
大体何が悪いってんだ。
どれもこれも全部、あんたらのせいじゃないか。
あたしの何が悪い?
人を悪人みたいに扱いやがって。
寒さに身が震えた。
明るい満月の夜だ。
ここはどこなんだろう。
随分と山の奥まで連れてこられたもんだ。
カサリと小さな音がして、腫れ上がったまぶたを持ち上げる。
見れば小さな栗鼠がこちらを見上げていた。
一時立ち止まっただけで、あっという間に走り去ってしまう。
「おい、栗鼠なら縄ぐらい解いていけ」
きつく杉の木に縛り付けられているせいで、指の先しか動かせない。
首はかろうじて回るが、それには激しい痛みが伴う。
あの仕置きの場に若旦那さまとお菊さまのいなかったことが、あたしにとっての全てだったのだ。
どれだけ尽くしても、かばってくれる人などいやしない。
ふいに可笑しくなって、面白くもないのに笑う。
何が出替わり日を迎えないと暇はだせぬだ。
騒ぎ立てるやかましい奥さまを、さっさと黙らせたかっただけじゃないか。
結局は台所奉公の出替奉公人より、長年季で働く男手の八代と又吉を選んだってことだ。
これから稲刈りの始まる忙しい時期に、皆のご機嫌取りの道具にされたんだ。
いつだって落ち着かない居心地の悪いあの家が、こんなことで静かになんてなるもんか。
あたしに色目を使っていた又吉が、一番に縄をかけた。
元々信用もなにもなかったが、ここまで酷い男だとは思わなかった。
あんな男に惚れているお富は、どうかしている。
傷口に掛けられている縄のせいで、ズキズキと腕が痛む。
流れた血で着物は赤く染まっていた。
遠くで梟の鳴く声が聞こえて、深く息を吐き出す。
体が火照り始めていた。
熱が出てきたようだ。
頭まで痛み始める。
若旦那さまのことを、一度でもそんな目で見たことはなかったかと言われると、否定することは難しい。
だけど所詮身分の違う立場だ。
自分のような小間使いの下っ端奉公など、相手にされても、してもらうのも、いいことなんてありゃしない。
お手つきの奉公人になんて、なるもんじゃないと知っている。
そんなこと、誰に言われなくても分かってる。
だから嫌だったんだ。
こんなことになるなら、あの時にちゃんと逃げ出せばよかった。
初めて男に抱かれた。
この機会を逃せば、もう一生こんなことはないと思った。
又吉から浴びせられる色目が、とにかく気持ちわるかった。
いずれ又吉なんかにそうされるくらいなら、若旦那と床入りした方がまだマシだと思った。
ただそれだけのことだった。
あの日の晩に、なぜ自分が泣いていたのか。
あの時になぜあたしはついていったのか。
その全てが今ここに答えとしてある。
あたしはどうしても乗り越えられない何かを、風のように乗り越えてみたかっただけなのかもしれない。