「怒らせちゃった…」
「うん、怒らせちゃったね」

 でも、と泉は私の背中を優しく撫でた。

「ってことは、速水センパイ、夏菜子のことちゃんと好きってことじゃない?…私が間違ってたのかも」

(そうなのかなぁ…)

「ちゃんと謝りたいけど、センパイの連絡先わからなくて」
「はぁっ?嘘でしょ?前言撤回、やっぱ、無いわ、センパイ」

 私は今更、連絡先を聞かなかったことを後悔した。

「いや、でも待って。それは、夏菜子にも落ち度があるわ」
「え」
「なんで連絡先聞かないの?センパイと少しでも繋がってたいとか思わないの?」
「それは、お、思うけど…」
「けど?」

(私なんかが…)

「どうせ、私なんか~センパイにふさわしくないもんとか思ってるんでしょ」
「うっ…」

 図星を言い当てられてぐうの音も出ない。

「夏菜子のダメなとこ、そこ。もっと自信を持とう?自分を卑下してるのって、謙遜でもなんでもなくて、相手にだって失礼なんだからね」

 ぽかんとする私を置いて、泉がまくしたてる。

「センパイが、夏菜子の事を好きだとして、それは、センパイがちゃんと夏菜子の良いところを見つけてくれてるってことでしょ?センパイが認めている夏菜子を、夏菜子は否定してるってことなんだよ。それは、相手を否定してるのと一緒。すごく失礼だし、悲しいことだよ」

 泉の言葉の一つ一つが、ずっしりと私の中に落ちていくのを感じながら、センパイを思った。
 私の自信のなさから生じた言葉で、センパイを、傷つけてしまったかもしれない。

「夏菜子、速水センパイに好きって言った?」

 私は、首を横に振る。
 いつも、与えられるばかりで、私はセンパイに何か与えられていただろうか。

「不安なのは、自分だけじゃないよきっと」

 私は、このままじゃ、ダメなんだ。



 次の日、いつもと同じ時間に家を出た私は、すぐに電車には乗らずに、何本か見送った後、前にセンパイと会った電車に乗り込んだ。前と同じ車両の同じ場所で、私はセンパイを待った。

 昨日の塾の帰り、センパイは駅に現れなかった。
 センパイと出会ってから、初めて一人で帰る塾の帰り道はとても遠くて寂しくて。センパイにちゃんと謝って、気持ちをちゃんと伝えようと思った。

ーーードアが開きます、ご注意ください

 降りた人と同じくらいの人数が乗り込んでくる。

(あ、いた)

 その中に、センパイを見つけて、胸がぎゅっとなる。

 センパイは、私の事には気づいていないのか、椅子の手すりに寄りかかる私の目の前に背中を向けて立った。

 手を少し伸ばせば、触れられるのに。

 そういえば、私は、自分からセンパイに触ったことがあっただろうか。
 記憶の中を探っても、いつも受け身の自分しか見つからなかった。

「あー体育祭だるー」
「速水リレーだろ。今日も練習あんの」
「んー」

(センパイ、リレー出るんだ。知らなかった)

 運動神経も抜群だとは聞いていたけど、本当になんでもできちゃうんだ。

「ねぇねぇ、体育祭の日って速水バイトあんの?」

 茶髪ウェーブのえり先輩が、センパイの鞄を掴んだ。その爪にはマニキュアが塗られていてとても可愛い。

「ない」
「じゃぁ、体育祭終わったらデートしよっ」

(ヤダ…、センパイ断って…)

「いいよ」

 怖くて、目をぎゅっと閉じた私の耳に届いたセンパイの肯定。ガツンと頭を殴られたみたいな衝撃が走った。

「え!ホント!?」

 沈む私とは正反対に、弾むえり先輩の声。

「あれっ?速水彼女は?最近できたって言ってたじゃん」

(え…、そうだったの?それって、もしかして私の事…?)

「あー、それ、俺の勘違い」

 自嘲気味に言ったセンパイに、皆が笑う。

「なにそれ」
「いや、速水が勘違いとか、どんだけ」
「ウケるんだけど」
「速水、約束だからね!」

(あぁ、…もう、手遅れかもしれない)

 そう思ったら、胸が締め付けられて苦しくて、視界が滲む。

 センパイの背中を眺めることしかできない自分がふがいなくて、情けなかった。
 駅に着いて、降りていくセンパイたちに続いて私もホームに降り立つ。

 えり先輩のように、センパイの鞄を掴んで、待ってと言えばいい。

 昨日はごめんなさい、好きです、センパイ。

 センパイの彼女でいさせてください。

「……」

 言いたいことも、言わなきゃいけないこともたくさんあるのに。

 足が、動かない。

 声も、出ない。

 あぁ、私は、こんな時まで透明人間だった。




 長い1週間が過ぎて、体育祭当日。

 今朝の天気予報で梅雨入り前の最後の晴天と言われた今日は、カラっとした心地よい陽気でまさに体育祭日和となった。

『さぁさぁ、始まりました、記念すべき第一種目の100m走予選!第一走者・・・』

 体育祭名物の、放送委員会の司会進行によって体育祭は大賑わいだった。

 せっかくの体育祭も、私は全然楽しめない。

 白組のセンパイは、紅組の私とはグラウンドのコースを挟んだ対角線上で、とても遠かった。椅子に座るセンパイの周りには、男子女子が入れ替わり立ち替わり後を絶えなくて、例え近くだったとしても私が近づくことなんて出来なかっただろうけれど。

 あの日から、センパイは当然図書室にも来なくなって、一度も話せていなかった。センパイに会えないこの1週間は、とても長くて、苦しかった。相変わらずの嫌がらせも、いつも以上に私にダメージを与えて、学校なんて休んじゃおうかとすら思い始めていた程だ。

 それでも、今日、私がここに居るのは、ちゃんとセンパイに気持ちを伝えるため。
 ただ、それだけが、私の足を学校へと向かわせてくれた。

 体育祭が終わったら、センパイにちゃんと、言う。それで、センパイがえり先輩とデートに行くというのならもう仕方ない。
 
もう遅いかもしれないけど、もう、後悔はしたくなかった。



 私が出る借り物競争は、3つ後のお昼休憩の前。

(緊張してきた…) 

 適当にやれば良いやとか思ってたけど、いざ本番が近づくとやっぱり嫌だ。

「岸野、顔色悪いよ」
「あ、高土くん」

 なんだか、高土くんて、実は世話焼きなんだ。
 事あるごとに、私なんかを気遣ってくれる高土くん。

「ちょっと緊張して…」
「だから、嫌なことは嫌って言えっていっただろー」
「う、うん…そうだよね。私、間違ってたね。高土くんにずっと言ってもらってたのに、馬鹿だ私、ホントに大馬鹿」
「いや、そこまでは、言ってないから」
「ありがとう、高土くん」
「え、あ…うん。なんか、今日の岸野、いつもと違うな」
「私、変わろうと思って」

 ーーーー借り物競争に出場される方は…

 アナウンスに呼ばれて、私は立ち上がった。

「じゃぁ、頑張ってくるね!応援よろしく」
「おう、頑張れ」


 集合場所に行くと順番に並ばされた。
 あぁ、情けないな。緊張で、膝が笑ってる。

(大丈夫、大丈夫。誰も私のことなんか見てない)

 呪文のように自分に言い聞かせる。
 ちゃんと、最後まで諦めずにゴールしようと心に決めたんだから。私は震える膝をパンッと叩いて気合を入れる。
 前の人たちがスタートを切って、私もスタートラインに促された。

『はい、じゃぁ答え合わせしますねー。お題を見せてください。えー、お題は、今日が誕生日の人です。あなたの誕生日をどうぞ!』
『6月3日、今日です!』
『おめでとうございますーーーー!よく見つけましたね!』

 実況解説者の声に、周りからも拍手が沸き起こった。

 数十メートル先に吊り下げられたメモに書かれた「お題」のものをゲットしてゴールに持って順位を競うこの競技は、そのお題が難し過ぎて盛り上がる名物競技でもあった。

 お調子者の男子なんかは、我こそはと出たがるけれど、女子からは人気のない種目でもある。

 私は、体操着のポケットにさしていたピンを外して、前髪を留めた。

 視界を遮るものはもう、ない。

 晴れた空から降り注ぐ太陽の光りが眩しい。


『位置について、ようい』

ーーーパンッ