「お母さん、なんで起こしてくれなかったの」
階段を降りて、キッチンに立つ母に文句を言うと「なんで起こさなくちゃいけないのよ」と返ってきた。
薄情な母親だ。高校に上がった途端、もう一人で起きなさいと見放された。
「夏菜子が寝坊するなんて珍しいな」
ネクタイを締めながら父が私に言った。
「小説、読みだしたら止まらなくなっちゃって」
「あぁ、西野圭史の新作だろ?読み終わったなら父さんに貸してくれないか」
私の本好きは、父譲り。我が家の納戸は物置ではなく書庫と化していて、壁一面に置かれた本棚を埋め尽くすのは、小説や漫画や歴史書。
私は小学生の頃からそこで本に囲まれて過ごす時間が大好きだった。
今では、自分の部屋にも本棚を置いてもらってマイコレクションを増殖中。
「あー、友達に貸すって約束しちゃったから、お父さんはその次ね」
ちょっぴりドキッとしながら、私はテーブルの上の朝食に手を付けた。
いつもよりも遅いけれど、遅刻する程ではなかった。
ただ、この時間は電車が激混みだからいつも少し早めに家を出ていた。
ホームに降りると案の定、人の列が続いている。ちょうど到着した電車に吸い込まれていくその列にげんなりしながらも後に続く。
もちろん座れるはずもなく、それでも、最後尾だった私はドアと椅子の手すりの角っこというべスポジを確保できた。胸の前で鞄を抱えて寄りかかった。
ガタンガタンと規則正しくリズムを刻む電車に揺られていると、昨日の事が思い出された。
ベンチで並んで座って、手を握られて、次の電車が到着したらセンパイは私の手を握ったまま立ち上がりその電車に乗りこんだ。
私は引っ張られる形で、慌てて本を鞄にしまって後についていって、がら空きの椅子に二人でまた並んで座ったのだった。
私の駅まで3駅、時間にしてものの15分ほどなのに、なんだかすごく長く感じた。
恥ずかしさと嬉しさとで、早く駅につけばいいのにと思う自分と、ずっとこのままならいいのにと思う自分とが混在していた。
ーーーープシュー
ドアの開く音で、駅に着いたのだと気づく。
この駅は、速水センパイの駅だ。
(センパイと会えたりして)
なんて、期待している自分がいた。
「うわー、今日も混んでるー」
(あ、あのセンパイ)
ウェーブのかかった茶髪の先輩とその集団が乗り込んできた。そして、その中に、今頭の中に浮かんでいた人の顔が見えて心臓がドキンと跳ね上がった。
(うそ、本当に会えちゃった)
しかも、人に押されながら、速水センパイは私の目の前まで来たのだった。椅子の手すりを左手で掴んで、私の方を向く格好になる。
私は、なんだか恥ずかしくて、とっさに俯いてシェルターを作って視界を遮断した。
センパイたちの集団は、女子と男子が混在していて、共通の話題で盛り上がっていたけれど、センパイだけは無口で、話題を振られたときだけ返事をするという感じだった。
ーーーーガタンッ
電車が大きく揺れて、立っている人たちの体制が崩れたのと同時、センパイの右手が私のすぐ目の前を通って壁に付けられた。
(なんだか、これって…)
センパイの中に、閉じ込められたかのような錯覚。
センパイは、きっと私にだって気づいてない。
「速水、お前壁ドンしてるぞ、その子困ってるじゃん」
センパイの隣に立ってる同じグループの男子が面白そうに言った。
「えっ、うそ、ホントだー。壁ドンするならあたしにしてよ」
「なんだそれ」
ぎゃははは、と皆が一斉に沸く。
その間も、センパイはだんまり。
センパイって、この人たちと仲いいのかな?なんて、私には関係のない話だった。
あぁ、早く着かないかな…。
やっと降りる駅に着いて、我先に降りようと思ったものの、他の人が降りるまでセンパイの手がどかなくて、結局センパイが降りるまで私は降りれなかった。
人混みから解放された私は、センパイたちのグループと距離を取って歩き出した。
そういえば、本はいつ渡せばいいのだろう、とセンパイの背中を眺めながら思う。
貸してと言われたものの、いつ渡すとかの約束はしていない。
「ねぇ、速水、昨日昼どこに居たのー?」
茶髪ウェーブの先輩が、速水センパイの制服の袖をつまむ。短いスカートから伸びる足はすらりと細く、顔にはしっかりとメイクが施されているその先輩はキラキラと輝いて見えた。きっと、速水センパイのことが好きなんだろうな。とても素直に好意を見せるその姿が、とても可愛いと思った。
「その辺」
「その辺ってどの辺だよ」
センパイのいい加減な返事に、また周りから笑いが起こる。
「今日は一緒に食べようよ」
「そうだ速水、えりと一緒に食べでやれ!えりは速水と一緒がいいんだよ」
「無理」
「ひっどーい」
「うわばっさりー」
またしても、爆笑の渦が巻き起こった。
その中心にいるセンパイは、やっぱり人気者で、私とは住む世界が違う。
鞄を隠された私は、少しだけ慎重に行動した。移動教室の時は鞄も一緒に持って行って取られないように注意を払った。
教科書も、置いていくのをやめた。
新しい教科書はまだ届いていないけど、授業はなんとかやり過ごせていた。
それでも、噂というのは本当に恐ろしいもので、2年生中に回ったのではないかと思うほど、周りからの視線が痛い。
「あ、ごめん、地味過ぎて見えなかったぁ」
「す、すみません」
昨日から一日しか経っていないのに、すれ違いざま、あからさまにわざとぶつかられたり、足をかけられたり、トイレに行くのも一苦労だった。
(大丈夫、少しすれば収まる)
時間が解決してくれるだろう。
授業中と昼休みだけが、心休まる唯一の時間。
昼休みのチャイムとともに教室を飛び出していつものルートで図書室へと向かう。
ほんの少しの期待を胸に秘めて。
(今日は、センパイくるかな)
職員室から特別棟の2階、階段を上って右へ行った突き当りが図書室だ。
「遅い」
人気のない廊下、その人は腕を組んで図書室のドアに寄りかかっていた。
「あ、すみません」
小走りで近づいて、手にした鍵でドアを開けて中へと入る。
カーテンが閉め切られた図書室は、涼しくて心地いい。
とりあえず、受付に近い窓のカーテンだけを開いてから、カウンターに戻れば、センパイはちゃっかりパイプ椅子に座ってコンビニの袋からおにぎりを出していた。
しかも、そこは私の席なのに。
文句を飲み込んで、司書室から椅子をもう一脚取り出して、センパイと少し距離をとったところに椅子を開いた。
「あ、センパイ、これ」
鞄から約束の小説を取り出してセンパイに渡す。
「もう読んだの」
「はい、昨日、あの後止まらなくなっちゃって。気づいたら2時でした」
「ふーん」
センパイは、私の会話には興味なさげに、小説の後ろのあらすじを読んでいるようだった。
「借りるね」
「どうぞ」
「そういえば、アンタっていじめられてんの?」
「え?」
「今日、足ひっかけられてた」
「あー…」
見られていたようで、とても気まずい。
「私、地味子なんで」
「地味子って」
(あ、笑った)
含み笑いというのか、口角を少しあげた笑み。
「大丈夫なの」
「慣れてますし、大丈夫です」
「あそ」
それから私たちは時々会話を交わしながら、お昼を食べて予鈴までを図書室で過ごした。
階段を降りて、キッチンに立つ母に文句を言うと「なんで起こさなくちゃいけないのよ」と返ってきた。
薄情な母親だ。高校に上がった途端、もう一人で起きなさいと見放された。
「夏菜子が寝坊するなんて珍しいな」
ネクタイを締めながら父が私に言った。
「小説、読みだしたら止まらなくなっちゃって」
「あぁ、西野圭史の新作だろ?読み終わったなら父さんに貸してくれないか」
私の本好きは、父譲り。我が家の納戸は物置ではなく書庫と化していて、壁一面に置かれた本棚を埋め尽くすのは、小説や漫画や歴史書。
私は小学生の頃からそこで本に囲まれて過ごす時間が大好きだった。
今では、自分の部屋にも本棚を置いてもらってマイコレクションを増殖中。
「あー、友達に貸すって約束しちゃったから、お父さんはその次ね」
ちょっぴりドキッとしながら、私はテーブルの上の朝食に手を付けた。
いつもよりも遅いけれど、遅刻する程ではなかった。
ただ、この時間は電車が激混みだからいつも少し早めに家を出ていた。
ホームに降りると案の定、人の列が続いている。ちょうど到着した電車に吸い込まれていくその列にげんなりしながらも後に続く。
もちろん座れるはずもなく、それでも、最後尾だった私はドアと椅子の手すりの角っこというべスポジを確保できた。胸の前で鞄を抱えて寄りかかった。
ガタンガタンと規則正しくリズムを刻む電車に揺られていると、昨日の事が思い出された。
ベンチで並んで座って、手を握られて、次の電車が到着したらセンパイは私の手を握ったまま立ち上がりその電車に乗りこんだ。
私は引っ張られる形で、慌てて本を鞄にしまって後についていって、がら空きの椅子に二人でまた並んで座ったのだった。
私の駅まで3駅、時間にしてものの15分ほどなのに、なんだかすごく長く感じた。
恥ずかしさと嬉しさとで、早く駅につけばいいのにと思う自分と、ずっとこのままならいいのにと思う自分とが混在していた。
ーーーープシュー
ドアの開く音で、駅に着いたのだと気づく。
この駅は、速水センパイの駅だ。
(センパイと会えたりして)
なんて、期待している自分がいた。
「うわー、今日も混んでるー」
(あ、あのセンパイ)
ウェーブのかかった茶髪の先輩とその集団が乗り込んできた。そして、その中に、今頭の中に浮かんでいた人の顔が見えて心臓がドキンと跳ね上がった。
(うそ、本当に会えちゃった)
しかも、人に押されながら、速水センパイは私の目の前まで来たのだった。椅子の手すりを左手で掴んで、私の方を向く格好になる。
私は、なんだか恥ずかしくて、とっさに俯いてシェルターを作って視界を遮断した。
センパイたちの集団は、女子と男子が混在していて、共通の話題で盛り上がっていたけれど、センパイだけは無口で、話題を振られたときだけ返事をするという感じだった。
ーーーーガタンッ
電車が大きく揺れて、立っている人たちの体制が崩れたのと同時、センパイの右手が私のすぐ目の前を通って壁に付けられた。
(なんだか、これって…)
センパイの中に、閉じ込められたかのような錯覚。
センパイは、きっと私にだって気づいてない。
「速水、お前壁ドンしてるぞ、その子困ってるじゃん」
センパイの隣に立ってる同じグループの男子が面白そうに言った。
「えっ、うそ、ホントだー。壁ドンするならあたしにしてよ」
「なんだそれ」
ぎゃははは、と皆が一斉に沸く。
その間も、センパイはだんまり。
センパイって、この人たちと仲いいのかな?なんて、私には関係のない話だった。
あぁ、早く着かないかな…。
やっと降りる駅に着いて、我先に降りようと思ったものの、他の人が降りるまでセンパイの手がどかなくて、結局センパイが降りるまで私は降りれなかった。
人混みから解放された私は、センパイたちのグループと距離を取って歩き出した。
そういえば、本はいつ渡せばいいのだろう、とセンパイの背中を眺めながら思う。
貸してと言われたものの、いつ渡すとかの約束はしていない。
「ねぇ、速水、昨日昼どこに居たのー?」
茶髪ウェーブの先輩が、速水センパイの制服の袖をつまむ。短いスカートから伸びる足はすらりと細く、顔にはしっかりとメイクが施されているその先輩はキラキラと輝いて見えた。きっと、速水センパイのことが好きなんだろうな。とても素直に好意を見せるその姿が、とても可愛いと思った。
「その辺」
「その辺ってどの辺だよ」
センパイのいい加減な返事に、また周りから笑いが起こる。
「今日は一緒に食べようよ」
「そうだ速水、えりと一緒に食べでやれ!えりは速水と一緒がいいんだよ」
「無理」
「ひっどーい」
「うわばっさりー」
またしても、爆笑の渦が巻き起こった。
その中心にいるセンパイは、やっぱり人気者で、私とは住む世界が違う。
鞄を隠された私は、少しだけ慎重に行動した。移動教室の時は鞄も一緒に持って行って取られないように注意を払った。
教科書も、置いていくのをやめた。
新しい教科書はまだ届いていないけど、授業はなんとかやり過ごせていた。
それでも、噂というのは本当に恐ろしいもので、2年生中に回ったのではないかと思うほど、周りからの視線が痛い。
「あ、ごめん、地味過ぎて見えなかったぁ」
「す、すみません」
昨日から一日しか経っていないのに、すれ違いざま、あからさまにわざとぶつかられたり、足をかけられたり、トイレに行くのも一苦労だった。
(大丈夫、少しすれば収まる)
時間が解決してくれるだろう。
授業中と昼休みだけが、心休まる唯一の時間。
昼休みのチャイムとともに教室を飛び出していつものルートで図書室へと向かう。
ほんの少しの期待を胸に秘めて。
(今日は、センパイくるかな)
職員室から特別棟の2階、階段を上って右へ行った突き当りが図書室だ。
「遅い」
人気のない廊下、その人は腕を組んで図書室のドアに寄りかかっていた。
「あ、すみません」
小走りで近づいて、手にした鍵でドアを開けて中へと入る。
カーテンが閉め切られた図書室は、涼しくて心地いい。
とりあえず、受付に近い窓のカーテンだけを開いてから、カウンターに戻れば、センパイはちゃっかりパイプ椅子に座ってコンビニの袋からおにぎりを出していた。
しかも、そこは私の席なのに。
文句を飲み込んで、司書室から椅子をもう一脚取り出して、センパイと少し距離をとったところに椅子を開いた。
「あ、センパイ、これ」
鞄から約束の小説を取り出してセンパイに渡す。
「もう読んだの」
「はい、昨日、あの後止まらなくなっちゃって。気づいたら2時でした」
「ふーん」
センパイは、私の会話には興味なさげに、小説の後ろのあらすじを読んでいるようだった。
「借りるね」
「どうぞ」
「そういえば、アンタっていじめられてんの?」
「え?」
「今日、足ひっかけられてた」
「あー…」
見られていたようで、とても気まずい。
「私、地味子なんで」
「地味子って」
(あ、笑った)
含み笑いというのか、口角を少しあげた笑み。
「大丈夫なの」
「慣れてますし、大丈夫です」
「あそ」
それから私たちは時々会話を交わしながら、お昼を食べて予鈴までを図書室で過ごした。