学校の外に出ると、とてもいい気候だった。
 また明日、何かあるのかもしれない。
 そう思うと、学校が憂鬱になる。
 それでも、今は、このすがすがしい天気に心が洗われていくようだった。
 私は、いつもの電車に乗って、家の最寄り駅を3つ過ぎた駅で降りると、週に3回通っている塾に向かった。
 結局今日は、1時間ほど遅れてしまった。

「夏菜子(かなこ)」

 後ろのドアからしれっと入ると、すぐ目の前の席に座っていた泉と目が合った。 彼女、江川泉(えがわいずみ)は、中学からの私の唯一の友達と呼べる存在。この塾を決めるときも二人で相談してお互いに通いやすいここに決めたのだ。
 そして、いつも一番後ろの席で一緒に講義を受けている。

「遅刻するなんて、珍しい」

 隣に座ってテキストを開く。

「今何ページ?」と泉に聞いてパラパラとめくる。
 教壇では塾講師がホワイトボードに方程式を綴っているところだった。
 それをなんとなく眺めながら、私は鞄の内ポケットに挟んであるヘアピンを取って重たい前髪をこめかみのあたりで留めた。
 視界が一気に明るくなる。
 ここでは、シェルターは必要ない。
 みんな、勉強をしにここに来ているから、もともと知り合いでもない限りお互い声を掛け合うこともほとんどなかった。

「なんかあったの?」

 講義と講義の合間、泉はおにぎりを食べている。
 私は遅れたのもあり、買ってくる時間が無かったから、自販機で買ったゼリー飲料を飲んでいた。

「んー」

 泉に本当の事を言うべきか。
 泉は、中学時代にあったことを全て知っているから、もしまたいじめに合っていると知ったら心配するだろうな。

「あの速水センパイと話した」
「えぇっ、あの?!幻の!」
「幻って」

 センパイは、幻なんかじゃなかったよ。
 雲の上の存在なのは変わらないけども、ちゃんと血の通った優しい人間だった。

「何話したの?やっぱり本のこと?」

 私はちらほらと事の経緯を泉に伝える。いじめの事はのぞいて。
 話し終えるころには、休憩時間が終わり、講師が教室に入ってきたので私たちは前に向き直ってテキストを広げる。
 でも、やっぱり、なんだか夢みたいな話だった。
 交わることのない速水センパイと会話をして、メロンパンを貰って、二人でお昼ご飯を食べて。
 ずっと気になっていた、雲の上の人。
 嫌がらせすらもどうでも良くなってしまうほどの破壊力を伴って、その時間は私の中に居座っていた。



 午後8時、塾を終えて泉と別れると私は駅へと歩く。といっても、塾は駅前なので道路を一本渡ればもう駅だ。泉はここからバスに乗って10分程の所に住んでいるから塾でバイバイ。
 改札を通って電車が来るまでの間、私はベンチに座って小説を開いた。
 本の世界に浸る幸せな時間が訪れる。
 作者によって綴られた文字は、意志を持って私を物語の中へと連れて行ってくれる。
 読み進めていくほどその世界は広がって、色づき、輝いて私を魅了する。

(すごい、面白い)

 どんどん引き込まれてページをめくる手が止められない。

「乗らないの?」

 ふと、聞いたことのあるような声が耳に入ってきて、小説から目を上げたけれどすぐまた戻した。 いや、私じゃないよね。
 こんな時間にこの駅で知り合いに会うなんて今までに無かったし。

「アンタに言ってんだけど」
「わっ!…は、速水センパイ?」

 聞こえてきた方を向くと、私の視界にあの幻の速水センパイが映りこんだ。
 制服を着て、鞄持って、学校の時の恰好のままのセンパイは、いつの間に隣に座っていたのか、背もたれに両手を広げて乗せて、足を組んでこちらを見下ろしていた。
 その表情は、やはりどこか気だるそうで、感情が読めない。

「電車、行っちゃうよ」

 見ると、私が乗る方面の電車に人が乗り込んでいくところだった。

「あ、一本遅らせようと思って」
「あそ」
「センパイは、どうしてここに…」
「バイト」
「あ、そうですか。お疲れ様です」

 特進クラスなのにバイトなんてしてるんだ。すごいな、トップクラスっていうのも本当なんだ、きっと。


 ピーーッ


 という警笛の後、ドアが閉まって目の前の電車は出発した。
 それをなんとなく見送ってから、再び小説を読み進める。

 会話が思いつかなかった。

(違う…)

 「センパイはどこ駅なんですか」「バイトって何してるんですか」「今読んでる本はなんですか」など、聞きたいことはたくさんあるんだけれど…、私が話しかけるのも烏滸(おこ)がましいというか、すごく、ものすごく気が引けた。

「それ、面白い?」
「あ、はい。面白いです、すごく」
「今度借りようかな」

 ぼそりとつぶやかれた言葉が、私を嬉しくさせる。

「あ、これ、まだ図書室に入ってない、です」

 先週発売されたばかりの新刊だった。

「じゃぁ、貸して」
「え」

 一拍おいて「読み終わったらでいいから」と聞こえてきた。

「あ、はい」

 センパイと、約束しちゃった。
 ただ、そのことがたまらなく嬉しかった。

ーーーーまもなく、電車が参ります…

 反対車線の電車の到着を知らせるアナウンスがホームに響いた。
 遠くで踏切の警鐘音が鳴っているのが聞こえると、規則正しい走行音が徐々に近づいてくる。
 あ、もうさよならだ。
 なんて声をかければいいんだろう。
 さようなら?また明日?おやすみなさい?
 本を持つ手に力が入る。
 ホームに滑り込んできた電車は、たくさんの人を吐き出して、また吸い込んでいく。

(あれ?)

 隣のセンパイはびくりとも動かない。

「センパイ、電車…」
「俺、御園駅だからこっち」

 御園駅は、私が降りる川合寺駅の次の駅だ。隣の駅だったんだ。

「そ、うだったんですね」

(じゃぁ、どうしてさっき乗らなかったんですか?)

 気になることは、声にはならずに飲み込まれる。

「なんで、学校でピンしないの」
「へ?」

 すっとんきょうな声が出てしまった。
 なんだか、今日のセンパイは質問攻めだなぁ。ピンってなんのことだろう?

「前髪」
「あっ」

 塾の帰りは、知ってる人も居ないからいつも前髪を留めたままだった。慌てて外そうと前髪に伸ばした手が、センパイの手によって阻まれる。
 直接触れた肌と肌、センパイの熱が手からじんわりと伝わって、私を侵食していくようだった。
 どくどくと血液の流れていく音が、耳鳴りのようにうるさい。

「えっと…あの…」
「ピン、取らないなら離すけど」

(なぜ…)

「わ、わかりました」

 すると、おでこの前で掴まれていた手は、そのままベンチに降ろされた。
 解放されるとほっとしたのに、手は掴まれたまま一向に離れる気配がなく、それどころかするりと角度を変えて繋がれてしまった。

「せ、センパイ…、手、離してくれるって…」
「やっぱやめた」
「えぇっ」

 なにそれー…。

 私、男の人と手をつないだこともないんですけど。
 意識が手に全集中。
 手汗が出てきそう…。
 ぎゅっとしっかり握られた手は簡単には解けなさそうで、仕方なくそのままにするほかなかった。
 ちらっと、隣のセンパイを盗み見ると、そっぽを向いていて、表情が読み取れなかった。

(なぞ過ぎる…)

 雲の上の人は、何を考えているのか。
 私には、わからない。