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かといって、普段の教室で上原さんと話す機会はほとんどなかった。
あいさつくらいは交わすし、偶然目が合ったりすると微笑んでくれたけど、会話のきっかけというほどの何かがあるわけではなかった。
五月下旬には最初の定期試験があっていそがしかったし、そのせいで美術の授業もつぶれていた。
まだ下書きが終わったくらいだというのに、描きたくても描けない。
出せば三がもらえるどころか、出せなくて赤点の可能性もある。
学期ごとに一つしか課題を出さない――というより、出せない――理由がようやく分かってきて、さすがに課題提出に焦りも出てきていた。
それに、もう一つ、ちょっとしたトラブルが起きていた。
上原さんは部活をやっていないようだった。
中学の時はバスケ部のキャプテンで、背も高いし、当然高校でも期待されていたらしい。
同じ中学出身の先輩からも誘われていて、四月中は見学に行っていたのも知っている。
だけど、五月に入っても入部を断っているらしく、試験が終わってからは毎日のように先輩たちが勧誘に来ていた。
僕は遠く離れたところからその様子を眺めているだけだったけど、丁寧に断っているのに納得してもらえないようで、彼女が困っている姿を見るのはつらかった。
もちろん僕なんかができることなど何もない。
だけど、こんなふうに、誰かのことが気になって、できるわけがなくてもなんとかしてあげたいなんて思ったのは初めてだった。
いつのまにかひとりでに彼女のことを目で追うようになっていた。
上原さんは体育の授業では溌剌とバスケをやっていた。
男女で体育館を半分ずつ分けて試合をやっていると、男子が自分たちの仲間の試合そっちのけで女子の方ばかりに注目していて、上原さんにボールが渡ると一瞬で空気が変わる。
リズミカルなドリブル、時が止まったようなスリーポイントシュート。
そんな華麗なプレーを見ていると、先輩たちがあきらめきれずに勧誘に来るのも分かる。
たとえばどこか怪我でもしているのならしょうがないだろうけど、体育での調子を見ればそうではないのは明らかだ。
同じクラスのバスケ部女子も先輩たちから説得するようにせっつかれているらしく、日を追うごとに、教室に微妙な空気が漂うようになっていた。
六月になってすぐだった。
「おい、樋口、上原さんが先輩に呼び出されてるぜ」
午前の休み時間に、ダイキがわざわざ僕のところへ知らせに来た。
「いつもの部活の話だろ。まだやってるんだな」
「ちげえよ」と、耳に顔を寄せてくる。「男の先輩」
「えっ!?」
驚く僕の顔を見てダイキがニヤける。
「やっぱ、気になるだろ」
「いや、べつに」と、顔も声もクールに決められれば良いんだろうけど、僕にそんなスキルはない。
変な汗は出るし、声はひっくり返っている。
「本当かぁ」と、僕の頬に指をグニッとめりこませる。「なあ、見に行こうぜ」
「なんでよ」
「俺が気になるからだよ」と、本音全開で迫ってくる。「なあ、来いよ。じゃあさ、トイレに付き合ってくれよ」
面倒なので仕方なく行ってやることにした。
本音は僕だって気になるからだ。
廊下に出てすぐに、彼女の姿が目に入った。
校舎の一番隅にある生物実験室の前で二年生の先輩と向かい合っている。
バスケ部のイケメンで、僕でも噂ぐらい知っている有名な先輩だ。
上原さんは、ちょっと眉が下がり気味で、右手を回して左腕をつかみながら先輩の話を聞いていた。
「な、な、見ただろ」
実験室手前の男子トイレに入った瞬間、ダイキがはしゃぎ出す。
小便器に二人並んで用を足しながら、こっちに顔を向けてくる。
「あれは、おそらくゴメンナサイだよな、だよな?」
隣からは盛大に水の弾ける音が聞こえてくる。
僕はちょろりとも出なかった。
臆病な気持ちも尿意もどちらも首を引っ込めていた。
出してスッキリしたフリをして手を洗いに行くと、ダイキも水を跳ね散らかしながら隣で手を洗い始めた。
「おまえ、どうすんの?」と、鏡の中の僕をダイキがまっすぐに見ている。
「何が?」
「上原さんと一番仲が良いの、おまえだろ」
はあ?
「えっ、そんなことないだろ」
「くぅう、余裕かよ、非モテボッチレジェンドのくせに」
非モテもボッチもレジェンド級も認めるけど、上原さんと仲が良いなんて、いつからそんなふうに見られてたんだ?
「気づいてないのおまえだけじゃないの」と、ズボンで手を拭きながらダイキが歩き出す。「ほら、上原さんってさ、高嶺の花ってやつだろ」
まあ、それはそうだ。
「クラスの男子がみんな仲良くなろうと狙ってるのも分かるだろ」
まあ、そういうものだろうな。
「何人かもうコクって玉砕したのも知ってるだろ」
「いや、それは知らない」
「三年の先輩とかも結構いろいろ声かけてたみたいでさ、でも、全部ゴメンナサイだったんだってよ」
トイレから出たところでちょうど教室に戻る上原さんとぶつかりそうになった。
「あ、ごめん」
顔を背けるようにしながら小走りで行ってしまう。
「あーあ。たまに話しかけてもらえたら、ゴメンか。ま、非モテ組にはそれでももったいないお言葉だけどな」
ダイキの話なんか全然耳に入ってこなかった。
彼女の目に涙が浮かんでいたのを僕ははっきり見てしまったのだ。
「おい、おまえ、行けよ」と、ダイキが僕の背中をたたく。
「痛いよ」
「こういうときこそ、声をかけるチャンスだろ」
「なんでよ」
じゃあ、自分が行けよ、だ。
「だからよ、男子の中じゃあ、おまえが一番上原さんとしゃべってるんだよ」
あんまり自覚はないんだけどな。
数学の問題の解き方とか、なんかの用事がある時に、必要だから会話しているだけなんじゃないのかな。
「おまえ、上原さんのこと好きだろ?」
「へ、はあ?」
「照れるなよ。べつにおかしなことじゃないだろ」
「僕なんか関係ないだろ」
「そんなことねえよ。当たって砕けろよ」
なんだよ、砕け散る前提かよ。
やっぱり、ただ単に面白がってるだけじゃん。
昔からそうだ。
ダイキの話に根拠なんかない。
自分のことは一番自分がよく分かってる。
非モテ男子が勘違いなんかしたら大惨事だ。
話しかけられたときに少しは落ち着いて対応できるようになっただけでも褒めてもらいたいくらいだ。
亀のような、カタツムリのような、そんな歩みだけど、少しずつ前に進んでいることは間違いない。
この調子で進歩していけば、死ぬまでに一度くらいは僕にもいい出会いがあるかもしれない。
でも、それは今じゃない。
同じ教室にいるのに、距離は近くならない。
僕は知らなかった。
自分が踏み込まないかぎり、人の心に触れることはできないんだってことを。