◇
翌週の美術は雨だった。
団地の階段には屋根も壁もあるから雨が降っても絵を描くこと自体に問題はないんだけど、景色が全然変わってしまう。
もちろん、そこへ行くのだって傘をさしたり面倒だ。
僕は教室に残って自主的に自習に切り替え、数学の課題プリントをすることにした。
別にそれでも構わないと、美術の先生が明言しているのだ。
とにかく、期限までに課題を提出すれば何でもありなのだ。
何問か計算を解いたところで、上原さんもどこからか教室に戻ってきた。
「あれ、何してんの?」
他には誰もいない。
後ろを振り返るまでもなく僕に話しかけているのだ。
「雨で外に行けないから、絵はあきらめて数学の宿題やってる」
「私もそうしようかな……っていうか、ほとんどみんなそうみたいね。お弁当食べたらすることなくてみんな雨宿りしながらおしゃべりしてる」
こんなんで大丈夫なのか、美術……。
どうやら上原さんも考えることは同じらしい。
「なんか、ゆるい授業だなと思ってたけど、心配になるゆるさだよね。でもまあ、雨だと風景が変わっちゃって描けないからしょうがないんだけどね」
「校舎の中だったら、あんまり影響なかったかもね」
「先週描き始めちゃったし、いまさら変えるわけにもいかないもんね」と、上原さんが胸を反らしながら背伸びをする。「これから梅雨時になったら、もっとヤバイかもね。案外、時間的にギリギリになるかも」
「あ、そうか」と、僕は少しだけ視線をそらした。「考えもしなかった」
「そしたら、心の目で見たものを描くしかないね」
と、彼女が僕に顔を近づけてくる。
なんかすごくいい匂いがする。
「ねえねえ、数学教えてよ」
はあ!?
「答えの丸写しじゃなくてさ、やり方が分からないところとか、ヒントでいいから教えてよ」
いやこちらだって人に教えるほど数学得意じゃないんですけど。
どう返事をしたらいいか困っていると、彼女は自分の机からプリントを引っ張り出してきて前の人の椅子にまたがるように座って僕と向かい合う。
「これって提出いつまでだっけ?」
「五月の連休明け」
「じゃあ、まだ余裕か」と、彼女が素敵な笑みを僕に向ける。「でも、早めにやっちゃった方が連休に遊べていいよね」
こんないい笑顔を独り占めしていいんだろうか。
なんか、一生分の幸運を使いきったような気がする。
一問目の簡単な計算を解いたところで彼女が僕に尋ねた。
「ねえ、どこで描いてるの?」
「校門を出たところの団地」
「だんち?」と、首をかしげながら目をぐるりと回す。「ああ、あんなところ!」
口を隠しながら笑っている。
「やっぱり発想が斜め上だね。ふつう、そんなところまで行かないでしょ」
そうかな。
まあ、ボッチだからなんだけどね。
僕が次の問題を解こうとしたら、シャーペンでコンコンとプリントをノックされた。
「ねえ、ちょっと」と、目の前にフグがいた。「私にも『どこで描いてるの』って聞いてよ」
「あ、はあ」と、また変な声が出てしまった。「じゃあ、どこで描いてるの?」
「ものすごい棒読み。興味なさ過ぎじゃん」
聞いたら聞いたで怒られる。
でも、そんな理不尽も楽しい。
「もう、教えてあげないですぅ」
はあ?
わざとらしくちょっと拗ねたような表情を見せてニヤついている。
「ああ、知りたいのになあ」と、僕も棒読みセリフを重ねた。
「あっ、プンスカ、もうマジで絶対教えないから」と、どうやらこのやりとりが気に入ってくれたらしく、彼女は笑みを浮かべながら手を頭の後ろに回してのけぞった。
胸が強調されて、僕はまた視線をそらした。
「ねえ、誰かと一緒に描いてるの?」と、上原さんが前のめりになる。
「いや、一人」と、今度は僕がのけぞった。
「へえ、私と一緒だ」
ボッチをいじられるかと思ったからまた変なタイミングで息を吸ってしまった。
「に、西口さんと井上さんは?」
「二人とも書道選択なのよね」
そうなのか。
でも、他の人たちだっているだろうに。
「なんか、ピンと来る場所を探したくて歩き回ってたら授業終わっちゃってて、結局一人になっちゃった」
「僕と同じだ」
「私たち、やってることは全然違うのに、変なところで気が合うよね」
――気が合う?
僕らが……?
いや、落ち着け、テツヤよ。
意識しすぎだろ。
人と会話することに慣れてなさ過ぎてちょっとした言葉に敏感すぎるんだよ。
どちらにしろ僕に微妙な空気を振り払うスキルなんてあるわけもなく、そのまま授業時間が終わってしまった。
「あ、ごめん。しゃべってばかりで数学全然進まなかったね」
「いや、べつに」
むしろ大歓迎です、なんて言えるわけがない。
――言いたいけど。
「でもまあ連休中やればいいんだし、いいよね」と、上原さんが立ち上がる。「もし終わらなかったら、その時はよろしくね」
教室を出ていく彼女の後ろ姿が見えなくなっても、僕はその残像を心の目で追いかけていた。