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入学して最初の週は体力測定や部活説明会などの行事で、学校は午前中で下校になっていた。
クラスの陽キャ連中がカラオケに行くと盛り上がっていて、どういうわけか僕にも声がかかった。
「ねえ、樋口君さ、時間あるなら一緒に来ない?」
右手で人数を集計しながら背の高い女子が僕の前に立つ。
ショートヘアの上原史緒莉さんは中学ではバスケ部だったそうで、百七十少しの僕と同じくらいの背丈がある。
だけど絶対男子には間違われない。
シルエットがモロ女子だし、入試の日に芸能スカウトに追い回されて危うく遅刻しそうになったなんて噂が広まるような人だ。
入学早々、このクラスは彼女を中心に回り始めていて、非モテ陰キャ男子代表の僕とは、太陽系の向こう側くらい心理的距離があったから、誘われるなんて思ってもみなくて、とっさにうまく返事ができなかった。
「まあ、時間は……」
「じゃあ、決まりね」と、彼女が人差し指を折った。
え、なんでカウントしてるの?
「いや、あの、僕は……」
と、そこへ同じクラスになったダイキがやってきた。
「こいつ、カラオケ苦手なんだよ」
「いいじゃん、べつに。楽しければ」
適当に理由をつけて断ろうとしたのに、余計な口出しをするものだから、かえっておかしな流れになってしまった。
「こいつ、何を歌っても『君が代』か『蛍の光』に聞こえちゃってさ」
「へえ、じゃあさ、逆に演歌だとどうなるの? 歌ってみてよ」
そんな、期待を込めた目で見られても。
戸惑う僕に彼女がたたみかける。
「あのほら、津軽海峡を船で渡る昭和の歌あるじゃん」
「年末恒例、日本の名曲だね」と、ダイキが指を鳴らす。
しょうがない、と渋々歌い出してはみたものの、たちまち彼女の顔まで渋くなる。
「ねえ、なんで真夏の遊覧船みたいになってるの? 夜行列車の終着駅が南国リゾートだったとか? 地球の裏側? 南半球? サーフボードに乗ってきたサンタのつもり?」
そんなにマジ怒りしなくていいじゃないですか。
「いや、だから苦手なんだってば」
「ごめんごめん」と、彼女が胸の前で両手を振る。「想像をはるかに超える破壊力だったから」
結局ディスられるんだ……。
「だろ、ヒマラヤ山脈越えられるくらいはるか上だもんね」と、ダイキまで調子に乗りやがって。
「そこまでは言ってないよ」と、いかにもうなずくのを我慢してるという表情で笑いをこらえている。「歌わなくていいんだから、来てよ。どうせおしゃべりするだけだし」
と、結局カウントされたまま彼女は他の人たちに声をかけにいってしまった。
「良かったじゃん」と、ダイキが肩をつかむ。
「何がだよ」と、僕は手を振りほどいた。「恥かくだけだろ」
「心配ないって。別にカラオケって言ったって部屋を借りるだけでゲームしたりメシ食ったりするだけなんだからさ」
どちらにしろ、気が進まない。
正直なところ、僕は集団で盛り上がるというのがどうしても苦手で、それは同じ中学だったダイキも知っていることだ。
一人でいる方が気楽でいいし、変に絡まれて「なんだよ、ノリ悪いな」なんて言われて仲間の輪から弾き出されるっていうのなら、最初から無視してくれた方がありがたいくらいだ。
教室の壁にいつまでも貼ってある茶色くなったお知らせみたいな感じでそこにいられればそれでいい。
小学校も中学校もそうやって目立たないように生き抜いてきた。
だけどそんなの陽キャ連中には関係ないらしい。
「ほら、行くよ」
上原さんに背中をつつかれて、仕方なく僕は市場へ連れて行かれる子牛のように教室を出た。
集まったメンバーは十二人で、すでに仲良くなった連中がスマホ片手にゲームの話題で盛り上がりながらぞろぞろ歩いていく。
僕はその後ろを、半歩タイミングを遅らせながらついていった。
一言もしゃべらずに駅前まで来てみると、他のクラスの連中も同じ事を考えていたらしく、カラオケ屋の前は大混乱だった。
「ねえ、史緒莉、六人部屋が一つしかないってよ」と、人込みの向こうからうちのクラスの女子が上原さんに状況を伝える。
「じゃあ、だめか」と、あっさりあきらめた上原さんは、「とりあえずフードコートに移動!」と、みんなを引率して道路を渡り始めた。
カラオケじゃなくて良かったとほっとしていたら、上原さんに笑われた。
「どんだけ嫌いだったのよ」
「だって、歌えないし、カラオケボックスみたいな狭くて暗いところにいると深海魚みたいな気分になる」
「よく分かんないけど、浮かんできてよ」と、手をパタパタさせる。
「それ、鳥だから」
「えー、魚だよ。ヒレじゃん」と、頬をぷっくりと膨らませる。
「ああ、フグか」と、思わず声に出してしまった。
「女子に喧嘩売るって、いい度胸してるよね」と、言葉とは裏腹に朗らかにヒレで手招きしながらエスカレーターに乗って上がっていく。
ショッピングモールの二階にあるフードコートも昼食時で、空きスペースはあるものの、小さな子供を連れた親子とか置物みたいに座っているお年寄りなんかが分散していて、まとまった人数が座れる場所はなかった。
「ま、適当でいいじゃん」
お互いに顔を見合わせながら、なんとなくグループができて、言葉通り適当に席が確保されていく。
ああ、一番困るパターンだ。
まだ仲良くしゃべるような友達もいない僕は誰からも声をかけられないし、こちらからも仲間に入れてくれとは言いにくい。
ダイキはいつの間にか男連中と一緒に四人がけの丸テーブルに座ってスマホゲームを始めている。
やっぱり、来なければよかったなと思ったときだった。
「ほら、ここ空いてるよ」と、制服の袖を引っ張られた。
「はえっ」と変な声を上げて振り向くと席についた上原さんが僕を見上げていた。
「声裏返ってるよ」と、ニヤニヤ僕を見つめている。「ハエなんかいるわけないでしょ」
そりゃそうですけどね。
引っ張られた勢いで座っちゃったけど、四人がけの丸テーブルに女子三人、非モテ男子一人。
変な汗しか出てこないんですけど。
実はクラスの女子の名前もまだうろ覚えだ。
とりあえず、上原さん以外の二人は西口紗柚さんと井上夢架さんだっけ。
「ねー、何にする?」と、西口さんが立ち上がる。「あたしタコヤキ買おっかな」
「見て見て! 今日トリプルの日だって」と、井上さんがアイス屋さんを指さす。
「あー、じゃあ、決まりだわ」と、上原さんもカバンから財布を取り出す。「樋口君は?」
僕は座ったまま彼女を見上げた。
「カバン見てるよ」
「お、気が利くね」と、上原さんが指を鳴らす。「じゃあ、何か買ってきてあげるよ。何がいい?」
「いや、いいよ」
「なんで、遠慮なんかしなくていいじゃん」
「まだ決まってないから」と、適当に嘘をつく。
「ふうん。じゃ、とりあえず行ってくるね」
後に残された僕はこのままトイレに行ったふりをして帰ってしまおうと思ったけど、カバンを見てるなんて言っちゃった手前、すでに詰んでいた。
目の前のテーブルのおじいちゃんみたいに置物と化して三人が帰ってくるのを待つしかない。
居心地の悪い時間がどれくらい経過したのか分からない。
ようやく上原さんが両手にアイスを持ってもどってきた。
一つはふつうのトリプル、もう一つは花束コーンの上にトリプルが並んでねじ巻きホイップとチョコスプレーのトッピング。
なぜか僕に派手な方を差し出す。
「これ、私たちからのオゴリね」
はあ?
受け取ったのは良いものの、ずしりと重たくて倒しそうになる。
「おうっ」
「ほら、しっかり持って」
「お母さんじゃないんだから」と、井上さんに大ウケされてしまった。
「じゃあ、カンパーイ!」と、席に着くなりみんながテーブルの中央にアイスを突き出す。
って、つられて出しちゃったけど、崩れるって!
これ、いったいどうすればいいの?
女子に見られながらこんなアイス食べるなんて、非モテ男子にはハードルが高すぎて跳ぶ前にスッ転んでしまうに決まってる。
「早く食べないと垂れてくるよ」
分かってるっつうの。
「ね、樋口君さ、まだ連絡先交換してなかったよね」と、上原さんがテーブルの上にスマホを置く。「クラスのグループ登録してよ」
「え、あの、ちょっと……待って」
アイスかスマホか、どっちかにしてほしいというか、どっちも無理なんですけど。
僕のスマホには親とダイキしか登録されてない。
実際、世界とのつながりがそれだけなんだからしょうがないけど、人に見せられるものじゃないってことくらいは自覚している。
「スマホ買ってもらったばっかりで使い方がよく分かってない」
言い訳しながら差し出すと、「おじいちゃんじゃないんだから」と笑いながら上原さんがササッとやってくれた。
「最近のお年寄り、馬鹿にできないよ」と、西口さんがスプーンを突き出す。「うちのおばあちゃん、あたしよりタブレット使うの速いよ。シュッシュッシュッて手裏剣投げる忍者みたいにすごい勢いで画面出して、ネット通販で手芸用品とか買ってる」
「へえ、手芸やるんだ」と、井上さんが食いつく。
「うん、ほら、この巾着ね、おばあちゃんの手作り」と、西口さんがカバンにぶら下げた袋をテーブルの上に引っ張り上げた。
「え、そうなの? 売ってるやつじゃないんだ?」
「チョーうまいじゃん。私もほしいな」と、上原さんが興味津々といった表情で巾着の縫い目をなぞる。
「何色がいい?」
「え、悪いじゃん」
「いいの、いいの。おばあちゃん喜ぶから。近所の知り合いの人とかにいっぱい作って配ってるの」
「で、またネットで手芸用品買うんだ。無限ループじゃん」と、井上さんが横で笑う。
「でも、そういう趣味があるっていいよね」と、上原さんが急に僕に話を振った。「樋口君は、趣味何?」
え?
このタイミングで?
みんなでつなげた長縄跳び、一番最後に僕で途切れるパターンじゃん。
「な、ないです……」
はい、シーン……。
「ゲームとかは?」と、上原さんはひるまない。
「知らないうちにお金がかかってたら困るからやってない」
「マジメか!」と、裏拳ツッコミが入る。「パズルゲームとか、無料のいっぱいあるじゃん」
「まじめに受験勉強やってたタイプとか?」と、井上さんがチョコミントを口に入れながらニヤける。
「それか」と、西口さんまで勝手に納得してる。
真面目しか取り柄のない男子と思われてるなら、それはそれで悪くはない。
キモイとか言われなければ空気でいい。
「そう言えばさ、明日課題テストじゃん」と、上原さんが急に思いついたように話題を変えた。「先輩たちから去年の問題まわってきたけど見る?」
「マジで? いるいる」
僕のスマホにもさっそく写真が送られてきた。
「けっこうガチな問題だね」と、西口さんの顔が曇る。「やばい、全然勉強してない」
「でもさ、問題自体はあの小冊子から出るんでしょ」と、井上さんが写真を拡大させながらつぶやく。「いちおうちゃんと解いたからなんとかならないかな」
「そりゃ、わたしもやったけどさ。内容忘れちゃってるでしょ」
今回の課題テストは入学説明会で配られていた小冊子から出題されることになっている。
英国数の三科目で、内容は中学全部の復習だ。
「先輩の話だとね」と、上原さんがペロッとかわいく舌を出してコーンに垂れたアイスをなめる。「毎年そのまま出てるらしいよ。だから復習しておけば変な点数は取らないって」
その言葉に安心したのか、二人もおとなしくアイスを味わっていた。
と、そのときだった。
「ひくちっ」
「え?」
呼ばれたかと思って顔を向けたら、上原さんが口をおさえていた。
「史緒莉のくしゃみかわいいね」と、西口さんが横からツッコミを入れる。
「そんなことないよ」と、照れてるけど、僕も恥ずかしくなってしまった。
――くしゃみか……。
くしゃみを名前と聞き間違えるなんて……。
呼ばれるわけないだろ。
おまえは非モテボッチ陰キャ男子だぞ。
僕はスプーンでアイスを大きくえぐって口に放り込んで、血が上った頭を冷やした。
くしゃみというものは人それぞれ個性が出る。
イメージ通りのくしゃみをする人もいれば、普段は清楚な女子が、「ベックショイ!」とやらかしたり、ギャルっぽい女子が、絶対に音を立てないぞと口を押さえながら飲み込むようにした後で、ほんのり耳を赤くさせたり、意外な一面を見ることもあるものだ。
僕はそんな彼女のくしゃみを何度も脳内反復して記憶に焼きつけた。