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 終業式の日、全校集会が終わって教室に戻ってきたところで、先生が上原さんを前に呼んだ。
「おーい、いいか、おまえらよく聞け」と、ぐるりと見渡しながら先生がみんなが静まるのを待っていた。「上原が今日限りで転校することになった」
 ――転校?
 一気にクラスがざわつく。
「家庭の事情で祖父母の家に引っ越すことになって、新しい学校へ行くことになりました」と、上原さんが頭を下げる。「今までみんな仲良くしてくれてありがとうございました」
 簡単なあいさつが終わって、みんな呆然としていた。
 と、誰かが遠慮がちに拍手した。
 それをきっかけに皆が拍手をして上原さんは頭を下げながら自分の席に戻っていった。
 僕は手をたたくことができなかった。
 彼女の顔を見ることも、彼女のあいさつを聞くこともまともにできなかった。
 描きかけのキャンバスを引き裂かれたみたいに暴力的な別れに抗議して拳を握りしめているしかなかった。
 その後、成績表が配られ、美術の課題を提出していない者は呼び出しがあるという連絡があって解散になった。
 夏休みの到来を喜んで歓声を上げかけた者もいたけど、盛り上がりを自粛するような空気に支配されて教室はお通夜のようだった。
「ねえ、なんで、どうしたの?」
「どうして引っ越すの?」
 女子が上原さんを囲んで口々に尋ねるけど、彼女は固い笑みを浮かべながら、いろいろあってさ、と曖昧な返事をするだけだった。
「えー、なんで、寂しい」
「こっちに残るわけにいかないの?」
 西口さんと井上さんが両側から手をつかむけど、彼女は静かに首を振りながらごめんねとつぶやくだけだった。
 僕は彼女にお別れのあいさつも言えず、未提出課題について呼び出された美術室へ向かった。
 今回課題を提出できなかった僕の成績は五段階の二だった。
 出席記録を考慮してかろうじて赤点にはしないでくれたらしい。
 美術室には他のクラスからも何人か来ていて、先生から夏休みの注意事項について説明を受けた。
 それは、とりあえず夏休み中に課題を提出すれば、二学期の成績で配慮してくれるという、どこまでも親切設計な内容だった。
 さすがの僕も今度こそちゃんと取り組もうと反省して美術室を出ようとした時だった。
 期限内に提出された課題の絵が壁際に並んでいて、その一枚に目が吸い寄せられた。
 見覚えのある四角い建物が描かれている。
 ――団地だ。
 青空の下にひっそりとたたずむ団地を描いた作品は、何本もくさびを打ち込んだように画面が白く飛んでいて、目を射貫くような夏空のまぶしさが表現されていた。
 その絵の中で僕が彼女に手を振っていた。
 もう戻れないあの日、あの夏空の下、僕はあの場所にいたんだ。
 そして、彼女は僕を見ていたんだ。
 屋上の階段室で体いっぱいに気持ちを込めて手を振ってくれていた上原さんの姿が思い浮かぶ。
 僕だって……、僕だって君を見ていたのに。
 どうして僕は君を描けなかったんだ!
 答えはもうそこにあったんじゃないか。
 僕は駆け出していた。
 行かなくちゃ。
 急がなくちゃ。
 早くしないと間に合わない。
 すぐに息が苦しくなるけど、そんなことどうでもいい。
 脇腹が痛くなろうが、足がもつれて転げようが、心臓が悲鳴を上げようが破裂しようが僕は行かなければならないんだ。
 それなのに……。
 それなのに、まだ僕の心は言い訳ばかり考えていた。
 今さら何を言ったって無駄じゃないか。
 どこにいたって忘れないって言いたいところだけど、離ればなれになって別々の場所で違う人生を歩み出したら、あっというまにお互いのことなんか忘れて、僕の知らない新しい人たちとの生活が始まって、僕たちがまだ知らない新しいことに触れて全然知らない僕たちになっていくんだし、絶対忘れないよって約束したって、お互いのことなんてどんどん心の片隅に追いやられていって、こんな約束したことすら、遠い未来にほんのちょっとしたきっかけで思い出したりしたときに黒く塗りつぶしたくなるくらい恥ずかしくなっちゃうんだって分かってるのに、今さら何を言ったって無駄じゃないか。
 どうせそうなんだよ。
 きっと、そうなんだよ。
 そうなるって分かってるのに……、分かってる……、分かってるよ、分かってるんだよ、そうなるって分かってるんだ。
 でも……。
 でも、だから……。
 ――だからこそ、僕は言うべきなんじゃないのか。
 叫ぶべきなんじゃないのか?
 君への気持ちを。
 突き抜けるような青空よりも澄んだ僕の熱い気持ちを。
 走れ、急げ、止まるな!
 わき上がる入道雲を薙ぎ払い、焼き尽くすような日差しの中に飛び込めよ。
 交わるはずのない平行線が遙か彼方で一点に収斂するあの約束の場所へ。
 駆け抜けろ、追いつけ、掴み取れ、後悔なんかするな、約束じゃない、十年後でも、あの丘でもない、今この瞬間の嘘偽りのない気持ちをぶつけるんだ。
 教室の出口にはダイキがいた。
 息が苦しくてよろける。
「上原さんは?」と、僕はあいつの胸ぐらをつかんでかろうじて立っていた。
 えっ、とあたりを見回す。
「さっきまでみんなと話してたんだけどな。帰ったんじゃないのか?」
 友人を突き飛ばして僕はまた駆け出した。
「何すんだよ!」
「ゴメン!」と、腹筋がキュッと引きつるほど叫ぶ。
 出せるじゃないかよ。
 どこに隠してた、そんなでっかい声。
 できる、言える、迷うな、ためらうな、ありのままをぶつけろ、どうせ砕け散るなら夏の青空いっぱいに吹き飛んじまえばいい。
 バラバラに砕け散って星になれ、空一面を天の川にしてやれよ。
 彼女の下駄箱は空っぽだった。
 僕は昇降口を飛び出し、正門へ向かう人の列をかき分けながら彼女を探した。
 行かないでくれ。
 一言でいい。
 一目でいいんだ。
 もう一度だけ、もう一度だけ会わせてくれよ。
 どこにいるんだよ。
 校門を出て駅へ向かう道路を見ても彼女の姿はどこにもない。
 赤信号で立ち止まった瞬間、膝が外れたように脚がもつれて立てなくなってしまった。
 視野が回転を始め、天と地がひっくり返って暗転する。
 自分が息をしているのかどうかも分からない。
 陸地に引き上げられた深海魚みたいに内臓が全部口から飛び出しそうだ。
 なんでこんなに苦しいんだよ。
 僕はただ……。
 僕はただ気持ちを伝えたいだけなのに。
 僕が伝えたいのはこんな苦しさや切なさや哀しさや虚しさなんかじゃないのに。
『会えなくなっちゃってから思うんだよね。もっといろんな話をすれば良かったって』
 ――そうだよ。
 だから、言わせてくれよ。
 一言でいいんだ。
 好きだ。
 好きだ。
 君が好きなんだよ。
 僕は君が好きなんだ。
 真夏の太陽に熱せられたアスファルトが揺らいでいる。
 あざ笑うように逃げ水が僕を呼ぶ。
 ――ほら、来いよ、ここまで来てみろよ。
 信号が変わった。
 横断歩道を渡って足を引きずりながら坂道を歩く。
 丘の上の団地は上原さんが描いた絵のようにまぶしい光を打ち込まれて青空の色が飛んでいた。
 空に色なんかない。
 あるのは目のくらむ輝きだけ。
 でも僕の目には見える、君の笑顔が、君の涙が。
 手を伸ばしても絶対に届かない――だけど伸ばさなきゃ絶対につかめない。
 ――ほら、来いよ、ここまで来てみろよ。
 馬鹿にするなよ、なめるなよ、見てろ、絶対にあきらめないからな。
 四角い建物の階段を一歩一歩膝に手をあてながら上る。
 ペンキがはげた手すりの赤錆が手に刺さる。
 もう足が上がらない。
 階段に手をつき、一段一段這い上がる。
 ざらつく砂が膝をこすり、手のひらに血がにじむ。
 一歩、一歩、一段、また一段、踊り場に体を投げ出し、のたうち回って転がりながら僕は彼女の笑顔に向かって手を伸ばした。
 まぶしい光のどこかに、まだそれがあるのなら、伸ばせよ、もっと高く、もっともっと拳を突き上げろ。
 青空なんか殴りつけてやれ。
 ――どうして。
 どうして言えなかったんだろう。
 どんなにまぶしい光に目がくらんでも、君の笑顔を忘れたことなどなかったのに。
 僕の目に映るのはいつだって君の笑顔、耳に聞こえるのは君の声、この階段で一緒に話したあのかけがえのない時間、僕にだけ打ち明けてくれた君の心、君の涙、君の悲しみ、君の……。
 あの絵に描かれていた僕はいったいどこにいるんだ。
 同じ場所に立っても、同じ場所で手を振っても、それを見てくれる人はもうどこにもいないのか。
 自分の一番大切な気持ちに嘘をついてごまかして、本当は全然気にしていないんだなんて言い訳ばかりして、格好悪くなりたくない馬鹿にされたくないって格好つけてる自分が一番格好悪くて馬鹿みたいなんだって、今さら気づいたってどうにもならないんだよ。
 四階の階段にたどり着いた僕は窓穴から体を突き出して思いっきり叫んだ。
 僕の本当の気持ちを、僕の大切な人の名を、僕の嘘偽りのないその一言を。
 ――でも……。
 夏は動かない。
 果たされない約束のように。
 いつまでもそこにあるだけ。
 世界をくりぬいた穴みたいに僕の影がコンクリートの床に焦げついていた。