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六月に入って雨が多くなってきた。
美術の授業がある日も、降っていなくても曇りという中途半端な天気ばかりで、あの抜けるような青空の向こうに突き出した校舎を見ることはできなかったし、心の目で鮮やかな色を再現するのも難しかった。
あきらめて暗い色で塗って形式的に提出してしまおうかと路線変更を考え始めていたときだった。
「だあれだ?」
廃墟寸前の団地の階段でいきなり誰かに目をふさがれた。
ふみゃーご、みたいな水を掛けられた野良猫も出さないような恥ずかしい叫び声を上げてしまった。
あははは、と快活な笑い声とともに手がどかされる。
「ごめんごめん、そんなにビックリするとは思わなかったから」
上原さんだった。
「こんなところで何してんの?」
あわてすぎてつい声が大きくなってしまった。
「せっかく会いに来たのに」と、手を後ろに回して口をとがらせる。「すみませんでした。帰りますぅ」
「いやああの、ちょ、ちょまっごめっ」
「それ、何語?」と、焦り顔の僕を見て御機嫌を直してくれる。
「ていうか、どこから来たの? 全然気づかなかったよ」
僕は階段の上に立って横を向いていたわけだけど、下から人が来る気配なんてまるでなかったのだ。
「あっちの階段からこっそり来てみたの。全然気づいてなかったでしょ」
団地の建物は両端に階段がついている。
上原さんはわざわざ反対側に回り込んで背後から忍び寄って来たというのだ。
「ずいぶん手の込んだことするね」
「そこまでして会いに来たんですけど」と、唇をすぼめて首をかしげる。
「はあ、どうも」
「なにそれ、反応薄すぎ。もっとおばあちゃんちの麦茶みたいに濃くしてよ」
そのたとえもよく分からないけど。
「私、学校からこっち見てたんだけど、全然気づいてなかったでしょ」
「ああ、まあ、絵を描くのに集中してたからね」
生まれて初めて女子に嘘をついてしまった。
「そのわりに全然進んでないじゃん」
あっさりバレてるし。
と、彼女が思いがけないことを言った。
「でも、この絵、いいね」
青空の下で二つの校舎が遠近法の消失点に向かってまっすぐに伸びている。
「なんか、どこか遠い未来で一つの点になるんだなって」
え、何の話?
そんな僕の質問を遮るように彼女はポンと手をたたいた。
「今日の天気って、おしゃべりするのにちょうどいいじゃん。晴れてないからそんなに暑くもないし」
空気がもわっとしていて、じっとりと汗ばんじゃうけどね。
彼女はお腹の高さくらいの窓穴に手をつくと、前に僕がやったみたいに、布団を干すように体を折り曲げてコンクリートの壁の外に体を投げ出した。
お尻が上がってつま先立ちになる。
僕も窓穴から顔を出して、彼女と同じ姿勢になった。
「頭に血がのぼるよね」と、彼女が僕を見る。「あれ、でも、頭は下向きだから血が下がってるの? どっち?」
逆さまの姿勢だと全然違う表情に見えるのが不思議だ。
僕だって逆さまだから逆さま同士で同じ向きのはずなのに、背景が逆さまなせいかやっぱり逆さまみたいに見える。
人間の感覚って不思議だ。
誰も知らない僕だけの上原さんだ。
もっと見ていたい。
いつまでもこうしていたい。
でもすぐに気持ち悪くなってしまって僕は体を起こした。
「あはは、なんかクラクラしちゃうね」と、起き上がった彼女が一歩下がって自分の制服を見下ろしている。「あ、なんか変な粉ついちゃった」
古い外壁のペンキだかコンクリートの粉がくっついてしまったようだ。
でも、クリーム色のサマーニットだから、あまりよく分からない。
じっと見ていたら、わざとらしく胸の前で固く腕を組む。
「そんなに見ないでよ」
「あいやあの、ち、ちがっく」
「さっきから何語なの、それ?」と、笑みを浮かべながら服をはたいている。
――ヒモテボッチ語ですけど。
汚れを落とし終わった彼女は階段に腰掛けた。
今度はスカートが汚れるんじゃないかと思ったけど、彼女が振り返って僕を見上げるので隣に並んで座った。
前にある同じ形の四角い建物の壁を眺めながら僕らはしばらくそのままでいた。
僕から話すことは何も思いつかなかったし、間を持たせなくちゃと思っているうちにどんどんその間が流れていく。
地球から酸素がなくなってしまったんじゃないかというくらい息が苦しくなった頃にようやく彼女がぽつりとつぶやいた。
「深海魚みたいじゃんね」
え?
「ほら、カラオケボックスみたいな狭くて暗いところにいると深海魚みたいな気分になるって言ってたでしょ」
彼女は僕のそんなどうでもいい言葉を覚えていてくれたのだ。
「全然違う場所なのに、なんか、ここに座ってると、深海魚みたいな気分だなって」
確かに全然違う。
暗くないし、開放的だ。
だけど、彼女の言うことがよく分かる。
僕らは深海魚だ。
不思議なもので、そう思うと何だか急に呼吸が落ち着いてきて、すうっと汗も引いていく。
女の子の隣にいるのは初めてなのに、落ち着いていられるのが不思議だった。
「私さ」と、彼女が静かに語り出す。
僕は彼女の横顔を見つめながらその言葉を聞いていた。
「中学の時の部活の先輩に誘われてるんだけど、高校では最初からバスケやるつもりなかったんだよね」
僕が何も言わずにいると、彼女はふっとため息を交えながら笑みを浮かべた。
「なんか、勝手にカノジョみたいにされてるし」
この前呼び出されていたイケメン先輩のことらしい。
「部活やってないんだ?」
「うん」と、うつむく。「私、バイトしててさ」
「ふうん、そうなんだ。なんか欲しいものでもあるの?」
僕の無邪気な質問に対して、彼女はしばらくまっすぐ前を見つめていた。
何度か瞬きをした後で、僕に顔を向ける。
「学費……とか?」
聞いちゃいけないことだったってことにようやく気づく。
僕を見たまま膝の上に肘をつき、前屈みになって顎を支える。
「貯金してるのよ」
「そうなんだ」
なんてつまらない返事なんだろう。
でも、他に言い方なんて思いつかなかった。
「私、お兄ちゃんがいたんだけどさ」と、彼女の話は脈絡がない。「うちの親、私が小学生の頃に離婚しちゃってね。お兄ちゃんはお父さんについていって、私はお母さんと一緒で、別れ別れになっちゃってね」
そういう事情で学費を自分で貯めているのか。
「お兄さんには時々会ってるの?」
「ううん」と、手に顎を乗せたまま首を振る。「死んじゃった」
僕は完全に言葉を失っていた。
「元々体が弱くてね。お父さんの方のおじいちゃんおばあちゃんが面倒見てたんだけど、中学くらいからずっと入院してて、お見舞いに行かないうちに死んじゃった」
何か言うべきなのかと考えたけど何も思い浮かばなかった。
黙っているしかない僕だけど、でも、それでいいんだと思って、通りかかる魚を待ち受ける深海魚のように僕は彼女の言葉を受け止めていた。
「べつにね、一緒に暮らしてる時も仲が良かったわけじゃないんだ」
肘をついていた彼女が起き直る。
「お兄ちゃんが何を考えていたのかが分からなくてね」
腕をまっすぐ前に突き出して軽くため息をつくと、ピアノを弾くみたいにぽんと膝の上に手を置いた。
「会えなくなっちゃってから思うんだよね。もっといろんな話をすれば良かったって」
彼女の目の縁が赤くなって、涙がにじんできている。
表面張力でまつげがそれをこらえている。
彼女のまつげが長いことを僕は初めて知った。
と、急に彼女が僕に顔を向けた。
びっくりしてのけぞりそうになったけど、僕は視線をそらさなかった。
彼女の左目から滴がすぅっと流れ落ちたけど、彼女は笑顔だった。
「ごめんね。いきなりこんな話して」
僕はバネが震えるみたいに小刻みに首を振った。
「ごめんね」と、僕もようやく気持ちを言葉にできた。「何を言っていいのか分からなくて何も言えなくて」
彼女の目から涙がぽろぽろとこぼれ落ちる。
「ありがとう」と、彼女は笑みを崩さなかった。「テツヤのね、そういう正直なところが好きだよ」
そんなことはない。
僕は嘘つきだよ。
「ボクハウソツキダヨ」
機械音声みたいな棒読み台詞に、手の甲で涙を拭いながら彼女が尋ねた。
「どんな嘘をついたの?」
君を好きだと言えない嘘。
――違う。
そうじゃない。
好きな気持ちに嘘はない。
ただ、それを口にする勇気がないだけ。
そうか。
僕は嘘つきじゃないんだ。
ただの意気地なしなんだ。
「ごめん。嘘つきじゃなかった」
「嘘つきじゃなかったっていう嘘?」と、彼女が微笑む。「難しくてよく分かんないや」
と、弾かれたように立ち上がってスカートをはたく。
「でも、ありがとう」
え、何が?
「一生懸命、嘘を考えてくれて」
違う、そうじゃない。
僕が言いたかったのは……。
嘘じゃなくて……。
「じゃあ、行くね」と、彼女はスキップするみたいに階段をトントンと駆け下りていってしまった。
道路の向かい側からチャイムが聞こえてきた。
『テツヤのね、そういう正直なところが好きだよ』
言わなくちゃ。
言わなくちゃいけないんだ。
何を言えばいいのか、何て言えばいいのかなんて、そんなのどうでもいいんだ。
今の正直な気持ちを伝えればいい。
ほんの一言だけ。
叫べばいいんだ。
曇り空を吹き飛ばすくらいの大声で、君に伝えればいいんだ。
僕は階段の窓穴から身を乗り出して彼女の姿を探した。
でも、道路にも、校門にも、中庭にも、どこにも見当たらなかった。
絵なんか描いてる場合じゃなかったんだ。
僕の頬に滴が一粒落ちた。
イーゼルに立てかけたキャンバスが太鼓のような音を立てる。
空から大粒の滴が落ちてきた。
また、雨だ。
町中が打楽器になったかのように音があふれ出す。
『会えなくなっちゃってから思うんだよね。もっといろんな話をすれば良かったって』
彼女の言葉が頭の中をぐるぐると駆け回る。
いつだって僕は大事なことを後回しにしてしまうんだ。
絵なんか描いてる場合じゃなかったんだな。
雨が強くなっていく。
道路の向こう側でイーゼルやキャンバスを抱えて校舎内に戻っていく人たちを眺めながら、僕は団地の隅で上原さんのことばかり考えていた。
でも僕は動けなかった。
彼女を追いかけることができなかった。
絵なんか描いている場合じゃなかったのに。