貧乏伯爵令嬢は恋人アルバイト中!

 あっという間に一週間が過ぎ、ローズとのお茶会の日。
 約束通り現れた迎えの馬車に乗ってローズの邸宅に降り立ったナディアは、リュカから貰ったドレスをまとい、手には手作りの洋ナシのケーキを持っていた。
 手土産はいらないと言われたが、そういうわけにも行かず、自宅の庭の洋ナシをケーキにしたのだった。

「こちらです」

 迎えに来た使用人に庭に案内された。そこは、誕生日パーティが行われたホールに面した庭だった。すでに数名のレディたちがにこやかに話に花を咲かせている様子だった。

「ナディア、待っていたわ。来てくれてありがとう」

 ナディアに気づいたローズが、笑顔でナディアに歩みよってきた。

「ローズさま、本日はこのような華やかな場にお招きいただきありがとうございます」
「やだ、堅苦しい挨拶はなしよ」
「あの、粗末なもので申し訳ないのですが、こちら」

 持ってきたケーキを差し出すと、ローズは「まぁ、ありがとう」と言って受け取ってくれた。こんなもの、と笑われて受け取ってもらえもしないのではと心配していたが、少なからず好意的なローズの態度に安心した。

「さ、座って、友人を紹介するわ」

 紹介された中に、子どもの頃に通った女学校時代の知り合いが居た。

「ナディア、久しぶりね」
「コレット…?」

 ナディアに名を呼ばれたブロンドヘアの美しい女性はその顔に笑みを浮かべてこくりと頷いた。コレットは、女学校でナディアと一番仲の良かった友人だ。フォーレ伯爵家の令嬢だ。
 ナディアが女学校を退学して以来連絡を取ったことは一度もなかったから、かれこれもう10年振りくらいの再会になる。
 それでも、ウェーブのかかったブロンドヘアとみずみずしい若草色の瞳が子どもの頃の面影を残していた。

「本当に久しぶり…会えてうれしいわ」

 コレットは、ナディアの痣のことを一度たりとも悪く言わなかった唯一の友人でもあった。

「ローズさまから今日来ると聞いた時は驚いたわ。あなた、社交の場には全く顔を見せないんだもの」

 コレットの言葉にナディアは笑顔で受け流す。家が貧乏貴族でとても社交場に出かける時間も余裕もないのです、とは言えなかったし、言わなくても周知の事実であるだろうからあえて言う必要も無かった。

「それと、ベルナール公爵さまとの事もね。本当に、本当なの?未だに信じられないわ」

 リュカの名前が出されたとたん、周りの他の女性たちもこぞって話に入ってきた。

「私もお聞きしたいわ」
「どうやってお近づきになれたの?!」

 質問攻めをくらい困っているナディアを助けたのはローズ。

「まぁまぁ、みなさん、まだお茶会は始まったばかりなのよ、もっとゆっくりなさって。ナディアも困ってるわ」
「申し訳ございません、こういう場所にあまり慣れておらず…」

 その後はとても和やかなムードでお茶会が進められた。少し肌寒くなったので、場所を移して屋敷の入口付近に設けられた吹き抜けの広間で過ごしていた。久々の再会となったコレットとも話せてナディアも楽しんでいた。ナディアやリュカが心配していたようなことは何もなかった。

 お開きの時間が近づいてきた頃、玄関ホールへと繋がるドアが開き一人の青年が現れたのだった。突然の来客にその場にいた全員の視線が一斉に向けられる。

「おっと、これはみなさんお集まりの所失礼」
「ノアさま!」

 現れた人物は、なんとノアだった。嬉しそうに声音を弾ませたローズが小走りに駆け寄っていく。ノアに会えた事が嬉しいんだろう。

「またお父様に呼ばれたんですの?」
「あぁ、チェスの相手にね。もうご在宅かな?…え?ナディア?」

 背の高いノアは、ローズの頭の上から視線をこちらによこした。名前を呼ばれ、ナディアは軽く会釈を返すとノアは片手をあげて微笑んだ。

「ローズ、ナディアと仲直りしたんだね。嬉しいよ」
「えぇ、今日はこの前のお詫びでお招きしましたの。ノアさまもパーティ以来でしょうし、ご挨拶されますか?」
「…いや、大丈夫。じゃぁ、僕は応接間で待たせてもらうよ。お茶会を中断させてしまって申し訳なかったね、失礼するよ」
「後で、お茶をお持ちいたしますね」

 ノアの姿を見送って戻ってきたローズの表情はどこか浮かない顔だった。

「ローズさまのご婚約者さまでしょう?素敵な方ですね」
「…ありがとう」
「ナディアさまもお知り合いですの?」
「え、えぇ…」
「今日はこれでお開きにしますわ。みなさん、またお会いしましょう。…ナディアとコレットはすこし残ってくださる?」

 ごきげんよう、と挨拶を交わし帰っていく人たちを門の前で見送ってからローズは口を開いた。

「ごめんなさいね、残って頂いて。久しぶりに再会した女学校時代の友人だけで話がしたくなったの」

 門から玄関までの長い庭をゆっくりと戻りながら、三人は並んで歩く。

「こうして、再会できるなんて、本当に懐かしいわ」
「えぇ、これもローズさまがナディアを誘ってくださったおかげです」
「今日はお誘い下さりありがとうございました」
「ーーー本当に、あなたの仮面を見てると、思い出すわその顔の痣を。忌々しい」
「えっーーーー」

 突然、吐き捨てるように投げかけられた悪意に満ちた言葉に、ナディアは雷にでも打たれたかのように体が硬直し、その場に立ち尽くした。

「ろ、ローズさま」

 隣にいたコレットでさえ驚き、動揺している。そんなことはお構いなしに、ローズはナディアを汚いものでも見るような目で睨みつける。

「もしかして、子どものころ、なんて言われてたか忘れたの?呪い、穢れ、醜い、汚いーーーー。だぁれもあなたに近づきたがらなかったわよね、子どもって残酷よね、素直だから」

 視界が狭まり、目の前が、真っ暗になるようだった。耳鳴りがして、息が上手くできない。立っているのもやっとだった。

「コレット、あなたはいつもナディアのそばにいたけど、それは、みんなから避けられるナディアが哀れで仲良くしていただけよねぇ?」
「わ、私は…そんな、」
「そうでしょう?ねぇ?」

 ローズの圧に、気おされてコレットは「はい」と頷いた。というよりは、俯いたといった方が正しいかもしれない。
 ナディアは、悲しくてコレットの表情は見れなかった。

 ーーーそうだ、いつもこうだった。

 ナディアは思い出した。
 いつも、ローズが率先してナディアの痣のことを口にするのだ。
 そうすると、学園で一番権力のあるジラール公爵家のローズに逆らえる子どもなどいなくて、みんな口をそろえてナディアをなじるのだ。
 そんな中でも、コレットだけは、ナディアのそばでナディアを慰めてくれていたのに。

「ほらね、あなたは所詮呪われた子。誰からも相手にされないのよ。ベルナール公爵さまだって、あなたを不憫に思って同情してるに違いないわ。愛されてるなんて勘違いしてないわよね?そのほうが身のためよ?それと、あなたがノアさまとこそこそ会ってることをわたくしが知らないとでも思った?悲劇のヒロインぶってベルナール公爵さまだけでなく、わたくしの婚約者にまで媚びを売るなんて一体何様よ!恥を知りなさい、恥を!」

 ーーーーパシン、と頬に痛みが走った。ローズに叩かれたのだ、と気づくのに少し時間がかかった。

「早く消えてくださる?…コレット、行きますわよ」

 言われたコレットは、何度か振り向きながらもローズの後を追う。
 ナディアは、その場に立ち尽くしたまま、しばらく動けずにいた。打たれた頬だけが、ジンジンと痛み、熱を持っているが、それ以外の何もかもは急速に冷えていくのを感じた。
 すぅーっと、血の気が引いていくように、足元が真っ暗になって、何も考えられない。
 けれども、最後にローズに早く消えろと言われたことだけが頭の中でこだまして、早く帰らなくては、と思うのに、体も動いてくれなかった。
 
「ナディアさま…?」

 ふと、名前を呼ばれて振り返ると、そこには見慣れた人が立っていた。

「公爵さまの…」

 いつも、ナディアを迎えに来てくれるリュカの御者だった。

「お迎えにあがりました。旦那様は、お仕事で来られませんが…、もしまだご自宅に帰っておられなければこちらに迎えに行くようにと仰せつかって参りました。行き違いにならず、よかったです」

 御者に促され、ナディアは馬車に乗り込んだ。何時に終わるかわからないから迎えはいらないと断ったのにも関わらず、こうして馬車をよこしてくれるリュカの優しさが嬉しくもあり、そして辛かった。

『呪い、穢れ、醜い、汚いーーーー。だぁれもあなたに近づきたがらなかったわよね』
『あなたは所詮呪われた子』
『あなたを不憫に思って同情してるに違いないわ』

 ローズの言葉だけが頭の中を何度もこだまし、ナディアに重くのしかかった。
 ーーーーー後悔先に立たず。

 リュカは、ナディアをローズのお茶会に行かせたことを激しく後悔していた。
 悪い予感は的中し、お茶会の日以降のナディアの変りぶりに酷く落ち込んだ。
 お茶会の日、迎えに行ってくれと送り出した御者の口ぶりからしても何かあったことは明白だった。

 笑わないのだ。
 正確には、笑ってはいるが表面上だけで、空元気とでもいうのか、出会った頃の心を開いていないナディアに戻ってしまったようだった。
 いや、それよりも酷い。あれから数回逢瀬を重ねているものの、リュカの前ではいつもと同じように取り繕う姿が痛々しくもあった。

 お茶会はどうだったと聞いても「楽しかったです」としか言わないし、何かあったのかと聞いても「何もありませんでした」と頑なに話そうとしない。
 どことなく近寄りがたい雰囲気を醸し出し拒絶するナディアに、リュカはいつものように甘い言葉を囁いたり口づけを交わしたりするのを憚られていた。
 おかげで、リュカのナディア不足が続いている。
 あの元凶でもあるジラール公爵の小娘を問い詰めたところで口を割るとは思えないし、どうしたものか、とリュカは考えあぐねていた。

「ナディアちゃんが口を割らないなら、友達とかに聞くしかないんじゃないの?」

 癪だったが、ライアンの助言を受け、思いついた人物と言えばアリスという孤児院の友人だった。
 ナディアと約束をしている今日、迎えに行く時間に孤児院へと足を運んだリュカは、思いもよらない人物を前に立ち尽くしてしまった。
 リュカに気づいたその人は、一瞬驚いた顔をしたものの飄々とこちらへ歩いて来て笑顔で「こんにちは」と挨拶をしてきた。

「あれ、どうしてこちらに?ナディアから今日は公爵さまと出かけるから孤児院には来れないって聞いてますけど」

 ノアと会うのは、口論になった時以来だった。なぜ、ここに、という言葉をなんとか飲みこむ。

「アリスと話がしたいのだが…」
「今呼んできますね」

 ノアは、人のいい笑顔を浮かべて孤児院の建物へと姿を消した。
 リュカが、ここに来るのはナディアを送り届けたとき以来、二度目だった。
 そういえば、口論になった時に友だちになったとかなんとか言っていたのを思い出して、リュカは苦虫を嚙み潰したような顔になる。あれからその言葉の通りノアが、自分が仕事で忙しくて会えない間にもナディアに接触していたのかと思うと腹立たしかった。

「お待たせしました!」

 少し高い女性の声に、リュカが視線をやるとブラウンの髪をひとつにまとめただけの質素な身なりの女性と呼ぶには少し幼く、少女と呼ぶには違和感がある女性が走って駆けてくる。
 確かナディアと同じ年だと聞いていたが、童顔のせいかナディアより幼く見えた。
 そんなに急いでくることもないのに、と申し訳ない気持ちになりながらリュカは口を開く。

「初めまして、ベルナール・リュカと申します。あなたがアリスですか?」
「は、はい、アリスです。はじめまして」
「突然おお呼び立てして申し訳ありません。少し話せますか?」

 こくこくと首を縦に振って、アリスは「こ、こちらへ」とリュカを食堂へと案内してくれる。促されるまま、丸椅子に腰掛けると、テーブルを挟んだ反対側にアリスも座った。

 さっきから感じていたことだが、改めて建物を見回すリュカは何とも言えない気持ちになった。
 建物は古く、壁にはひびも入り、欠けた煉瓦はところどころ補修されたあともある。小さな子どもたちが生活するには酷な環境だろうと心が痛んだ。

「あっ、お、お茶!」
「いえ、大丈夫です」

 緊張するのも無理はないか、とリュカはまた申し訳なく思いつつ苦笑する。

「お話、というのは…」
「えぇ、…ナディアの事なのですが」

 リュカは、アリスの緊張を解くようにゆっくりと言葉を紡いだ。お茶会の日以降、ナディアの様子がおかしい事、自分のは何も話してくれないこと、そして、何か知っていたら教えてもらいたくて今日ここに来たことを。リュカの話を真剣に聞いていたアリスは、神妙な面持ちでひとつ息をはく。

「実は…、私にも話してくれないんです…。私も、あの日から様子がおかしいのは気づいて、どうだったのか聞いたんですけど、ホントに当たり障りのない返事しか返ってこなくて…」
「そうでしたか…。あなたにも話していないとなると、もうお手上げですね。話してくれるまで待つしかないのでしょうか…」
「…ご期待に沿えず、申し訳ありません」
「あなたのせいではありません。そもそも、私が無理にでも止めさせておけば良かったんです…」

 頭を抱えるリュカは、視線に気づく。アリスの緑色の瞳だった。それは、リュカが普段女性から向けられている秋波でもなく、珍しいものでも見るかのような視線だった。リュカと目が合うと、ハッとして両手を顔の前で振って「すみませんっ」と慌てる。

「珍獣でも見るような眼でしたね」
「ち、ちがうんです…、なんか、ナディアの事で悩んでる公爵さまはイメージしてなくて…。ナディアの話だと、翻弄されてるのはいつもナディアの方なので…、公爵さまでも悩むんだなぁと…って、すみません!私すごく失礼なこと!無礼をお許しください!」

 椅子から立ち上がって土下座でもしそうなアリスにふと笑みがこぼれる。リュカの表情に安堵してアリスはまた椅子に座りなおした。

「ナディアがどんなふうに私のことを話しているのか興味深いですね。時間があれば是非伺いたいものですが。そろそろ行かなくては。アリス、今日は突然失礼しました。あなたに会えて良かったです。あ、最後にひとつ、ノアはこちらによく来るのでしょうか?」
「あ…っと…、はい、よく来ます。友達と称してナディアに会いに…」
「そうですか…」
「あ、でも、ご安心を!ノアは私がしっかり見張ってますので!私は公爵さまの味方です」

 至極真剣な顔で力説されて、リュカはまたしても笑ってしまった。

「ありがとう。とても心強い味方ですね」


 見送りについてきたアリスが、まだ何か言いたげな顔をしている事に気づいたリュカは門の前で振り返り、少し間を置いた。

「…あの、私がこんなことをいうのは烏滸がましいのかもしれませんが…」

 視線をリュカに移して、アリスが控えめに話しだす。両手は所在なさげに体の前で握られていた。寒いのか、少し震えているようにも見て取れる。そういえば、着ている服も少し薄手だった。

「ナディアを見つけてくれて、本当にありがとうございます。ナディアは、顔の痣のせいでずっと殻に閉じこもって…、誰かに恋をすることも、ましてや結婚とか出産とか、女性として生きていくことを諦めていたんです。酷い時なんて、尼になるとか言ってるくらい。…私、それがとても悲しかったんです。いくら痣があってもナディアは綺麗なんだからって言っても全然届かないし…。でも、公爵さまと出会ってからナディア、少しずつ変わってきたんです」

 秋の終わりを告げるような、冷たい風が二人の間をすり抜けていった。

「ノアがここにきてる事、公爵さまは多分知りませんでしたよね?」

 見抜かれていたのか、とリュカは内心ドキリとした。

「ナディア、言わなきゃ言わなきゃってずーっと頭抱えてましたから。でも、それは公爵さまに嫌われたくないっていうナディアの気持ちからなんです。まぁ、ノアの下心に全く気づいてない鈍感ナディアも悪いんですけど。これまで孤児院とかごく親しい人としか関りを持とうとしなかったナディアが、公爵さまと出会って、世界を広げていこうとしているようにも見えて、私すごく嬉しかったんです」

 なのに…、とアリスは顔を曇らせる。

「なのに、あの高飛車小娘のせいで…!また殻に閉じこもっちゃって、ナディアの馬鹿は!」

 どこかで聞いたことのある言葉に苦笑した。きっと自分の事は全て筒抜けなのだろうなとその言葉尻から伺える。ナディアの前では、いつも余裕がなくなる自分を自覚している身としては少しいたたまれなさを残しつつ、リュカは目の前のアリスの目をしっかりと捉え、頷いてみせる。

「…ナディアは、本当に良い友を持ちましたね」


 孤児院に来るにあたり、手土産に昼食を用意していたのでリュカは御者に運ばせた。なんとなく歩きたい気分になったリュカは、御者に先に行くと告げて歩を進める。待ち合わせの時間はとうに過ぎていた。


 孤児院からナディアの屋敷までの道のりを歩くのは初めてだなとふと気づく。この道を、ナディアはいつも歩いているのかと思えば、見えてくる景色はまた違う色味を帯びているようだった。この辺りは、本当に土地が痩せているのか、見える家も店も活気がなく寂しい。それでも、町を歩く人はみな笑顔だった。それは、ここを管理しているのがリシャール伯爵だからだろう。領主に慈しまれて生きるその地の人々は決まって活き活きとしているものだ。

 そして、その素晴らしい領主のもとに産まれたナディアもまた、愛され慈しまれてこの町と共に育ったのだろう。自分より人を思いやり慈しむその心は美しく、ナディア自身を輝かせていた。そして、その眩しさにリュカは魅了されたのかもしれない。

 ゆるやかな坂を少し上った先にナディアの屋敷がある。敷地の塀と共にひとつの人影が目に入った。そして、その人影の少し向こう側には馬車が停められている。その人影は女性だった。それなりに品のあるドレスを着た女性は、ナディアの屋敷の門のところで時折屋敷の方をのぞきながらうろうろとしていて、明らかに挙動不審だった。

「リシャール伯爵のお屋敷に御用でしょうか?」

 近づくリュカにも気づかない程、何かを考え込んでいたのか、女性は「きゃっ!」と声を出して慌てた。次にリュカの顔を見上げた彼女は、口を抑えて声にならない悲鳴をあげた。

「べ、ベルナール公爵さま…?」

 前に会ったことがあっただろうか、とリュカは目の前の女性を見るが、記憶にはなかった。年の頃は、ナディアと同じくらいで、手入れの行き届いたブロンドヘアはつややかに肩から背中へと流れていた。リュカが知らなくとも、社交界などで見てリュカの顔と名前を知っている女性は山ほどいるのだ。

「あなたは?」
「あっ、失礼いたしました。コレット・フォーレと申します」

 形式的な挨拶を取ったコレットは、若草色の瞳を伏せたまま何か考えている様だった。

「ナディアに用ですか?」
「え、っと…、はい」
「では、呼んできましょう」
「お待ちくださいっ」

 やはり、冬はすぐそこまで来ていると感じるほどに冷たい風が体に染みた。リュカは上着を羽織ってくれば良かったと後悔する。早くナディアに会いたい、と思いながらもリュカは黙ってコレットの言葉を待った。

「…ナディアに合わせる顔がありません…」
「それは、ジラール公爵家でのお茶会が関係しているのでしょうか」
「っ、どうしてそれを…」

 やはりそうか、とリュカは内心でつぶやく。今まで、貴族の娘がナディアを訪れることなど無かったから、コレットを見たときにもしかしたらという疑念が浮かんでいた。そして、その疑念が確信に変わった今、リュカはコレットがナディアにとって害となりうるのかどうか見極めなければならい。

「あのお茶会から彼女の様子が一変したので、何かあったのだろうと…。でも、彼女は何一つ話してくれないので、何があったのかまでは知りません」
「…そう…でしたか…」

 そうこぼしたきり黙り込むコレットの表情をリュカは眺めた。

「それで、あなたは何をしにここに来たのでしょうか」
「お茶会でのことを、謝りたくて…、でも、ナディアが会ってくれるかどうか…」

 ナディアが謝罪にきた友人を門前払いするはずがなかった。リュカはそれがわかるだけに、悩む。自分の過ちを懺悔することで解放されたいだけなのか、それとも本当に心から謝罪したいのか、この娘はどちらだろうか、と。

「…痣のことで酷い言葉を投げつけられて傷つく彼女を、私はただ見てることしか出来なかったのです…。それどころか助けることは愚か、追い打ちをかけてしまいました…」

 ナディアは、やはり痣のことで傷つけられ、心を閉ざしてしまったのだ。リュカは自分の予想が外れていなかったことを知る。

「そう、でしたか…」

 リュカは、胸が締め付けられる思いだった。ナディアは、一体どんな思いで今いるのだろうか。
 幼いころから深く傷つき心も世界も閉ざしてきたナディアは、リュカと過ごすうち、少しずつ、ほんの少しずつだけれども、変わりつつあった。
 出会った当初よりも、よく笑うようになったし、リュカにも自分から関わろうとしてくれているのをリュカも感じていた。そしてなにより、リュカはそんなナディアが愛しくて仕方がなかった。

 なのに、ナディアの世界が再び閉ざされようとしている。
 ナディアを、救いたい。この世界に連れ戻したい。
 彼女にとって、この世界は、とても辛く厳しい世界かもしれないけれど…、それでも、この世界は彼女が思っているよりも、きっと美しいのだと、彼女に知ってもらいたい、とリュカは強く思った。

 そうこう話している内に、遠くの方から馬車の走る音と共にリュカの御者が門に到着する。その音に、二人は顔をあげた。リュカの姿を認めた御者が会釈したので、リュカも片手をあげて応える。

「お待ちしておりました」

 どうしたものか、と逡巡している間に音をききつけて出迎えに来たナディアが御者に挨拶をする。見えたナディアは、以前リュカが一目ぼれして買ってきたクリーム色のワンピースドレスに身を包んでいた。
 ナディアも気に入ってくれているのだろうか、とそんな些細なことで嬉しくなる。
 そして、御者の目線に気づいたナディアは、ゆっくりとリュカ達の方を振り向いた。

「…リュカさまと、…コレット?」


***


ーーーーー忌々しい。

 吐き捨てられた言葉が、ナディアの胸に深く突き刺さって抜けない。
 けれども、不思議なことにローズへの憎しみや恨みつらみは無く、ぶつけられた言葉だけがナディアの中にずっしりと重くのしかかり、そこに居座っていた。
 ただ、ローズの言葉が、世間の言葉としてナディアは受け止めるべき言葉なのだと、それが「普通」なのだと思い知らされただけなのだ。
 いや、思い出された、と言うべきかもしれない。
 この顔の痣は、周りからすれば忌むべきものであり、晒してはいけないもの。自分は、ひっそりと陽にあたらぬように生きていくべきなのだ、と。

(わかっていたのに…)

 どうして忘れていたのだろう、と振り返るナディアの脳裡に浮かぶのはただ一人。オパールグリーンの瞳をした、彼の人。
 リュカと出会ってからだ、とナディアは思う。リュカと出会ってから、自分はとても欲張りになっていった気がする。リュカの周りは、みんなナディアの事を優しく受け入れてくれていた。リュカはいつも慈しむようにナディアを見つめ、甘やかすから。
 リュカはナディアがこうなった今も、変わらぬ優しさをくれている。どことなく、変わってしまった自分にリュカが戸惑っているのは感じているけれど、その優しさは相変わらずだった。

 リュカは、日向の人だ。
 自分とは、住む世界が違いすぎるのだ。
 しかし、リュカはすでにナディアにとって、簡単に切り離せる存在ではなくなっていた。

ーーーー怖い。

 失うのが、怖い。
 なんてわがままなのだろう、とナディアは自分の欲深さを知る。
『ベルナール公爵さまだって、あなたを不憫に思って同情してるに違いないわ。愛されてるなんて勘違いしてないわよね?』
 ローズの言葉が頭に響く。
 そんなことは、わかっている。
 わかっているから、苦しいのだ。
 ナディアは、そっと、隣に座るリュカを見上げた。自分は、リュカを失くして、生きていけるのだろうか、と。答えはイエスだ。きっと、生きていける。けれど、その人生はいかほどにつらく苦しい道だろうか。
 今、触ろうと思えば触れられる距離にいるのに触れないもどかしさと、以前のように触れてもらえなくなった寂しさを感じているだけで胸が張り裂けそうなくらい苦しいのに…。
 失った後のことなど、想像したくもなかった。

「…ごめんなさい、約束も取り付けず急に来て…。公爵さまにも、なんとお詫び申し上げればよいのか…」

 静寂を切り裂いたのは、コレットだった。
 ナディアの向かい側の椅子に腰を下ろしたコレットは、わざわざ、ナディアに会いに訪ねてきてくれたのだ。

「私のことは気にしなくて構いません」

 隣のリュカはナディアの隣でそう言った。柔らかい物言いに、ナディアは少しほっとする。

「ナディア…本当にごめんなさい。謝って済むことじゃないのは、わかっているけれど、どうしても謝りたくて…」

 申し訳なさそうに、眉尻を下げて言うコレットに、ナディアは出来る限りのほほ笑みを浮かべた。

「ありがとう、コレット。でもね、コレットに謝ってもらうようなことは何もなかったわ。だからどうか、そんなに気に病まないで」

 それは、紛れもないナディアの本心だった。ローズが言ったことはただの事実であり、コレットは家格が上のローズに逆らえなかっただけの話。誰が悪いとか、悪くないとか、そういう話ではないのだ。

「ローズさまに言われたことは、自分でもわかっていたことだし…、ローズさまのように私のこの痣で不快な思いをさせてしまうのも事実だと受け止めているわ」
「ナディア…、私はあなたの痣を醜いとか汚いと思ったことなんて一度もないわ」

 コレットの嘘偽りのない言葉に、ナディアはただ「ありがとう」と頷く。
 すると、膝に置いていたナディアの手があたたかさに包まれた。隣を仰ぎ見れば、オパールグリーンの瞳が、ナディアを優しく見下ろしている。

「私もです、ナディア。例えあなたの痣を不快に思う者がいようとも、そうでない者がいることもまた事実。それをどうか、忘れないでください」

 重ねられたリュカの手から、優しさが染みわたってくるようだった。
 ナディアは、二人の言葉に涙をこらえるのでいっぱいいっぱいで、やっとのことで頷いて見せる。
 コレットは、見つめ合う二人を見ながら「では、私はこれで」と椅子から立ち上がった。

「コレット、今日はわざわざ会いに来てくれて嬉しかった。ありがとう」
「私のほうこそ、会ってもらえて嬉しかった。ナディア、また会ってくれる?昔みたいに、二人で」
「もちろんよ、コレット」
「約束ね。ーー公爵さま、今日はお会いできて良かったです。お二人の時間を邪魔してしまい、申し訳ありませんでした」
「こちらこそ、会えてよかった。これからもナディアと仲良くしてください」

 見送りはいらないと言うコレットを玄関で見送った後、二人は応接間へと戻り、先ほどと同じ長椅子に肩を並べて座った。
 そして訪れる静寂。ナディアは急に緊張してきてしまった。

「あ、あの…、お茶を、入れ直して…わっ」

 立ち上がったところ、手を引っ張られて体勢を崩したナディアは、リュカの膝の上に着地。慌てて立ち上がろうと試みるも、両腕でがっちりとホールドされてしまった。

「…リュカさま、あの…」

 リュカの膝に横向きに座るナディアは、すぐ横にリュカの視線を感じて身じろぎをする。お腹に回された腕を両手ではがそうとしたけれどびくともしない。

 さっき、あれほど触れたい、触れられたいと願っていたはずなのに、いざ実現すると恥ずかしさが勝って逃げたくなる。



「ーーーあなたは、美しい」




「と、突然何を…」

 突然降ってきたリュカの言葉にナディアは振り向いた。

「ナディア…、その…」

 リュカにしては珍しく歯切れの悪さに、ナディアは不思議そうな目を向ける。

「私に、痣を見せてくれませんか…?」

 思いもよらない言葉に、顔を逸らしてしまった。心臓がドクンと飛び跳ねて、先ほどとは違う緊張で汗がにじむ手を握りしめた。

「…こ、こんな、醜い姿は…」
「誰が醜いと言ったのでしょう」
「それは…」

 やっとのことで絞りだした訴えは、リュカに即座に論破される。

「私は、醜いなどとは思いません。あなたのそれは、まるで白磁にあしらわれた濃紺の薔薇のようでした。ーーナディア、私は、あなたの全てを知りたい」

 歯の浮くようなセリフに、顔が熱を帯びる。決してそんな綺麗なものではないのに。

「それとも、私は見た目で人を判断するような低俗な輩だと思われているのでしょうか」
「…ずるいです、リュカさま…」

 そんな風に言われてしまえば、拒めなくなるではないか。言葉に詰まるナディアに、リュカは続ける。

「あなたの、苦しみを分けてくれませんか?」

(苦しみ…?)

 これが、苦しみなのだろうか、とナディアは自問した。

 そして、リュカに言われて初めて、自分が苦しんでいることに、気がついた。

 子どもの頃、ひどい言葉を浴びせられて以来、自分の心に居座っていたこの感情こそが、苦しみなのだ、と。
 この痣が忌むべきもので醜いものだと、当たり前のように感じていたナディアは、自分が苦しんでいるということに気づけなかったのだろう。

「喜びはもちろん、悲しみや苦しみも分かち合って共に歩んでいく。恋人というのは、そういうものではありませんか?」

 そして、目の前のリュカは、その苦しみを分かち合いたいと、それが恋人だ、と言っている。その意味を飲み込むのに、しばし時間がかかった。

 契約の恋人であろうとも、それは有効なのだろうか、とこんな状況でもそんなことがナディアの頭を過ぎったが、それはどうにか飲み込む。

 リュカがあまりにも、真剣だったから。

 ナディアはこみ上げる嬉しさと、不安とで震える手を、仮面の紐に伸ばしゆっくりと引っ張る。

 俯いていたナディアの鼻先を掠めて、仮面ははらりと落ちていった。



 それをサインに、リュカはナディアの頬に手を添えると、それこそ割れ物を扱うようにそっと自分へと向かせる。

 とても目を合わせられず、ナディアの瞳は伏せられる。そのまつ毛や唇は儚げに震えていた。

 リュカの指先が躊躇いがちに痣を隠していた栗色の髪を耳へとかけると、ナディアのそれが露わになり、白い肌に刻まれた痣は、陽の光に照らされて輝いているようにすら見える。

「とても綺麗です、ナディア」
「…っ」

 伏せられた瞳から涙が溢れ、痣の上を滑り頬を伝った。リュカは目じりにそっとキスを落とす。

「すみません、あなたの嫌がることはしないと言ったのに…」
「…私が、いつ嫌だと言いましたか…」

 泣きながら、いつものリュカの言葉をまねて返すナディアにリュカは目を丸くする。

 ナディアはリュカを真っすぐ見た。アイスブルーの瞳からまた一粒の涙がこぼれる。リュカが、仮面のないナディアの顔を目にするのは、これが二度目だ。けれども、その瞳に正面から見つめられたのは、初めてだった。
 ブルーダイヤのように透き通る瞳が、リュカを射抜く。その美しさに、リュカは息を呑んだ。

「この涙は…、うれし涙です」
「ナディ…」
「リュカさまに、綺麗だと言ってもらえて嬉しかったのです。ありがとうございます」

 恥ずかしそうに、けれども精一杯の笑顔で返すナディア。リュカの言葉は、とても嘘やお世辞を言っている様には思えなくて、すんなりとナディアの心に届いて、しみ込んでいった。

「ナディア」

 頬に触れるリュカの手に自らをすり寄せれば、目じりをなぞるように指先が涙を拭う。
 視線が交差した。
 視線を辿り、近づく吐息と混ざりあう二人のシトラス。
 そして、どちらともなく瞼を閉じた時、互いの唇が触れ合った。ただそれだけなのに、体に電気が走ったように痺れが駆け抜けていく。
 離れたナディアをリュカが追いかけようとした時、

ーーーーガチャッ

 勢いよく開かれたドアから、レオンとシャルロットが顔を出した。ナディアは反射的にリュカの腕を振りほどいて立ち上がった。その拍子に床に落ちた仮面を急いで拾って付け直す。

「リュカ遊ぼ!」
「お客さま帰ったでしょ?」

 リュカに気を取られていたおかげで、ナディアには目もくれず無邪気な笑顔を浮かべながらリュカの前までかけてくる二人。ナディアは平静を装うのに必死だった。

「二人とも、部屋に入る時はノックをしなくちゃダメでしょう」
「いいじゃん、お客さま帰ったし家族しかいないんだから」
「コレットは帰ったけど、公爵さまはまだいらっしゃるでしょう。失礼ですよ」
「えー?ねーねとリュカは結婚するんだからもう家族じゃん」

 不意に投げつけられた結婚というワードに、ナディアはドキリとする。

「け、結婚なんて、そんな…」
「ねーねは、リュカさまと結婚しないの?」
「シャルロット…」

 ナディアと同じアイスブルーの瞳を輝かせて問うシャルロットがナディアのドレスの裾を引っ張った。

「えっと…、先のことはわからないから…、け、結婚だなんてそんなこと、あんまり安易に口にするものじゃないわ」

 こういう時に限って何も言わないリュカの視線を背後に感じながら、ナディアは言葉を選んで二人をなだめるように言う。結婚なんて自分には縁のないものだとナディアは今も思っている。ましてや、リュカの爵位は公爵であり、ナディアの伯爵家とでは家格の差もあるのだし、リュカの立場を考えれば公爵夫人などナディアに勤まるわけがなかった。

「えぇ?だって、リュカが言ってたもん。ねーねと結婚するって」
「レオン、男同士の約束はどこかにいってしまったのかな?」

 その声に振り向けば、椅子に座ったまま優しい笑みを浮かべてこちらを見つめるリュカの姿があった。

「あっ、忘れてた!」

レオンのうっかりにくすくすと笑うリュカの姿にナディアは見惚れてしまう。こんなに、美しくて優しくて、完璧な人が、どうして自分なんかのそばにいてくれるのだろうか。考えても、答えなどわかるはずもなく、ナディアは胸が苦しくなるのだ。滲んでくる涙を、ナディアは瞬きをして散らした。

「そうだ、今から二人をパルフェの店に連れていきましょう」

 手をポンと叩いてリュカが立ち上がる。
 あの日の口約束を、リュカはちゃんと覚えていてくれて、果たそうとしてくれている。その優しさと誠実さに、ナディアは感謝の気持ちで胸がいっぱいになる。

「パルフェってなに?美味しいの?」
「リュカさまとおでかけー!嬉しい!」

 はしゃぐレオンとシャルロットの手をひいて、リュカはナディアを振り向いた。

「ナディアも一緒に行くんですよ」
「あ、はい!すぐに参ります」

 ナディアは、返事をすると慌てて3人の後を追った。