驚きすぎて、言葉も出ないで目を見開くナディアをリュカはくすくすと笑いながら見つめていた。
いたずらっ子みたいに笑うリュカを見て、からかわれたのだと気づいたナディアは、また顔が熱くなっていく。
それにしても、リュカのその観察眼には驚かされっぱなしだった。ナディアの考えることなんて、手に取るようにお見通しなんだろう。
「公爵さま、本当に何から何まで感謝いたします。私はどうお礼をしたら良いのでしょうか」
「お礼なんて、良いんですよ。私がしたくてやっていることです」
「あの、どうして公爵さまのようなお方が、私のような者を恋人役にする必要があるのでしょうか?」
それは、どうしても腑に落ちない疑問だった。
リュカのように地位も名誉もあって、容姿端麗な文句の付け所のない人が、わざわざ自分のような「訳アリ」をお金を払ってまで雇わなくとも、どこぞの高貴なご令嬢がわんさか寄ってくるに違いないのだ。
ナディアの質問に、リュカは「そうですね・・・」と考えてから話し出した。
「私は今24ですが、最近周りから結婚しろと言われることが増えました。親戚含め、周りの貴族たちが代わる代わる私に縁談を持ち込んでくるのが煩わしくて仕方がなかったのです。かと言って、私は王子の指導という大役を任されている今、権力争いに巻き込まれるのはまっぴらごめん、そこで、恋人でも作ればうるさく言われないのでは?と思ったのですよ」
「それでなぜ私が・・・」
「あなたが言いたい事はよくわかります。他にいくらでもいるだろうとお思いなのでしょうね」
ふぅ、とため息のような一息をついてリュカは紅茶の入ったカップを口に運ぶ。
たったそれだけの動作にも見惚れてしまう。
リュカの何気ない所作の全てが美しかった。
子どもの頃からしっかりと公爵家の子息としての教育を受けてきた証。
それにプラスして、リュカの持つ独特の雰囲気が見る人の目を惹きつけているのかもしれない。
カチャン、と小さな音を立ててカップがソーサーに戻されると、リュカはつづけた。
「なぜあなただったのか、という質問の答えは、あなたが私に興味を示さないから、でしょうか。私は、恋人が欲しいわけではなく、女除けが欲しかったんです。我こそは、と自ら進んで私の恋人役を買って出るような女性では、それはきっと勤まらないでしょうね」
なるほど、とナディアは妙に納得した。リュカは自分に惚れることがなく、自分を煩わせない、必要な時に相手をする恋人役が欲しかったわけで、たまたま出会った自分に白羽の矢が立った、というだけの事。
「あなたの求める答えになったでしょうか」
「はい、納得できました」
ナディアの返事に、リュカは「なら良かった」と微笑んだ。
出会いは突拍子もなかったし、気まぐれで奇想天外だけど、優しい人だということはすぐにわかった。
(あれ?でも待って・・・ただの女除けならば、キスなんて必要ないのでは?)
またしても浮上する疑問。ナディアは、ご機嫌なリュカにそのまま投げかけてみると、彼からはまたしても理解不能な答えが返ってくる。
「それとこれとは別です。可愛いレディが目の前にいればキスしたくなるのが男の性(さが)というものです、どうかお許しを」
にっこりと満面の笑みを浮かべながら、全く悪びれた様子もなくそんなことを言うリュカ。開いた口がふさがらないナディアは、ただただ口をパクパクさせるだけしかできない。
やはり、社交界一の色男は侮れなかったーーーー。
「ーーー私の事より、あなたのことを聞かせてください」
「私のことなど、お話できることなんてありません」
さぞ、華やかな人生を歩んでこられたであろうリュカに話すことなど、あるわけがない。
しがない貧乏貴族の長女で毎日の食事は平民以下。
召使の一人もいなければ、日がな一日を生きていくのに精一杯なのだから。
それなのに、リュカはにこにことどこか嬉しそうにナディアに問いかけた。
「ナディアは、普段何をして過ごしているのですか」
「何を、と言われましても・・・、毎日家と孤児院の往復ばかりです。時々町の方からの頼まれごとをお手伝いしたりして、あとはご存じの通り夜に酒場で働いていたくらいです」
「それは、とても忙しそうですね・・・。孤児院には手伝いがいるのではないですか?」
「えぇ、おりますがとても手が足りておりません。院長はもうご高齢で体がお辛そうですので」
あたたかいしわしわの手を思い出す。
いつでもナディアを優しく受け入れてくれる優しい院長は、ナディアにとって祖母のような存在だった。
それに、手伝いのリリアーヌは自分の子どもの世話もしながらなので、長い時間は居られない。
ほとんどボランティアのような金額しか出せないため働いてくれる人もそうそう現れなかった。
「そうですか、それは大変ですね。私のところから一人手伝いを送りましょう」
「いけません、公爵さま」
「どうしてですか?」
「もう一人手伝いを雇えるほどの余裕はないのです」
「そうでしょうね。ですから私の使用人を一人貸すだけです。賃金の心配は必要ありません」
なんの迷いもなくさらっとでた言葉にギョッとする。確かに、手伝いを一人増やせるのならそれに越したことはないが・・・、いくらなんでもリュカの世話になるのはためらわれた。
「とてもありがたいお申し出ですが、そこまで公爵さまに頼るわけには」
「私が良いと言っているのに?」
理解できないとでも言う顔をして、リュカは肩をすくめる。
けど、それはナディアも同じだった。会って間もないナディアのためにそこまで良くしてくれるのか全く理解できなかった。
それとも、公爵家くらいの財力ならば使用人の一人や二人など痛くもかゆくもないのだろうか。
きっとそうに違いない。あまりの格の違いにナディアはめまいがした。
「ーーーそれでも、です。それに孤児院は、今は大変でも何とか運営できていますし、私も好きで手伝いをやっているので・・・、使用人を送られると私の仕事がなくなってしまいます」
孤児院は、ナディアが安心できる居場所のひとつでもあった。
子どもたちはみんな明るく可愛くて、院長もリリアーヌもとてもあたたかくナディアを受け入れてくれる。家以外でほっとできる唯一の場所だった。
「そういうことなら、ここは引きましょう。ですが、ナディアがツラくなったらいつでも言ってくださいね」
ほっとしてお礼を言えば、優しいまなざしで見つめられた。
きっと本心でそう言っているんだろうなとナディアは感じた。
自分が首を縦に振ればリュカは喜んで使用人の一人や二人、簡単に差し出すんだろう。
お金持ちの考えることなど、ナディアにわかるはずもなかった。
その後も、リュカの質問攻めにあいながらも、2人で楽しい食事の時間を過ごした。
リュカとの食事を終えて帰宅するナディアを、両親が案の定待ち構えていた。
弟と妹は、美味しい食事をお腹いっぱい平らげてお昼寝中らしい。
「ナディ、一体何がどうなっているのか説明しておくれ」
怒られるのかと思ったのに、両親の表情は嬉々として明るく、目を輝かせていた。
母は「まぁ、なんて素敵なドレスなの」とうっとりして娘の着ているドレスを優しく撫でた。
「えっと、少し前に町で公爵さまの馬車に轢かれそうになったことがありまして、今日はそのお詫びのようなものなのです。けがをしたわけでもなかったので私は丁重にお断りしたのですが、公爵さまがどうしてもとおっしゃるので甘えてしまったのです。黙っていて申し訳ございませんでした」
(二人ともごめんなさい!)
罪悪感を感じながらも、ナディアは嘘八百を並べ立てた。
とてもじゃないが本当のことなど何一つ言えない。
これ以上両親に心配かけないためにも、余計な事は耳に入れないほうがいいに決まっている。
「まぁ、そんなことが!ベルナール公爵さまもなんて律儀なお方なんでしょう。こんな高価なドレスに宝石を下さる上、あんなに豪華な食事を我が家にまで届けてくださるなんて、一体どうお礼をしたら良いのでしょう。公爵さまに差し上げられるものもお金もございませんというのに・・・ねぇ、あなた」
「あぁ、本当になんと情に厚いお方だろう。お噂と寸分たがわぬお人柄だ。だが、使いのものが謝礼は一切受け取らないと言っていたし・・・、ここはどうだろう、公爵さまのご厚意に甘えてみては。せめてお礼の手紙だけでも出そうではないか」
「それが良いと思いますわ、お父さま。では、私は着替えて孤児院へ行って参ります。公爵さまがごちそうの残りを持たせてくださったので届けてきますわ」
「まぁまぁ、あの子たちどんなに喜ぶでしょうね。早く届けておやりなさい」
母の声を背にナディアはその場を後にした。
この後届く大量のドレスと宝飾品についての言い訳を考えながらーーーー
*****
孤児院の子どもたちは、ナディアの持ってきたごちそうに大喜びしあっという間にぺろりと平らげてしまった。
幸せそうな子どもたちを見て、ナディアまで幸せな気持ちになった。
「さぁ、みんな、勉強の時間にしましょう。外に出て」
ナディアは、この子たちに時間の許す限り文字や歴史を教えていた。
この子たちが大人になったときに少しでも生きていく糧となるように。
自分たちが名ばかりの伯爵家であるがため、この子たちに苦労を強いてしまっているとナディアは自責の念に駆られている。
食べることにも事欠く今は、勉強するためのペンも紙も買えないため、ここでは外の地面に木の棒で文字を書いて教えていた。
そうまでしても、ナディアは孤児院の子どもたちに出来ることをしてやりたい一心だった。
「さ、この前教えた文字は忘れてない?」
「もちろん!ちゃんと練習したよ!」
一番に手を挙げて得意げに言うのは7歳になったばかりのアーチュウだ。
孤児院で一番やんちゃでいたずら好きで、世話役のリリアーヌも手を焼いている。
アーチュウは転がっている枝を拾い上げると、地面に文字を書きはじめた。
それを見て、他の子どもも思い思いに枝や石を手に取り文字や絵を書きはじめるのだった。
「アリスはこの前教えた詩を書いて見せて?」
ナディアに促され、アリスも枝を拾う。
「まだ、全部は覚えていないんだけど・・・」
と言いながら、17歳のアリスはすらすらと文字を書いていく。
数年前に両親を事故で亡くしたアリスはこの孤児院で最年長だった。
ナディアと年が同じということもあり、今ではお互いになんでも話せる間柄だった。
もうすぐ大人と呼べる年齢になるアリスの行く末をナディアは案じていた。
孤児院で大きくなった子どもは、大体がどこかの家に貰われていくことがほとんどだが、その未来は決して明るいものではなかった。
家族として迎え入れてくれる所は珍しく、その家の使用人や下働きとして朝も晩も働かされるのが関の山。
年の近いアリスが不憫で仕方なかった。
アリスには、いや、この孤児院の子どもたちにはみんな幸せになってもらいたいと、ナディアはいつも願っていた。
「すごいじゃない!あとは、最後の2文だけよ!」
ついこの間教えたばかりの詩をほとんど覚えて、一字一句違えず書き連ねたアリスに感嘆の声をあげる。
ナディアは続きを地面に書き連ねた。貧乏貴族だけれど、勉強は人一倍頑張ってきたナディアはその知識を惜しげもなくアリスに教えていた。
そして、自分の知識が無駄にならず、こうして孤児院の子どもたちに分け与えることができる事に、喜び幸せを感じていた。
「お、やってるな~」
声の方を振り向くと、孤児院の門の方から一人の青年が手を挙げながらこちらに歩いてきていた。
「テオ!ちょうどいいところに来てくれたわ!子どもたちに文字を教えてるところなの」
ナディアの幼馴染、テオ・ルソーは、男爵家の三人兄弟の末っ子だ。
子どもが出来ず孤児院の子どもを養子として引き取っている心優しいルソー男爵家の三男として、テオは孤児院から貰われていった幸運の持ち主。
孤児院の頃からナディアとよく一緒に遊ぶ仲で、3つ年上のテオはナディアにとって兄のような存在だった。
よく焼けた小麦色の肌によく似合う漆黒の髪は短く、瞳はそれと揃えたように深い黒色をしていた。
「それよりナディア、今日父さんがお前の家に行った時にベルナール公爵さまの馬車を見たと言っていたが本当なのか?」
思いがけないところでリュカの名前がでて、ナディアはドキリとした。
まさかテオの父親、ルソー男爵に見られていたとは思いもよらなかった。
「え、えぇ、本当・・・」
テオに嘘をつくのは憚られたものの、本当のことを言えないナディアは両親にしたのと同じ内容の説明をした。
「そうだったのか・・・・、なんかいろいろ大変だったな。父さんもびっくりしてたぞ」
「そうよね、驚くよね」
貧乏貴族の家に天下のベルナール公爵がなんの用だろうかと誰もがそう疑問に思うはずだった。
納得したテオは、子どもたちにせかされて文字を教え始めた。
孤児院を出たあとも、テオはこうして何かと顔を出しては孤児院を手伝い、子どもたちの世話を焼いてくれている。ナディアはそれがとても嬉しかった。
つんつん、と裾を引っ張られたナディアは振り返る。
文字を書く手を止めたアリスの緑色の瞳がナディアを見上げていた。
「なぁに、アリス」
「ねぇナディア・・・なにか、隠していることがあるんじゃない?」
「な、なんで?」
「なんとなく、いつもと違う気がするの。それに、今日化粧もしてるし、髪型もちゃんとセットして」
そうだった。洋服店の女性店員に髪型から化粧から全て直されていたのだ。ナディアはそれを忘れて、着替えただけで出てきてしまった事に今気づかされた。
「・・・今日アリスの部屋に泊ってもいい?」
「もちろん、良いわよ」
その日、勉強を終えるとナディアは孤児院の夕飯の準備を手伝って子どもたちと一緒に夕食を取り、そのままアリスの部屋に泊ることにした。
ナディアの両親にはテオが用事ついでに伝えてくれていた。
ナディアが孤児院に泊ることはよくあることで、子どもたちも院長も特に気にかけることもなかった。
「ええええぇーーーー?!恋人役!?」
「しーーーーーーっ!静かに!アリス声が大きい!」
寝巻に着替えた2人はベッドの上で毛布を羽織りながら向き合って語らっていた。
ナディアの目に仮面は無い。
アリスは、ナディアが素顔を見せられる唯一の友でもあり、アリスにはなんでも話せた。
酒場のバイトの事も知っていて、何度も「危ないから」と止めたけれど、こうと決めたら自分の意見を曲げない頑固な性格なのもよくわかっていたから半分は諦めていた。
ナディアは、リュカとの事の経緯を包み隠さずアリスに打ち明けたのだった。
「今日のごちそうもそのベルナール公爵さまから頂いたものだったのね」
「そうなの。とても優しいお方のようなのだけど」
「けど、なに?」
聞かれたナディアは口ごもる。
「ここまできて隠し事はナシよ、ナディア」
ぎろりとアリスに睨まれて、仕方なくナディアは口を開いた。
「き、キスを・・・」
「キーーーーーんんっっ」
今度は、叫ばれる前にナディアの両手がアリスの口を塞ぐ。
「え、え、き、キスって・・・・挨拶じゃなくて?」
口を抑えるナディアの手を自分ではがすと、アリスはナディアにぐっと近寄って来た。その目は嬉々としている。人の事だと思って楽しんでるな、と思いながらもナディアは続ける。
「ベルナール公爵さまからしたら、あんなの挨拶のうちなのかもしれないのだけど・・・」
今日の馬車の中での激しいキスを思い出して、ナディアは顔から蒸気が出そうなくらい真っ赤になってしまった。両手でほてる頬を包み込んで冷やしたが、心臓はばくばくと音を鳴らしてやまない。
「さ、さすが社交界一の色男だけあるわ・・・」
「そんなところで感心しないで。ベルナール公爵さまは本当に尊い方なのよ、本来は」
「本来は、ね。でも、公爵さまはきっとナディアの可愛さに一目ぼれしたのよ!そうに違いないわ」
「なに言ってるの、アリス」
アリスは、事あるごとにナディアの事をかわいいとほめてくれた。仮面を外したナディアの素顔をみては、かわいい、仮面なんて必要ないと言ってくれる。
「何って、本当の事よ。ナディアはこんなに可愛いんだもの。公爵さまも見たんでしょ?ナディアの素顔」
「そうだけど、こんな痣を見て可愛いなんて思うはずないわ・・・。そんな風に言ってくれるのはアリスだけよ」
そう言いながら笑ったナディア。けれどもその瞳には悲しさを宿していた。いつもそうだ、とアリスまで暗い気持ちになる。
痣のせいでナディアはいろいろなことを諦めている。
恋をすることも、結婚することも、延いては子どもを産んで母となることもだ。
そんなナディアに、例え「役」だとしてもアプローチしてくる異性が現れた事にアリスは少なからず喜んでいた。
ただ、まだ油断してはいけない、とも感じている。
もし、ベルナール公爵とやらが、ただの好奇心で、ナディアを弄んでいるだけだとしたら、傷つくのはナディアだ。
アリスはそうならないでほしいと祈るしかない。
「ナディアは、キスされて嫌じゃなかった?」
そういえば・・・と、ナディアは考える。
「嫌、ではなかった・・・ただ、突然の事に驚いただけ・・・」
初めて会った日のキスも今日の二度目のキスも、どちらもあまりに突然で、何が何だかわからないまま終わっていた。
嫌だ、と思う余裕もないほどに。
ただ、改めて思い出しても不思議とそこに不の感情はないことに気づく。
これも、あの社交界一の色男の為せる技なのだろうか、などと馬鹿なことを考えている自分にナディアはあきれた。
「そう、なら良かった。私の大事なナディアに嫌な事したら公爵だろとこのアリスが許さないから!」
「もう、アリスったら。あ、でも、女除けのための恋人役っていうのは誰にも秘密にしてね」
「わかってる。その代わり、ちゃんと報告してね」
話がひと段落した2人はベッドに横になった。
ナディアは隣にアリスのぬくもりを感じながら瞼を閉じる。
今日はおとぎ話に出てくるお姫様のような一日だったせいか、体も頭もひどく疲れていた。
アリスに全てを話したおかげで少し気持ちが軽くなったのか、その夜ナディアは自分でも驚くほどとても気持ちよく眠りに落ちていった。
◇◇◇
リュカの呼び出しはまたしても神出鬼没だった。
「ナディアさま、お迎えにあがりました。お乗りください」
孤児院へ向かう途中、このあたりでは珍しく馬車が走っているなと思ったらそれはリュカの馬車だった。
ナディアの目の前で停まると御者が降りてきて馬車のドアを開けてステップを下ろす。
「あ、あの・・・今から孤児院へ向かうところなんです。今、手伝いのリリアーヌさんが体調を崩していて、私が手伝いに行く約束をしているので・・・」
「それならご心配には及びません。旦那様が代わりの者を手配済みでございます」
(手配済みって・・・)
さすがはリュカ、抜かりがないというかなんというか。
しかしそんなことを急に言われても、困る。
どこの誰だかわからない人が来ていきなり「ナディアさまの代わりにお手伝いします」とかなんとか言ってるのだろうか。
院長や子どもたちがとても心配になった。
(けれど、これは契約でもあるし・・・)
生真面目なナディアは馬車に乗り込んだ。
「あぁ、ナディア、また突然呼び出してすみませんでした」
「公爵さま、ごきげんよう」
連れていかれたのは、リュカの邸宅。
客間に通され待っていると程なくしてリュカがドアを開けて入ってきた。
ソファから立ち上がったナディアの肩に手を添えて、再び座るよう促しながらリュカも隣に腰掛ける。
いつものシトラスのオーデコロンに包まれた。
タイミングを見計らったかのように、使用人がお茶と菓子を2人分そっと置いていった。
ナディアの分はすでに出されていたのに、新しいそれと取り換えられた。きっと、冷めてしまったとかそんな理由だろう。
なんて贅沢なんだろう、もったいない。
「会いたかったです、ナディ」
会うやいなやさらりと甘い言葉をささやかれ、顔が熱くなる。
男性経験のないナディアは、こういう時なんと返せばいいのかわからなくてうつむくしかない。
「照れてる姿も可愛いですね」
「こ、公爵さま、からかわないでください」
嬉しそうににこにこ笑うリュカに悪気は一切感じられないが、それが余計に恥ずかしい。
きっとこの人は会う女性みんなに歯の浮くような甘い言葉をささやいているに違いない。
なんといっても、社交界一の色男なのだから。
「あの、それで、今日はどのような御用でしょう?」
「そうでした、忘れてました。でも急ぎではないので、とりあえずお茶でも飲みましょう」
さ、冷める前にどうぞ、とソーサーを持つとナディアの前に差し出した。
(えーと、どういうことなのかしら)
自分の使用人を孤児院の手伝いにまでよこして呼びに来たのだからきっと急用に違いないと思っていたのに。
しかたなく、差し出されたカップを手に持ち口に運ぶと、さわやかなシトラスの香りがする上品な紅茶だった。
「公爵さまと同じですね」
「え?何がですか?」
「シトラスの香りがします」
「もしかして、シトラスは嫌いでしたか?」
すぐに違うものを入れさせましょう、と使用人を呼ぶリュカを制止する。
「違います、とても良い香りだと言いたかったのです。さわやかで、透き通るような上品な香りです。公爵さまにぴったりの香りだなといつも思っておりました。このシトラスティーもとても美味しいです」
「なら良かった・・・。嫌いと言われたら今すぐ湯あみしてこようかと思いました」
「湯あみって、そんな、大袈裟です」
心底ほっとしたような安堵の表情を見せるリュカに思わず笑ってしまった。
あの、天下のベルナール公爵がこんな風に慌てる姿なんてそうそう見れないだろう。
「ーーー初めて、笑ってくれましたね」
「え?」
初めてだっただろうか。リュカと出会ってからのことを振り返っても、そんなにぶすっとしていた記憶は無いのだが。
目を向けると、優しいまなざしで見つめられていて恥ずかしくてまた逸らす。
リュカの美しさが眩しすぎる。
なんとかやり過ごせているのは、仮面のおかげかもしれない。
「出会いはともかく、この前はずっと困った顔ばかりでしたからね。しいて言えば、食事の時くらいでしょうか、嬉しそうだったのは」
それは、リュカが高価なものをプレゼントをしたり、孤児院に使用人を送ると言ったりと困らせることばかりするからだ。
「す、すみません」
「責めてるわけではないのです。ただ、あなたの笑った顔が見られて嬉しい、という話です」
またでた甘い言葉は、もはや右から左に流すことにした。
リュカの言葉を全て受け止めていたらナディアの心が窒息してしまいそうだ。
そんなナディアを知ってか知らずか、リュカはご機嫌に菓子を口に入れたかと思うと、「甘いですね」と眉間にしわを寄せていた。
ナディアもいただきますと言って菓子をつまみ頬張れば、それは確かにリュカの言葉のように甘く、心にしみ込んでいった。