それから数日、何も無かった。
 硝子は仕事に行って、帰宅し、食事をして、寝て、また起きる。淡々とした日々の繰り返しだ。何も変わったことは無い。
 ただ一つ変わったのは、硝子がこの少年のことを『尖』と、弟の名前で呼び始めた事だった。

 「尖、あなた今日どこか出かけた?何あの荷物」
 「そうそう。はい、これ」
 「え!?な、なに、このお金!」

 どこに持っていたのか尖は黒いリュックを持っていて、その中にはたくさんの紙幣が詰め込まれている。一万円札が束になっていて、人生で一度も見たことが無いそれに恐れ戦いた。

 「ま、まさか、強盗とか……したんじゃないでしょうね……」
 「何でだよ。姉さんのアレキサンドライト原石売ったんだよ。その買い取り額」
 「売った?売ったってどこに?あんな触れない物を誰が買うのよ」
 「変彩宝石堂。あそこ買い取りもするから」
 「えっ」
 「つっても、一度姉さんの中から出たら磨けないからこれは宝石としての価値が無い。大した金額にはならないけど、原価ゼロだし儲けもんだろ」
 「……随分賢くなったのね、尖。宝石の価値とか原価とか」
 「んー、楔さんがよくそういうこと考えてるから」
 「楔さん?」
 「経理なんだよ、あの人。ついでにあの店のアクセサリーデザインも楔さん。万能だよなあ」
 「……ねえ、尖、あなた金緑さんたちとはどういう知り合いなの?」
 「店主と客だよ。金緑さんて楔さんのこと猫可愛がりなんだぜ。楔さんもあんな仏頂面してるけど、お兄ちゃんによしよしってされるとすーっごい幸せそうな顔するんだよ。俺と同じ」

 仏頂面と言われて楔を思い出してみるが、硝子が思い出せる尖の顔は狐面だ。素顔を知らない硝子は首を傾げた。

 「楔さんて何であんな格好してるの?みんな見えないみたいだし」
 「さあ、知らない。それよりさ、今日一緒に寝てもいい?」
 「は?」
 「ずっと病院だったから姉弟っぽいことしたいんだ。なあ、いいだろ」
 「……いいけど……」

 夜中くっついてるじゃないか、と硝子はきょとんとした。
 布団が一組しか無いから尖は座椅子の背を倒してマットがわりにしているのだが、気が付けば硝子の背中にへばりついている。朝は硝子が先に起きて仕事に出てしまうから本人は気付いていないのだろうか。
 許可を得た尖は、やった、と嬉しそうに笑った。

 『お兄ちゃんによしよしってされるとすーっごい幸せそうな顔するんだよ。俺と同じ』

 尖もよしよしとされたかったのだろうか。
 硝子はそうっと尖の頭を撫でてみた。

 「な、なんだよ。俺もう十五なんだけど」
 「関係無いわよ、そんなの」
 「いいって。恥ずかしいだろ」

 そう言いながらも、幸せそうに笑う尖は硝子の手を振り払う事はしなかった。
 硝子は十二歳で死んだ弟が十五歳といったのは聞こえないふりをして、その夜は二人一緒に布団に入り尖を抱きかかえたまま眠った。
 硝子がすうすうと寝息を立て始めたのを確認すると、尖はむくりと身体を起こした。手元を探ると、そこには一つだけ硝子の原石が転がっていた。尖はそれを拾ってくるくるとその姿を確かめる。

 「……もうすぐだ、姉さん」

 尖は輝き始めた硝子の原石をがりりと噛んだ。

*

 硝子と尖が一緒に寝るようになってから二週間が経った。
 最初はあれほど警戒していた硝子だったが、すっかり尖のいる生活に慣れていた。出勤する七時半になっても布団から出てこない尖の身体を揺する。

 「尖!いつまで寝てるの!お姉ちゃんもうバイト行くよ!」
 「おれはばいとじゃない……」
 「ゴミ出しといてよ。あ、洗濯と夕飯の買い物もお願いね。そこにメモあるから」
 「……姉さん死人をこき使いすぎじゃない?」
 「呼吸して喋って飲食して排泄して寝るのは生きてるのと同じよ。働かざるもの食うべからず!」

 買い物のメモには米五キロに紅茶のペットボトル五百ミリリットルを二本、じゃがいも五個入り一袋、玉ねぎ一つ、ニンジン一本、レタス半玉、きゅうり三本入り一袋、トマト一つ、カレールウ中辛一袋。
 今までの硝子にしては多すぎる食材量だ。

 「こんな買って生活大丈夫なの?」
 「大丈夫よ。そんな貧乏じゃないし」

 硝子は休みなく働き、生活をギリギリまで切り詰めなければいけないほど貧乏ではない。バイトを複数しているし親の遺産もある。
 それでも安い家賃のアパートでろくに食事もせず服すら買わないのは、尖が戻って来た時に不自由をさせないためだった。
 死んでしまったのだからもう戻って来ないと分かっていたけれど、それでも硝子は尖のために何かしら続けていたかったのだ。
 だから今その貯金で服や靴を買ってやったり、人気のカフェや平均価格一万円以上のレストランに連れて行ったりもした。生前行けなかったデパートで買い物をさせると尖が驚く顔を見るのが嬉しくて、硝子は尖のいる日常を満喫していた。

 「そうだ。忘れてないでしょうね。ハチ公前に十九時だよ」
 「分かってるって。でも俺Tシャツ着回しでいいんだけど」
 「駄目よ。ちゃんと生活しなさい」

 硝子はカギ閉めてね、と尖に頼むとバタバタと慌ただしく家を出た。
 尖を家に一人残しておくと何をされるか分からない、と怯えていた最初の頃が嘘のようだ。

 「おはようございます!」
 「お、おはよう。矢野さん最近元気だね。明るくなったっていうか」
 「そうですか?ああ、うん。そうかも」
 「彼氏でもできたんでしょ。絶対そう」
 「違いますよ。でも秘密」
 「え~!?絶対彼氏でしょ!教えてよ!」

 尖がいなくなってから失われていた生気が戻り、会社でもにこにこと笑顔を見せるようになってからは人間関係も良好だった。
 硝子は元々勉強熱心なのでできる仕事もどんどん増えて、上司からはバイトじゃなくて社員にならないかと持ち掛けられるほどだ。
 あまりにも充実していて、だから忘れていたのだ。

 『姉さんは完全犯罪の罪悪に苦しみながら長生きするんだから』

 尖を殺したのは自分だということも、尖の言葉の意味も。

*

 「……これ、どうしたの?」
 「作ったの」

 疲れて家に帰ると、そこにはキラキラと輝くカレーライスがあった。
 ほかほかのご飯に硝子の好きな中辛のカレー。レタスときゅうりのサラダには残っていたツナがそえられている。
 硝子は目を輝かせて食い入るようにカレーを眺めた。先週買ったばかりである人生初のスマートフォンでカレーを連射する。全身で嬉しさを訴える姉の様子に、尖はあははと面白そうに笑った。

 「大袈裟だって。冷めるから食べよう」

 コン、と頭を軽く叩かれて硝子は我に返った。
 年甲斐もなくはしゃいでしまい恥ずかしくなったけれど、それでもまだ撮り足りないと言いたげだ。
 尖は二人分のカレーとサラダを並べた。料理支度を全て一人でやってくれる甲斐甲斐しい弟の姿に成長を覚え、なんだか誇らしげな気持ちになった。
 そして尖お手製のカレーをぱくりとひと口食べる。

 「美味しい!料理なんていつの間に覚えたの!?」
 「楔さんが料理するから。あの人が家事ぜーんぶやってるんだよ」

 楔さんはよく尖の口から出てくる名前だ。金緑の名が出ることもあるが、それは楔の話のオマケ程度だ。
 料理を習うほどあの怪しい男と仲が良いのかと思うと、硝子は一抹の不安を覚えた。硝子と尖が一緒に暮らすようになってからは彼らが妙な行動をする事はなかったが、こうも名前が出てくるということは今も会っているのだろうか。

 「そうだ。この原石もっと売れば?そしたらそんなに働かなくたって」
 「だめっ!!」
 「えっ」
 「だめよ!もうあのお店に行っちゃだめ!!」
 「な、なんで。そんな怒鳴るほどのことでも……」

 硝子にはひとつ恐れていることがあった。
 彼らは尖を連れて行ってしまうのではないだろうか。
 この生活には何の保証もない。普通の人間と変わらない生活をしているが、尖の遺骨はたしかにそこにある。いるはずの無い人間なのだ。
 それを連れて来たのなら連れて帰ることだってできるはず。この日常が崩れるのを硝子は恐れているのだ。
 
 「お金は大丈夫よ。それより食べよう。これ凄く美味しい。明日も作ってよ。ね」
 「いいよ。じゃあ明日は姉さんの好きな麻婆豆腐にするよ」
 「よく覚えてるわね、そんなの」
 「そりゃあ覚えてるよ。大好きな姉さんのことなんだから」
 「尖……」
 「それに楔さんが得意なんだよ、中華料理。これは俺も自信ある」
 「……そう、なんだ」

 またその名前だ。料理なんて頼まなければよかった、と少しだけ後悔した。
 そして硝子は不安を拭い去るように話題を変えた。

 「ねえ。明日バイト休めることになったの。どっか出かけようよ」
 「本当!?」
 「うん。電車乗って遠くまで行ってもいいし」
 「そっか。じゃあちょうどいいかな。俺も姉さんを誘おうと思ってたんだ」
 「行きたいところあるの?」
 「ある。ずっと二人で行こうと思ってたんだ、もう一度」
 「もう一度?」

 明日は早起きしよう、と尖は笑った。