初めて硝子の身体からアレキサンドライト原石が生み出されたのは二年前。十歳下の弟、尖の遺体が発見されてから一カ月後だった。
硝子達の両親は尖が生まれたその数か月後に交通事故で死亡し、姉弟で児童養護施設に入った。
尖は心臓に疾患があるため施設と病院を出入りしていたが、二人で支え合って生きていた。硝子は高校卒業と同時に働き始め二十歳で児童擁護施設を出たが、バイトが終わった後は毎日必ず尖の元に足を運んでいた。
病院生活は快適とは言い難かっただろうけれど、安いバイト代で一日一食、家賃五万二千円も滞納し続け退去を迫られる硝子の生活も快適では無かった。
それでも二人は共に過ごせる幸せを噛みしめ寄り添って過ごしていた。
しかし尖は十二歳になった時に失踪し、その十日後に遺体で発見された。
死因は崖からの投身自殺だと警察の調査で判明したが遺書は無かった。誘拐や殺人の可能性もあると捜査をしてくれたが、自ら病院を抜け出す姿が監視カメラに映っていたため自殺と断定された。
尖の失踪前日も、また明日ね、と硝子はその手で尖を抱きしめていた。
明日も明後日もずっとそんな日々が続くはずだった。病気が悪化したらもしかしたら、という考えが頭をよぎることはあったが、自ら命を絶つ選択をするとは思っていなかった。
何一つ分からないまま硝子はたった一人の家族を失い、その時点で硝子の人生は無意味で無価値なものへと一転したのだった。
*
尖の死から二年経ち、硝子は時給千二百円でデータ入力のバイトをしている。
昨今の情勢を汲んでフルリモートを許可してくれる有難い会社だが、自宅にインターネット環境が無いので出勤をしている。
当然会社に出勤している人間はおらず、ここ最近は誰かと会話をしたことが無い。
あまりにも喋らないせいなのか、喋ろうとすると声が出ない時がある。
いつも喋り始めは音にならないので、突如挨拶されると返事ができず無視したようになってしまう。
おかげでコミュニケーション能力が無いという烙印を受けてしまった。
硝子の身体は喋り方を忘れたが、さして不便はしていなかった。話をしたい尖はもういないのだから、パソコンと向き合うだけの硝子は会話する必要が無い。
死ぬまでこうしてぼんやり過ごすのだろうと、硝子は何の感慨もなく生きるようになっていった。
硝子は自宅アパートの隅に置いてある自作の棚に向かった。
棚といっても、木材屋で貰った廃材をガムテープで繋いだだけだ。そこには小さな白い瓶が置いてあった。そして尖の写真も飾られている。
「ただいま、尖」
こんな傾いた棚ではとても穏やかに眠ることはできないだろうけれど、仏壇など用意できない。
硝子は棚からバスケットボールを取り出した。尖の遺品だ。
遺品といっても、実際にバスケットをしていたわけでは無い。いつかやりたい、せめてボールを持ってみたいというから一日一食で我慢してお金を溜めて買ってやったのだ。
けれど結局尖がこのボールで遊ぶことは無かった。硝子はボールをぎゅうと抱いて泣き崩れた。
*
ある朝目を覚ますと、部屋にごろごろと石が転がっていた。
何の前触れもなく突然だ。何か特殊な行動を取ったわけでも考えたわけでもない。起きたら突然だ。
最初はついにゴキブリが大量発生したのかと勘違いしたけれど、それは微動だにせずただ転がっていた。
何が起こったのか分からなかったが、とにかくまずは片付けようと手を伸ばした。しかしそれは叶わなかった。
「……この石、触れない」
硝子の指は石をすり抜けた。触ることができないのだ。
どうする事も出来ずにいると、何故かその数はどんどん増えていく。もしや上の階から落ちてきているのかと思ったが、硝子のいる二階が最上階だし木々や洞窟の中に立っているわけでもない。
気味が悪くなり硝子は慌てて管理人に連絡をして見てもらったが、管理人に言われたのは――
「何も無いじゃないですか。嫌なら出ていってくれていいんですよ。その前に滞納してる家賃二か月分は払って下さいね」
大きなため息を吐かれて終わったのだった。
どうやらこの石は硝子以外には見えず、誰も触ることはできないらしい。どうしたらいいのか考えはしたのだが、どうにもならなかった。
部屋が埋まったらどうしようかとは思っていたが、どうやら一定期間経つと消えるようで、絶対数は変わらないように見えた。
硝子は諦めた。気味が悪いものではあるが特に害があるわけでもない。
そうして謎の石と生活を共にし始めて二年ほど経過した現在、すっかり石に囲まれた生活に慣れていた。
「どうせなら宝石だったらいいのに」
――そんな風に思う余裕も出て来たところで、狐面の男に出会ったのだ。
「矢野硝子」
「……は、い?」
どこからともなく出現する石は気味が悪いが、意志を持って行動する日本刀所持者は物理的に恐怖だ。硝子は思わず後ずさりした。
(な、なに、この人……)
避難訓練はしっかり参加しているが、これにはどう対処していいか分からなかった。
硝子は何もできず、ただ身体からぼろぼろと石を溢れさせていた。
すると狐面の男は軽快に駆け寄りひょいと石を拾ったのだ。二年間誰にも相手にされなかったそれを認知され、硝子は思わず声をかけた。
「罪悪のアレキサンドライトか。三百年近くやってきたが初めて見る」
「……はい?」
「しかしなるほど。君なら二つの顔を持つアレキサンドライトを創り出すのも頷ける」
「……よく分からないんですけど、その石が何なのかご存知なんですか?」
「知りたければ付いて来い」
そして硝子はこの男の跡を追う事となったのだ。
*
狐面の男は行き先も告げないまま渋谷の街を歩き続けた。
そして宇田川町あたりで裏道を幾つも入って行くと、突如現れたこぢんまりとした小さな日本家屋の前で足を止めた。直線的なビルばかりの渋谷の中には全く馴染んでいない。
あまりにも唐突に出て来た家に硝子は少し驚いたけれど、狐面の男は何も言わず家の中に入って行く。
ふと見上げると玄関扉の上に木製の看板が掛けられていて、そこには達筆なのかそうでないのかよく分からない筆遣いで文字が書かれていた。
「変彩宝石堂……?」
硝子がぼけっとしていると、狐面の男が何をしている、と硝子の腕を引いて店の中へと引きずり込んだ。
のこのこと付いて来て大丈夫だったのかと今更我に返ったが、それもすぐに頭から飛んでいった。
がらんどうの店内には、宝石のような瞳をしたとても美しい男が待ち受けていたからだ。
「変彩宝石堂金緑支店にようこそ。待っていたよ、アレキサンドライトの姫」
「ひ、姫?」
「僕は店長の金緑だよ。そっちは弟の楔。よろしくね」
金緑と名乗った男は弟だという狐面の男から硝子のアレキサンドライト原石を受け取ると、それを硝子の瞳と並べた。
「これは僕と最も縁の深い石なんだ。僕と硝子ちゃんも深い縁があるといいんだけどな」
金緑はするりと硝子の頬を撫でた。
今まで尖が消えた喪失感と貧しい生活の苦しみで生きていたため男性に縁が無かった。軽く触れられただけのところが急速に熱を帯びていく。
男性に縁があったとしても、これほどまでに端正な顔立ちをしている人にはなかなか出会わない。そう断言できるほど金緑は美しかった。
硝子はどぎまぎしながら目を泳がせて、ええと、ああ、と言葉に迷ってしまう。
「ふふ。そんなに緊張しなくていいよ。同じ石の名を持つ僕はとても深く繋がっているのだからね」
「……その石は何なんですか?」
「君と僕を繋ぐ石さ」
ふふ、ともう一度笑うと、金緑は自分の瞳を撫でた。
その瞳は陽の光を受けて緑に輝いたかと思えば、部屋の白熱電球に当たると赤く輝いた。照らされる光によって色を変える様はさながらアレキサンドライトのようだった。
硝子達の両親は尖が生まれたその数か月後に交通事故で死亡し、姉弟で児童養護施設に入った。
尖は心臓に疾患があるため施設と病院を出入りしていたが、二人で支え合って生きていた。硝子は高校卒業と同時に働き始め二十歳で児童擁護施設を出たが、バイトが終わった後は毎日必ず尖の元に足を運んでいた。
病院生活は快適とは言い難かっただろうけれど、安いバイト代で一日一食、家賃五万二千円も滞納し続け退去を迫られる硝子の生活も快適では無かった。
それでも二人は共に過ごせる幸せを噛みしめ寄り添って過ごしていた。
しかし尖は十二歳になった時に失踪し、その十日後に遺体で発見された。
死因は崖からの投身自殺だと警察の調査で判明したが遺書は無かった。誘拐や殺人の可能性もあると捜査をしてくれたが、自ら病院を抜け出す姿が監視カメラに映っていたため自殺と断定された。
尖の失踪前日も、また明日ね、と硝子はその手で尖を抱きしめていた。
明日も明後日もずっとそんな日々が続くはずだった。病気が悪化したらもしかしたら、という考えが頭をよぎることはあったが、自ら命を絶つ選択をするとは思っていなかった。
何一つ分からないまま硝子はたった一人の家族を失い、その時点で硝子の人生は無意味で無価値なものへと一転したのだった。
*
尖の死から二年経ち、硝子は時給千二百円でデータ入力のバイトをしている。
昨今の情勢を汲んでフルリモートを許可してくれる有難い会社だが、自宅にインターネット環境が無いので出勤をしている。
当然会社に出勤している人間はおらず、ここ最近は誰かと会話をしたことが無い。
あまりにも喋らないせいなのか、喋ろうとすると声が出ない時がある。
いつも喋り始めは音にならないので、突如挨拶されると返事ができず無視したようになってしまう。
おかげでコミュニケーション能力が無いという烙印を受けてしまった。
硝子の身体は喋り方を忘れたが、さして不便はしていなかった。話をしたい尖はもういないのだから、パソコンと向き合うだけの硝子は会話する必要が無い。
死ぬまでこうしてぼんやり過ごすのだろうと、硝子は何の感慨もなく生きるようになっていった。
硝子は自宅アパートの隅に置いてある自作の棚に向かった。
棚といっても、木材屋で貰った廃材をガムテープで繋いだだけだ。そこには小さな白い瓶が置いてあった。そして尖の写真も飾られている。
「ただいま、尖」
こんな傾いた棚ではとても穏やかに眠ることはできないだろうけれど、仏壇など用意できない。
硝子は棚からバスケットボールを取り出した。尖の遺品だ。
遺品といっても、実際にバスケットをしていたわけでは無い。いつかやりたい、せめてボールを持ってみたいというから一日一食で我慢してお金を溜めて買ってやったのだ。
けれど結局尖がこのボールで遊ぶことは無かった。硝子はボールをぎゅうと抱いて泣き崩れた。
*
ある朝目を覚ますと、部屋にごろごろと石が転がっていた。
何の前触れもなく突然だ。何か特殊な行動を取ったわけでも考えたわけでもない。起きたら突然だ。
最初はついにゴキブリが大量発生したのかと勘違いしたけれど、それは微動だにせずただ転がっていた。
何が起こったのか分からなかったが、とにかくまずは片付けようと手を伸ばした。しかしそれは叶わなかった。
「……この石、触れない」
硝子の指は石をすり抜けた。触ることができないのだ。
どうする事も出来ずにいると、何故かその数はどんどん増えていく。もしや上の階から落ちてきているのかと思ったが、硝子のいる二階が最上階だし木々や洞窟の中に立っているわけでもない。
気味が悪くなり硝子は慌てて管理人に連絡をして見てもらったが、管理人に言われたのは――
「何も無いじゃないですか。嫌なら出ていってくれていいんですよ。その前に滞納してる家賃二か月分は払って下さいね」
大きなため息を吐かれて終わったのだった。
どうやらこの石は硝子以外には見えず、誰も触ることはできないらしい。どうしたらいいのか考えはしたのだが、どうにもならなかった。
部屋が埋まったらどうしようかとは思っていたが、どうやら一定期間経つと消えるようで、絶対数は変わらないように見えた。
硝子は諦めた。気味が悪いものではあるが特に害があるわけでもない。
そうして謎の石と生活を共にし始めて二年ほど経過した現在、すっかり石に囲まれた生活に慣れていた。
「どうせなら宝石だったらいいのに」
――そんな風に思う余裕も出て来たところで、狐面の男に出会ったのだ。
「矢野硝子」
「……は、い?」
どこからともなく出現する石は気味が悪いが、意志を持って行動する日本刀所持者は物理的に恐怖だ。硝子は思わず後ずさりした。
(な、なに、この人……)
避難訓練はしっかり参加しているが、これにはどう対処していいか分からなかった。
硝子は何もできず、ただ身体からぼろぼろと石を溢れさせていた。
すると狐面の男は軽快に駆け寄りひょいと石を拾ったのだ。二年間誰にも相手にされなかったそれを認知され、硝子は思わず声をかけた。
「罪悪のアレキサンドライトか。三百年近くやってきたが初めて見る」
「……はい?」
「しかしなるほど。君なら二つの顔を持つアレキサンドライトを創り出すのも頷ける」
「……よく分からないんですけど、その石が何なのかご存知なんですか?」
「知りたければ付いて来い」
そして硝子はこの男の跡を追う事となったのだ。
*
狐面の男は行き先も告げないまま渋谷の街を歩き続けた。
そして宇田川町あたりで裏道を幾つも入って行くと、突如現れたこぢんまりとした小さな日本家屋の前で足を止めた。直線的なビルばかりの渋谷の中には全く馴染んでいない。
あまりにも唐突に出て来た家に硝子は少し驚いたけれど、狐面の男は何も言わず家の中に入って行く。
ふと見上げると玄関扉の上に木製の看板が掛けられていて、そこには達筆なのかそうでないのかよく分からない筆遣いで文字が書かれていた。
「変彩宝石堂……?」
硝子がぼけっとしていると、狐面の男が何をしている、と硝子の腕を引いて店の中へと引きずり込んだ。
のこのこと付いて来て大丈夫だったのかと今更我に返ったが、それもすぐに頭から飛んでいった。
がらんどうの店内には、宝石のような瞳をしたとても美しい男が待ち受けていたからだ。
「変彩宝石堂金緑支店にようこそ。待っていたよ、アレキサンドライトの姫」
「ひ、姫?」
「僕は店長の金緑だよ。そっちは弟の楔。よろしくね」
金緑と名乗った男は弟だという狐面の男から硝子のアレキサンドライト原石を受け取ると、それを硝子の瞳と並べた。
「これは僕と最も縁の深い石なんだ。僕と硝子ちゃんも深い縁があるといいんだけどな」
金緑はするりと硝子の頬を撫でた。
今まで尖が消えた喪失感と貧しい生活の苦しみで生きていたため男性に縁が無かった。軽く触れられただけのところが急速に熱を帯びていく。
男性に縁があったとしても、これほどまでに端正な顔立ちをしている人にはなかなか出会わない。そう断言できるほど金緑は美しかった。
硝子はどぎまぎしながら目を泳がせて、ええと、ああ、と言葉に迷ってしまう。
「ふふ。そんなに緊張しなくていいよ。同じ石の名を持つ僕はとても深く繋がっているのだからね」
「……その石は何なんですか?」
「君と僕を繋ぐ石さ」
ふふ、ともう一度笑うと、金緑は自分の瞳を撫でた。
その瞳は陽の光を受けて緑に輝いたかと思えば、部屋の白熱電球に当たると赤く輝いた。照らされる光によって色を変える様はさながらアレキサンドライトのようだった。