ピーンポーン
 
 高音のチャイムが、目の前にある家からくぐもって聞こえてきます。

 翡翠はインターホンを押した震えている指を、ボタンからそっと離しました。
 
 口をキュッと結んで、バクバクとうるさい心臓を落ち着かせるようにスカートの裾を握りしめます。

『大丈夫。あなたならできる』
 
 昨日ルナに言われた言葉を、頭の中で何度も繰り返します。
 
 今日、ルナはいません。

 神社に行ってみたのですが、彼女の姿はどこにもありませんでした。

 代わりに、琥珀の時のように、頭に直接響く声が聞こえてきました。
 
『1人で頑張っておいで。あなたならできるわ』と。

 きっと、神社に戻ったのでしょう。
 
 願いを叶えると、あれほど言っていたのに…。
 
 やはり、結局は自力で叶えないといけないということを思い知らされました。

 だからでしょうか。
 
 代償というものを払わなくても、ルナは何も言っていませんでした。

 きっと、願いを叶えるという契約そのものが無くなったと等しくなって、ルナは消えたのでしょう。
 
 でも、ルナは翡翠に勇気を残していってくれました。
 
 私はできる…。
 
 翡翠は自分に言い聞かせるように、「大丈夫」とおまじないのように唱えます。
 
 こうすると、不思議と心の底から温かいものが込み上げてきて、私を勇気づけてくれるのです。
 
 チャイムが3回程鳴ったところで、「はーい」と返事が聞こえました。
 
 途端、翡翠の心臓はバクンと盛大な音を鳴らします。
 
 大丈夫、大丈夫、大丈夫…。
 
 目を瞑って深呼吸をしていると、ガチャっと扉が開いて、中から男の子が顔を覗かせました。

 途端、ドクンッと心臓が高鳴ります。

 ドクドクと苦しいほど強く脈打つ心臓を抑えて、翡翠は笑顔を作ります。

「どちら様…って、翡翠?」

「えっと、こ、こんにちは、琥珀くん」

 出てきた琥珀に、翡翠は何とか笑顔で声を掛けました。昨日に引き続き、今日も翡翠から会いに来ています。
 
 突然の翡翠の訪問に、琥珀は驚きを隠せません。

「えっ、な、何で…?」

「急にごめんね。今、暇かな?」
 
 困惑している琥珀に、翡翠は積極的に話し掛けます。

「え、うん。暇だよ」

「なら、少し、その…散歩に付き合ってくれない?」

「えっ、散歩?」
 
 琥珀は目を見開きます。
 
 驚くのも無理はないよね、と誘った翡翠も顔を赤くしました。
 
 当然です。
 
 今まで、琥珀とはまともに話した経験は少ないのですから。増してや、自分から話しかけに行くなんて初めてです。
 
 でも、ルナの強い言葉に心を動かされ、勇気を出すと決めたのでした。
 
 ここで逃げるわけには行きません。
 
 翡翠はドキドキと高鳴る心臓を抑えて、なんとかこの場に留まります。
 
 しかし、琥珀が無言になって沈黙が漂い始め、空気が怪しくなってきました。
 
 もうダメかも…と諦めかけた時、琥珀がようやく口を開きました。

「僕なんかでよければ。いいよ、一緒に行こうか」

「えっ、いいの?」
 
 翡翠は驚いて顔を上げます。
 
 そして、とても優しい笑顔を向けている琥珀を捉えます。
 
 目を見開いて自分を見つめてくる翡翠に、琥珀は言いました。
 
 何処となく、頬を赤らめながら。

「僕も丁度暇だったし」

「あ、ありがとう」
 
 表情こそ変えませんでしたが、翡翠は内心、天にも登るくらいの幸せで満たされていました。

「じゃ、行こう」
 
 そう言うなり、琥珀は家から出てきます。

「う、うん。行こう」
 
 こうして、ぎこちなくも、二人は何処か楽しそうに散歩に出かけました。
 
 家に囲まれた道を、翡翠が少し前を歩いて、二人は住宅街を出ました。
 
 風景が、おしゃれな街並みから一転、自然豊かな田圃に変わります。
 
 緑色の稲がいくつも立っている水田に沿った砂利だらけの道を、翡翠は躊躇うこともなくゆっくりと進んでいき、琥珀も翡翠のペースに合わせて彼女の隣を歩きます。
 
 肩を並べて畦道を散歩している二人の間には、なんとも言えない雰囲気が漂っていました。
 
 おしゃべりをしたいのに、いざとなるとどんな話題をすればいいのか悩みます。
 
 そして、結局会話を交わすこともできません。
 
 それどころか、翡翠はずっとドキドキしっぱなしでした。
 
 なにせ、好きな人と並んで歩いているのですから。
 
 体は暑いし、心臓は壊れそうです。
 
 翡翠はチラッと、隣を歩く琥珀を見ました。
 
 サラサラの黒髪が、前方から吹いてくる風によって揺らめいています。
 
 少し長めの前髪から見える瞳は、黒く澄んでいて美しいです。
 
 引き締まった口元に、一点を真っ直ぐと見ている彼の横顔は、とても綺麗で、一生眺めてられそうでした。
 
 思わず、じっと見惚れていると、視線で気づいたのか琥珀が翡翠の方に顔を向けてきました。

「ん?どうしたの?」

「あ、いやっ!」
 
 咄嗟のことに、翡翠はバッと顔を背けます。
 
 そんな翡翠を不思議そうに眺めつつ、琥珀は尋ねました。

「ところで、何処へ向かっているの?」

「あっ、言ったなかったね。あの、神社に行こうと思って」

 答えると、琥珀は何かを思い出したかのように「ああ」と声を上げました。

「あの、山の上にある場所?」

「うん、そう」

「あそこって確か、隕石が降ってきた場所なんだよね」

「えっ!そうなの?」
 
 そんなの初耳です。
 
 翡翠は驚いて琥珀を見ました。

「そうだよ。ちなみに、理由は分からないけど、降ってきたのは月の石だって言われてる。だから、実はあそこだけ標高が低いんだよね」
 
 そんなの全く気にしたことがありませんでした。
 
 確かに、見た目よりも登らずに着くな、とは思ったことがありましたが。

「それから、あそこは月の神様がいると言い伝えられているんだって」

「神様?妖精じゃなくて?」

「確かに、正確に言えば妖精かもしれない。でも、妖精って神と人間の中間の存在なんだ。むしろ、神に近いかも。だから、神様と同じような存在だと認識していいと思う」

「そそ、そうなんだ…」
 
 翡翠は琥珀の口から出てくる言葉を、ただあんぐりと口を開けながら聞いていました。
 
 神社にまつわる歴史がそんなすごいものだったことにも驚きましたし、何より、そんな事を知っている琥珀に驚きました。

「す、すごいね。そんなこと初めて聞いたなぁ…」

「別に、そこまで大層なことじゃないよ」
 
 照れ隠しのためか、琥珀はそっぽを向いて頭を掻きました。
 
  そんな彼に、翡翠は心から感心の言葉を言います。

「凄いことだよ。私なんて、自分で行くと言いながらそんなこと1ミリも知らなかったもん」

「良かったら今度、もっと教えるよ」

「いいの!」

「まぁ、街の歴史とか好きで、調べているから…」

「ありがとう」

「…うん」
 
 最初よりも随分と緊張が解けた会話をした二人は、いつの間にか神社に着いていました。

「着いたね」

「そうみたいだね」
 
 そう掛け声を合わせた二人は、顔を見合わせてから、階段を登り始めました。
 
 幾つものある石の段を越すと、立派な神社が翡翠と琥珀を迎えます。

「こんなに綺麗な神社だったんだ」
 
 琥珀は、来たのは初めてなのか、目の前に聳え立つ本殿をまじまじと眺めます。

「綺麗だよね」

「そうだな」
 
 2人は暫く、鳥居をくぐることもなく神社の前で立ち尽くしていました。
 
 夏風が、翡翠と琥珀の間を通り抜けて、2人に夏を届けて行きました。
 
 騒音が聞こえない山の上は、蝉の声がやけにはっきりと響いています。

「…」
 
 翡翠と琥珀は、お互い何も喋らず、どうしていいかも分からない視線を、何となく神社に合わせていました。
 
 普段ならあまり気にしない沈黙も、静かな場所だと際立ちます。
 
 翡翠は唾をごくりと飲み込んで、自分に言い聞かせるように「大丈夫」を心の中で唱えると、意を決しました。
 
 くるっと踵を回転させて、琥珀に体を向けます。

「こ、琥珀くん!」
 
 突然名前を呼ばれた琥珀は、驚きながらも、優しい笑顔を浮かべて、「何?」と聞き返しました。
 
 翡翠は服の裾を両手でぎゅっと握りしめて、ふっと息を吸って、琥珀の瞳をまっすぐに捉えます。

 今だ、私の思いを伝えるときは!

「好きです!ずっと、あなたのことが好きでした。私と、つつ、付き合ってください!」
 
 前のめりになりながら、渾身の想いを、言葉として琥珀にぶつけました。
 
 今まで閉まっていた思いを声という形にしたことで、なんだかスッキリとした気がします。
 
 琥珀は、と言うと、翡翠の告白に表情も体も動かさず、固まってしまいました。
 
 琥珀は今までとは比べ物にならないくらいまで目を見開いて、翡翠の方を見ています。
 
 それは、翡翠という人物を見ているのか。
 
 はたまた、驚きで固まってしまった視線がたまたま翡翠の方に向けられていたのか。
 
 真相は分かりません。
 
 ただ、現時点ではっきりしていることは、翡翠は勇気を振り絞って自身の思いを琥珀に伝えたこと。
 
 翡翠は琥珀の返事を待つだけのこと。
 
 琥珀は翡翠の思いに返事をしなければならないことです。
 
 翡翠は自分がしたことに恥ずかしさを覚えながらも、その感覚に押しつぶされないように自らを奮い立たせます。

「…」
 
 長い長い、永久に感じられるほどの沈黙が、2人を取り巻きました。
 
 耳が痛くなってきて、心臓も、どんどん鼓動を早くします。
 
 翡翠は胸が苦しくなって、もう逃げてしまおうか、なんて考えた時。

「…マジで?」
 
 琥珀の震えた声が、とうとう痛い程の静けさを破りました。

 それは、戸惑いを隠せず、驚きも纏った声色。

「うん、本気だよ」
 
 翡翠はさっきとは打って変わって小さな声ですが、ちゃんと答えます。
 
 すると、琥珀は徐々に頰から耳までを真っ赤に染めて、それだけでは足りなかったのか、口元を腕で隠しました。

「…すごく嬉しい」

「えっ?」
 
 琥珀のボソリとした呟きを聞いた翡翠は、思わず彼を2度見します。
 
 琥珀は胸に手を当てて深呼吸を2〜3回繰り返すと、いつもの、真面目な表情を少し解けさせた笑顔になりました。

 そして、真っ直ぐな瞳で翡翠を捉え、口を開きます。

「僕も、ずっと翡翠が好きだった」

「えっ、嘘…。本当に?」

「うん」
 
 琥珀の口から語られた驚きの事実に、今度は翡翠が赤面します。
 
 沸騰しているんじゃないかと思うぐらい緋色に染まった翡翠に、琥珀は「ふはっ」と安心したような、嬉しそうなような笑いを溢しました。
 
 そして、翡翠に手を差し伸べて、

「僕からも言わせて」

 甘い声で、諭すように翡翠に語りかけました、


「君が、翡翠が好きだった。綺麗な容姿も、優しい性格も、照れているところも。だから、」
 
 まるで王子様のように、翡翠の前で膝まずきます。

「僕と付き合ってください」
 
 琥珀からも、愛の言葉が紡ぎ出されました。

 目の前で起きていることが夢のようで、翡翠は一瞬世界を疑います。

 自分が見ている光景は、果たして現実なのか。

 でも、そっと掴んだ琥珀の手は暖かく、安心する温もりが翡翠の体に伝わってきました。

 それで、この出来事が現実だと知ります。
 
 翡翠は目にうっすらと涙を浮かべながら、それでも満面の笑みで琥珀の手を握りました、


「…はいっ」
 
 お互いに、幸せの花が咲き乱れた瞬間でした。
 
 まるで、結婚を誓い合った王子様のお姫様。 
 
 そんな2人の周囲を、向日葵の花びらを運んだ風が包み込みました。

 その風はやがて鳥居をくぐり、神社の本堂の中へと入って行きました。
 
 まるで、中にいる神様に、外での出来事を伝えるかのように。