がむしゃらに猛ダッシュをして、琥珀の家から随分と離れた場所で、翡翠は足を止めました。

 ブロック塀に手をついて、上がった息を抑えます。

「はぁ…はぁ…びっくりした…」
 
 胸に手を当てて肩で息をする翡翠をよそに、ルナは「ははっ」と優雅に浮かびながら笑っていました。

「だめだよ、翡翠。いきなり逃げたりなんかしちゃ」

 それは元はと言えばルナのせいじゃないか、と罵倒したくなる思いはなんとか飲み込みます。

 しかし、怒りの感情だけは落ち着かないらしく、翡翠はキッとルナを、睨みました。

 翡翠の険しい表情に、ルナはヘラヘラとした笑いを消し、申し訳なさそうな笑顔を浮かべながら言いました。

「ごめんね、驚かせて」

 彼女が少しは反省してると分かったのか、翡翠はふぅーっと肩の力を抜いて「いいよ、別に」とルナを許します。

「それより、あれ、いったい何なの?」
 
 突然聞こえた、琥珀の声。

「何であんな声が?」

 耳から聞こえたのではなく、頭に直接語り掛けられるような声に翡翠は疑問を持っていました。

 翡翠の質問に、ルナはにっこりと愛らしく微笑んで答えます。

「あれはね、あなたにこっそり魔法をかけていたの」

「魔法?」

「そっ。他人の心の声が聞こえるという魔法をね」
 
 ぱちっとウィンクしたルナに、翡翠は文句を言う気も失せ、はぁー、と大きくため息混じりに二酸化炭素を吐きました。

 そういうことか、と翡翠は肩の力を抜きます。
 
 予想はついていたけど、やはり驚きです。
 
 他人の心の声…つまり、あれは本当に琥珀くんの心を声を聞いたのでしょうか?
 
 翡翠は頭に直接聞こえてきた琥珀の言葉を思い出します。

『もっと翡翠と話したかったのに…』
 
 あんな事を、本当に琥珀くんが思っているのでしょうか?

「聞こえた声って、本当に琥珀君が心で喋っていることなの?」

「もちろん。だってそういう魔法だもの」
 
 ルナはにっこりと笑ってから、ふっと表情を鋭くして、澄んだ青い瞳で翡翠を見つめました。

「これで分かったでしょう?あなたは変なんかじゃない。むしろ、魅力があるのよ」

「…」
 
 真っ直ぐと刺さるルナの視線を、翡翠も何と言わずに、ただ見つめ返しました。
 
 黙りこくっている翡翠に、ルナはさらに強く訴えます。

「あなたは、自分の見た目が変とかいう理由をつけて、現実から逃げているだけよ。自身も勇気も持てない自分自身に対して、何かと都合のいい口実を付けて、自ら行動することを諦めているだけ」
 
 今までにないルナのキツイ言い方と言葉に、翡翠は唇をグッと噛み締めて、胸のあたりを抑えます。

「だって…無理なものは無理だもん。きっと、私なんて誰にもの何とも思われていない、どうでもいい人間なんだよ」
 
 翡翠は自分自身に、ルナに言われた以上のキツイ言葉を浴びせます。
 
 本当はわかっていたのです。
 
 翡翠は、自分が弱いという事を。
 
 自らを知っていた翡翠に、ルナはそっと、今度は優しく囁きかけます。

「無理なものはないわ。ただ、勇気と本気の思いを持てばいいの。あなたなら、翡翠ならできるわ」
 
 初めてルナから名前を呼ばれた翡翠は、地面に落としていた視線を上げます。
 
 ルナはもう、怖い顔をしていませんでした。 
 
 むしろ、穏やかに微笑んでいます。

「こんな私でも、認めて貰えるかな?」

「ええ、大丈夫よ。あなたならできる」
 
 ルナの声は、これ以上ないくらい優しいもので、まるで、晴天の日に降るにわか雨のようでした。

「私ならできる」
 
 ルナの言葉を繰り返しながら、翡翠は立ち上がります。

 そして、曇りのない晴れ切った表情で、空を見上げました。

「なら、私、頑張るよ!」
 
 太陽に届くほど高らかと拳を突きつけた翡翠を見て、ルナは嬉しそうに笑いました。

「その意気でね」
 
 言った後、ルナは翡翠の背中にポンッと軽く触れました。
 
 ルナの手が当たった翡翠の背中の一部から、一瞬だけ無数の星が飛び散り、やがてその星がルナの手の中に吸い込まれていったのを、翡翠は気づきもしませんでした。