小鳥の囀りが聞こえてきます。朝を告げる音です。
 
 窓から差し込む柔らかな光に照らされて、翡翠は目を覚ましました。
 
 大きく伸びをして、布団から出ます。

「ああーっ、今日も夏だなぁ」

 そして、シャッとカーテンを開いて、朝日をたっぷりと浴びました。
 
 体温が上昇し、全身の細胞が働き始めたのが感じ取れます。
 
 1日の始まりです。
 
 着替えをぱぱっと済ませた後、階下に降りて行きました。
 
 1階では、母が朝食を作っています。翡翠が階段を降りて台所に顔を出すと、丁度母と目が合いました。

「おはよう」

「おはよう」
 
 この会話が、翡翠に朝を告げます。
 
 出来立ての朝食が並んだテーブルに座って、翡翠は手を合わせました。

「いただきます」
 
 箸を握るなや否、翡翠は素晴らしい早さで米を口にかき込みます。途中にはおかずの目玉焼きやベーコンを詰めて、口内調味料として味変を楽しみます。

「ごちそうさま」
 
 ものの15分後、翡翠の目の前の食器は、綺麗に空っぽになっていました。

 その様子を見た母が笑います。

「相変わらず、食べるのが早いわね。もっとゆっくりしなさい」

「だって美味しいんだもん」
 
 翡翠は食器を母に渡しながら、笑顔で返しました。

 歯磨きを手短に終わらせ、翡翠はまた、自室に戻ります。
 
 翡翠は朝日が差し込む窓に近づいて、鍵を開けます。2箇所ある窓のどちらも開きました。

 途端、ふぁさぁあっとした柔らかな風が、翡翠の部屋中を包み込みました。
 
 換気です。
 
 古い空気を返して、新たな空気を取り入れることで、この部屋にも新しい1日が訪れます。 
 
 たっぷり30分、夏の陽気な風を楽しんだ後、翡翠は窓を閉めました。
 
 ここまでが、彼女のルーティンです。
 
 やるべきことが終わった翡翠は、部屋の中心で仁王立ちします。

「よし、行こう」
 
 そう呟くと、タンスから靴下を出して履き、駆け足でまた階段を降りました。
 
 そして、

「ちょっと散歩してきまーす」
 
 靴を履いたところで、玄関から叫びます。

「いってらっしゃい」
 
 程なくして、母の優しい声が聞こえてきました。翡翠はにっこりと微笑むと、勢いよくドアを開けます。
 
 外は、既に直射日光のスポットライトが大量に降っていました。地面の黒いアスファルトは、普段よりも輝いて見えます。

 アルビノでありながら太陽の光を浴びられるというのも、翡翠の特殊なアルビノの体質の一つでした。

 アルビノの人間は、紫外線に弱く、浴びすぎると発癌に繋がります。そのため、素肌で太陽の元に出ることができません。

 なので、白髪に白眼でありながら日光を浴びることができる彼女を、両親は神様の贈り物と言っていました。

 神様なんて信じない翡翠も、これを聞いた時だけは神様に感謝です。
 
 暑さが漂う道路のステージでは、蝉達が思い思いに合唱を繰り広げていました。

 夏特有のBGMが、そこらじゅうに鳴り響いています。
 
 翡翠は太陽を細い目で見た後、てくてくと歩き出しました。翡翠の家は、山と街の狭間に建てられた住宅街にあります。
 
 規則的に並べられた家の間を通り抜ける道を、翡翠は軽い足取りで進みます。まっすぐ行って、右に曲がって、また右に曲がる。
 
 すると、住宅街の出口が現れました。
 
 家という垣根が途切れた道に出ると、目の前はすぐ畦道です。顔を少し上げて見据えると、遠くには緑が深い山がそびえ立ちます。
 
 田舎感が溢れる田んぼ道を、翡翠は躊躇いなく、むしろ嬉しそうに歩いて行きました。

 一直線の茶色い地面を、音を立てながら踏み込んでいきます。
 
 やがて、さっきは遠かった山に着き、てっぺんに繋がる階段を登り始めました。

 毎度のことですが、足場の悪い階段では、踏み外さないように細心の注意をします。
 
 ようやく最後の一段。
 
 顎に伝った汗を拭って、頂上の土をタンっと踏みました。ふーっと息を吐きながら顔を上げると、視界にはあの神社が映ります。

 そして、

「やっと来たわね」
 
 腕を組んで、仁王立ち(足は地面に付いていませんが)しているルナが、翡翠を待っていました。

「…」
 
 翡翠は無言のまま、ゆっくりとした足取りで前へ進んできます。

 何も言わない翡翠に、ルナは首を傾げました。

「どうしたの?」

「…いや、やっぱり現実なんだなって」
 
 翡翠は今だに信じられないといった目つきで、目の前に浮かぶ精霊を眺めました。
 
 そんな彼女からの視線が気に入らないのか、ルナは口をへの字に曲げました。

「嘘だと思った?」

「ちょっとは」

「安心しなさい。本物だから」
 
 ルナは誇らしげに胸を張ります。

「あなたの願いも、ちゃんと叶えるわよ」

「本当に!」

「もちろん。昨日も言ったでしょ」
 
 キラキラと輝く瞳で自分を見つめる翡翠を見て、ルナは満足げに微笑みました。

「さて、あなたの願いは恋愛成就ね」

「そう。同じクラスの琥珀くんと両思いになりたいの」
 
 頰を赤く染め、目の奥にハートを浮かべている翡翠は、恋する乙女そのものでした。
 
 そんな彼女をよそに、ルナは何やらぶつぶつと呟き、考えます。

「あなたは確か、自分の容姿が嫌いなのよね」

「そうだけど…。あんまりその話はしないで」
 
 嬉しそうな表情から一転、翡翠はプイと視線を逸らしました。その様子から、見た目に触れられるのはかなり嫌なようです。

「分かった」とルナは頷きます。
 
 そして、

「それじゃ、早速始めましょう」
 
 と言いました。

「やった!何をするの?」
 
 おもちゃを買って貰えると聞いた子供のようにはしゃぐ翡翠に、ルナは淡々と質問します。

「その、琥珀って男子の家は分かる?」

「分かるけど…?」

「その子の家に行きましょう」

「へっ?」
 
 ルナが突然言い出したことに、翡翠は驚きで言葉も出ません。
 
 固まる彼女に、ルナはもう一度、

「家を知っているんでしょう。私をそこへ案内してよ」
 
 はっきりと言い切ります。
 
 迷いのないルナの選択に、翡翠は戸惑いました。

「行ったところで、どうするの…?」

「いいから。それはついてからのお楽しみ」
 
 ルナは悪戯っぽく笑って、「さっ、連れてって」と翡翠を促しました。
 
 翡翠は困惑します。
 
 琥珀くんの家に行って、何をする気なのでしょう?
 
 しかし、妖精がそうはっきりというなら、何か考えがあるのかもしれません。
 
 迷いに迷った挙句、翡翠は心を決め、「分かった」と受け入れました。

「着いてきて」
 
 翡翠はくるっと踵を返して、神社に背を向けて歩き出しました。
 
 その後を、ルナも浮きながらついて行きます。