ブルームーンが空に浮かぶ夜、神社に行くと、願いを叶えてもらう代わりに、自分の何かを奪われる。
そんな、都市伝説めいた噂に惹かれて、今宵、神社に一人の少女がやって来ました。
生ぬるい空気が漂う真夏の夜に、僅かながら涼しい風がそよそよと吹いていました。空は雲ひとつなく、吸い込まれるほどの濃紺でした。また、瞬く星がはっきりと見えます。そして、黄色に煌めく無数の星達よりも、一段と輝く存在が、今日の夜空にはありました。
真っ青に光り輝く、ブルームーンです。
蒼く神秘的な煌めきを持つ、特別な満月。
今日は、そんなブルームーンが浮かぶ、とても美しい夜でした。
微かに虫たちが合唱している畦道に、一つの影が落ちていました。いや、実際には、ゆっくり動いています。
それは、少女の影でした。10代後半の、華奢で小柄な少女。取り巻くオーラは年相応ですが、その顔には少しばかり幼さが残っています。髪の色は、日本人にしては珍しい白銀で、瞳もお揃いの白です。
彼女はアルビノという体質を持っていました。生まれつきメラニンという色素が不足していて、肌の色や髪の色が白くなる、非常に珍しい体質です。
しかし、彼女は普通のアルビノとはまた違った体質でもありました。アルビノの人は普通、色素が薄いために視力がとても弱く、盲目になることもあります。
でも、翡翠の目は一般の人と同じように見えており、弱視でも失明でもありません。ただ単に色素が薄く、体のほとんどが白いのです。
そのため、一見、外国人に思えます。しかし、顔立ちは日本人そのものなので、とても不思議な雰囲気を持つ少女でした。
その少女の名は、翡翠と言いました。
月明かりを反射する髪を揺らしながら、翡翠は歩きます。手を胸の上に置いて、強ばった表情を浮かべながら。その姿は、まるで月の化身のよう。
ざっざっと小石が敷き詰められた道を、ゆっくりと、しかし力強く踏んでいきます。細長い畦道を渡って数分後、ようやく、長い長い道は終わりを遂げました。茶色い道は、そこまで深くない森の入り口で途切れ、その先は階段です。山の上へ続く階段、この先に、翡翠が行きたい場所があるのです。
翡翠はきゅっと口元を引き締めて、階段を一段ずつ登っていきました。暗くて足元が見えない上に、階段は凸凹していて、しっかりと踏まないと転げ落ちてしまいそうです。確実に、一段一段を踏みしめていった翡翠は、ようやく頂上に辿り着きました。
最後の一段を踏んだ途端、さぁっと、撫でるような心地いい風が通り過ぎました。その風たちに誘われるように、翡翠は顔を上げます。そして、色素の薄い瞳をいっぱいに開きました。
目の前には、なんとも立派な神社が聳え立っていました。暗がりでも朱色が映える鳥居。その奥に見える、太くて丈夫な木がどっしりと構えられた本堂。
こんな素敵な神社が、家の近くにあったなんて。
実を言うと、この神社に来たのは、今日が初めてです。なので、鳥居とも本堂とも初対面。驚きと感嘆で、翡翠は声が出ません。
しばらくぽーっと眺めていると、月明かりが翡翠を強く照らし始め、彼女を我に返らせました。はっと意識を戻した翡翠は、友達から聞いた噂を思い出し、慌てて鳥居を潜ります。もちろん、その時に一礼することも忘れなく。
翡翠は立派な本殿の前に来ると、お賽銭を投げて一礼二拍二礼を行います。そうした後、今度は何かをお供えすることはなく、指を組んで胸の前に持ってきました。
そして、丁度、仄かに蒼色を帯びた銀色の月明かりが鳥居を照らしたタイミングで、翡翠は目をぎゅっと瞑りました。
眉間に力を入れ、ありったけの思いを、言葉に込めて願います。
「どうか、琥珀くんと両思いになれますように」
脳裏に、ある男の子の姿が浮かびます。それは、同じクラスの男子。
スラッと細い体に、ストレートの黒髪。高身長で、どこにいても目立つ、存在感あるオーラを放っています。
普段は無表情で真面目な印象を受けるのに、時々見せる笑みが可愛らしい、そんな男子。
琥珀は、翡翠の好きな人でした。
高校に入ってから一目惚れし、更に彼の性格を知るうちに、もっと好きになってしまったのです。
今までは、ただ遠くから眺めていただけでした。でも、最近は年頃のせいか、見ているだけでは物足りなくなってきました。
話したい、一緒にいたい。
そんな願望が毎日のように強く膨らみ、どうしようもなく困っていた時に聞いたのが、この神社の噂です。
欲はあるのに、それを自分の力では達成できそうにない翡翠にはぴったりの話でした。
「お願いします。両思いにさせてください」
願いが聞き入れられるように、何度も繰り返します。
「両思いにしてください」
優しい風が、綿毛のようにふぁさっと翡翠の体を撫でました。
「両思いにしてください」
涼しいと感じられる風が、翡翠の横を通り過ぎて髪を掠めました。
「両思いにしてください」
すると、突然の突風が吹きました。一瞬だけ、台風が来たのかと錯覚するぐらいに強い風が。
「うわっ!」
唐突すぎる出来事に、翡翠は瞑っていた目をさらに強く閉じました。風が強すぎて、当たるだけで痛みを感じたからです。体感で言ったら、僅か数秒程。にも関わらず、体を指すような鋭さが、先ほどの風に感じました。
辺りが静まり返ってもなお、翡翠は体を硬直させたまま、瞳を閉じています。
一体、いつになったら開けて良いのでしょうか?
そう思った時でした。
「目を開けて」
どこからともなく、囁かれるような声が聞こえました。
「えっ?」
翡翠は視界が暗いまま、首を振ります。
「誰…?」
呟くように尋ねると、またしても声が返ってきます。
「もう、瞳を開いて」
その言葉を信じて、翡翠は閉じていた目をカッと開きました。
そして、見たのです。
目を開いて、一番初めに視界に入ったのが、宙に浮いている少女でした。
「はっ?」
翡翠は戸惑いを隠せません。驚いているのに、感情に反して声は出ませんでした。
なんでこの子、浮いていられるの?
ただ、目の前にいる子の、頭のてっぺんから爪先までを、何度も見回します。
純粋な真っ白いワンピースを纏った女の子。年は10歳になったかた、なっていないかの辺り。腰まで伸びた真っ黒い髪は、月明かりの反射で、さらに漆黒が際立ちます。
瞳は澄んだブルーでした。しかし、顔立ちは日本風ですし、何より肌の色が、いかにもベージュでした。色素が薄いが故に雪のように真っ白い翡翠とは、少し違います。
そして何より、少女は宙に浮いていました。地面から30cmは離れているであろう空間に、落ちもせずに足の裏を離していました。
一体、どんな原理で浮いているのでしょう?
翡翠にはさっぱり分からず、ただ驚きと、すごいと称賛する気持ちばかりが膨れ上がりました。
翡翠は少女をじっくりと眺めた後、彼女の瞳に焦点を合わせます。
そして、訊かずにはいられない質問をしました。
「貴方は一体、だれですか?」
そう尋ねると、少女は元々笑顔だった表情をさらににっこりとさせた後、くるっと一回転して、優雅にお辞儀しました。ワンピースの白いレースがふんわりと靡いて、ドレスのような華やかさを醸し出していました。
そして、もう一度顔を上げ、翡翠に向かって口を開きました。
「今晩は。私はブルームーンの妖精、ルナです」
「えっ…よ、妖精?」
「ええ、そうよ。あやかしとも言われたりするはね」
いや、別に呼び方の違いはどうだっていいんだけど。翡翠としては、目の前の少女が人間ではないと言ったことが信じられません。
もしかして、からかっているのでしょうか?
こんな夜に、都市伝説なんて本気で信じて来たから?
しかし、ルナが人間ならざるものならば、宙に受けることは納得がいきます。人間が宙に浮くことなど、どうやったって出来ないのですから。
ルナの言葉を受け入れるか否か悩んでいると、ルナはクスリと笑いました。
「まぁ、突然そう言われても困るかもね。でも、私は正真正銘の妖精だから」
ほら、とルナは右手のひらをパッと開きました。すると、その中から幾つもの小さな星が現れました。ポップコーンが弾けるように、何もない手からどんどん星達は生まれてきます。
「ええっ!」
翡翠は叫んでルナの手を覗き込みます。その間も、星はルナの手によって生み出され、ルナの手のひらの上で踊っていました。
そして、ルナがパンッと手のひらを握ると、星は跡形もなく消えてなくなりました。
「どう?」
ルナは得意げに翡翠を見下ろします。
「……すごい」
「これでわたしが妖精だって信じてもらえたわね?」
「うん。あっ、でも、ならなんでそんな妖精がわたしの元に?」
新たに生まれた疑問を、翡翠はすかさずルナに投げかけました。
翡翠から溢れる質問に、ルナは呆れます。
「次から次へと…。まぁいいわ。答えてあげる」
ルナは人差し指を唇につけ、「それはね」と勿体ぶるような仕草を翡翠に見せました。
「貴方が呼び出したからよ」
「えっ、わ、私が…?」
「ええ。噂を聞いてやって来たんでしょう?」
「う、うん、そうだけど…。本当に願いを叶えてくれるの?」
正直、翡翠は不安でしかありません。
疑うように尋ねられたルナは、機嫌を損ねられたのか、少し顔をしかめました。が、次の瞬間には笑顔が戻り、自身の話を始めました。
「もちろん、叶えるわ。私はそのために生まれてきたもの」
「そうなの?」
「ええ、そうよ。月から生まれ、月と共に過ごし、月から人を見守る。それが私の使命」
「願いを叶えることは?」
「それはおまけ。でも、ちゃんと叶えるわ。噂の通りに、ね」
最後は翡翠に向かって、パチっとウィンクしました。
あどけない少女のようなのに、何処か大人びているように思えて、ミステリアスなルナ。
しかし、彼女の言葉は信用できそうです。
「さっ、貴方の願いは何?」
ルナは翡翠を右手で差しながら訊きました。
「何でもどうぞ」
月と同じ、真っ青な瞳で見つめられた翡翠は、一度目を閉じて深呼吸した後、何かを決意したように、カッと目力を込めました。
「私、琥珀くんと両思いになりたいんです!」
普段なら、恥ずかしすぎて声にも出さない言葉。なのに今回は、スラスラと喉から声が出て来てくれました。
ちゃんと間違えずに願いを言えたことに、翡翠はそっと胸を撫で下ろします。
「ふーん、成程…。恋愛成就ね」
かくいうルナは、翡翠の願いを聞いて興味深そうに目を細めました。そして、何度か頷いた後、唐突に口を開きました。
「なんで、その願いを、こんな都市伝説に叶えてもらおうとするの?」
「えっ?」
突然の質問に、翡翠は戸惑います。
「なんで…って」
まさか、そんなことが聞かれるなんて。
「えっと…、自分だけの力じゃ、無理だって思ったから」
「なんで?」
「だって、見た目がおかしいじゃない」
自嘲するように、翡翠は悲しい笑みを浮かべました。
「周りの人と、見た目が全然違う。そんな病気なんだから」
「病気?」
「そう、だって病気みたいでしょ?」
「うーん……」
ルナは顎に手を当て、翡翠を眺めます。しかし、彼女が思うのは美しい、または綺麗、という言葉ばかり。翡翠が嫌がっている理由が分かりません。
「そんなに変かしら……?」
「うん、そうだよ。きっと、みんなに変だって思われてるもん」
「それはないと思うけど?」
「そんなことないよ。私はおかしい。こんな自分は嫌い」
「うーん…」
ルナはもう一度翡翠を見ました。爪先から頭のてっぺんまで。何度も何度も、視線を上下させて、翡翠という少女を知ろうとしました。でも、やっぱり彼女が嫌がる意味は分かりません。
ルナは感想を素直に述べてみることにしました。
「見た目は変って、とっても綺麗じゃない。白銀の髪の毛とか、透き通るような白い瞳とか…」
「私はそれが嫌なの」
ルナの言葉を遮って、翡翠はピシャリと言い返しました。あまりの声の鋭さに、ルナは一瞬、気圧されます。
「そう、そうなのね…」
ルナは分かった、と言うように、静かに微笑みを讃えました。目を瞑って、腕を組んだまま、何やら考え始めます。そして、数秒間下を向いていた後、視線を戻して、翡翠を見ます。
「つまり、自分の見た目が嫌いだから、恋が実らないと思う。その恋を叶えてほしいというわけね」
「はい、そうです」
「分かったわ」
ルナは、誰が見てもわかる程、力強く頷きました。その、頼もしいルナの姿に、翡翠は少し安心感を覚えました。
ほっと息を吐き出し、朗らかな笑顔になった翡翠に、ルナは告げます。
「じゃ、願いを叶えてあげるから、明日また、ここに来て」
「えっ、今日じゃないの?」
期待していた言葉とは違うことに、翡翠は驚きと落胆を抱えました。
「今すぐには無理だわ。それに、貴方のことももう少し詳しく聞きたいし」
「じ、しゃあ代償は?払わなくていいの?」
「払わなくていいわけではないけど…。それは後払いなの。だから大丈夫。さっ、帰って。また明日ね」
不思議な見送りをされた翡翠は、戸惑いながらも神社を背後にして歩き出しました。
本当にこんなんで大丈夫なのかな?
数歩進んだところで、また、とても強い風が吹き通りました。翡翠は思わず髪を押さえます。
そして、風が去った後。
翡翠はなんだかさっきと違う雰囲気を感じ取り、ふっと振り返りました。
視界に、神社が大きく映ります。神社には、ただ、しめ縄が揺れているだけでした。
さっきまでいたはずのルナが、どこにも見当たりません。まるで、消えてしまったかのように。
「なんだったんだろう……?」
翡翠は夢見心地のような気分で、神社の階段を降りていきました。
そんな、都市伝説めいた噂に惹かれて、今宵、神社に一人の少女がやって来ました。
生ぬるい空気が漂う真夏の夜に、僅かながら涼しい風がそよそよと吹いていました。空は雲ひとつなく、吸い込まれるほどの濃紺でした。また、瞬く星がはっきりと見えます。そして、黄色に煌めく無数の星達よりも、一段と輝く存在が、今日の夜空にはありました。
真っ青に光り輝く、ブルームーンです。
蒼く神秘的な煌めきを持つ、特別な満月。
今日は、そんなブルームーンが浮かぶ、とても美しい夜でした。
微かに虫たちが合唱している畦道に、一つの影が落ちていました。いや、実際には、ゆっくり動いています。
それは、少女の影でした。10代後半の、華奢で小柄な少女。取り巻くオーラは年相応ですが、その顔には少しばかり幼さが残っています。髪の色は、日本人にしては珍しい白銀で、瞳もお揃いの白です。
彼女はアルビノという体質を持っていました。生まれつきメラニンという色素が不足していて、肌の色や髪の色が白くなる、非常に珍しい体質です。
しかし、彼女は普通のアルビノとはまた違った体質でもありました。アルビノの人は普通、色素が薄いために視力がとても弱く、盲目になることもあります。
でも、翡翠の目は一般の人と同じように見えており、弱視でも失明でもありません。ただ単に色素が薄く、体のほとんどが白いのです。
そのため、一見、外国人に思えます。しかし、顔立ちは日本人そのものなので、とても不思議な雰囲気を持つ少女でした。
その少女の名は、翡翠と言いました。
月明かりを反射する髪を揺らしながら、翡翠は歩きます。手を胸の上に置いて、強ばった表情を浮かべながら。その姿は、まるで月の化身のよう。
ざっざっと小石が敷き詰められた道を、ゆっくりと、しかし力強く踏んでいきます。細長い畦道を渡って数分後、ようやく、長い長い道は終わりを遂げました。茶色い道は、そこまで深くない森の入り口で途切れ、その先は階段です。山の上へ続く階段、この先に、翡翠が行きたい場所があるのです。
翡翠はきゅっと口元を引き締めて、階段を一段ずつ登っていきました。暗くて足元が見えない上に、階段は凸凹していて、しっかりと踏まないと転げ落ちてしまいそうです。確実に、一段一段を踏みしめていった翡翠は、ようやく頂上に辿り着きました。
最後の一段を踏んだ途端、さぁっと、撫でるような心地いい風が通り過ぎました。その風たちに誘われるように、翡翠は顔を上げます。そして、色素の薄い瞳をいっぱいに開きました。
目の前には、なんとも立派な神社が聳え立っていました。暗がりでも朱色が映える鳥居。その奥に見える、太くて丈夫な木がどっしりと構えられた本堂。
こんな素敵な神社が、家の近くにあったなんて。
実を言うと、この神社に来たのは、今日が初めてです。なので、鳥居とも本堂とも初対面。驚きと感嘆で、翡翠は声が出ません。
しばらくぽーっと眺めていると、月明かりが翡翠を強く照らし始め、彼女を我に返らせました。はっと意識を戻した翡翠は、友達から聞いた噂を思い出し、慌てて鳥居を潜ります。もちろん、その時に一礼することも忘れなく。
翡翠は立派な本殿の前に来ると、お賽銭を投げて一礼二拍二礼を行います。そうした後、今度は何かをお供えすることはなく、指を組んで胸の前に持ってきました。
そして、丁度、仄かに蒼色を帯びた銀色の月明かりが鳥居を照らしたタイミングで、翡翠は目をぎゅっと瞑りました。
眉間に力を入れ、ありったけの思いを、言葉に込めて願います。
「どうか、琥珀くんと両思いになれますように」
脳裏に、ある男の子の姿が浮かびます。それは、同じクラスの男子。
スラッと細い体に、ストレートの黒髪。高身長で、どこにいても目立つ、存在感あるオーラを放っています。
普段は無表情で真面目な印象を受けるのに、時々見せる笑みが可愛らしい、そんな男子。
琥珀は、翡翠の好きな人でした。
高校に入ってから一目惚れし、更に彼の性格を知るうちに、もっと好きになってしまったのです。
今までは、ただ遠くから眺めていただけでした。でも、最近は年頃のせいか、見ているだけでは物足りなくなってきました。
話したい、一緒にいたい。
そんな願望が毎日のように強く膨らみ、どうしようもなく困っていた時に聞いたのが、この神社の噂です。
欲はあるのに、それを自分の力では達成できそうにない翡翠にはぴったりの話でした。
「お願いします。両思いにさせてください」
願いが聞き入れられるように、何度も繰り返します。
「両思いにしてください」
優しい風が、綿毛のようにふぁさっと翡翠の体を撫でました。
「両思いにしてください」
涼しいと感じられる風が、翡翠の横を通り過ぎて髪を掠めました。
「両思いにしてください」
すると、突然の突風が吹きました。一瞬だけ、台風が来たのかと錯覚するぐらいに強い風が。
「うわっ!」
唐突すぎる出来事に、翡翠は瞑っていた目をさらに強く閉じました。風が強すぎて、当たるだけで痛みを感じたからです。体感で言ったら、僅か数秒程。にも関わらず、体を指すような鋭さが、先ほどの風に感じました。
辺りが静まり返ってもなお、翡翠は体を硬直させたまま、瞳を閉じています。
一体、いつになったら開けて良いのでしょうか?
そう思った時でした。
「目を開けて」
どこからともなく、囁かれるような声が聞こえました。
「えっ?」
翡翠は視界が暗いまま、首を振ります。
「誰…?」
呟くように尋ねると、またしても声が返ってきます。
「もう、瞳を開いて」
その言葉を信じて、翡翠は閉じていた目をカッと開きました。
そして、見たのです。
目を開いて、一番初めに視界に入ったのが、宙に浮いている少女でした。
「はっ?」
翡翠は戸惑いを隠せません。驚いているのに、感情に反して声は出ませんでした。
なんでこの子、浮いていられるの?
ただ、目の前にいる子の、頭のてっぺんから爪先までを、何度も見回します。
純粋な真っ白いワンピースを纏った女の子。年は10歳になったかた、なっていないかの辺り。腰まで伸びた真っ黒い髪は、月明かりの反射で、さらに漆黒が際立ちます。
瞳は澄んだブルーでした。しかし、顔立ちは日本風ですし、何より肌の色が、いかにもベージュでした。色素が薄いが故に雪のように真っ白い翡翠とは、少し違います。
そして何より、少女は宙に浮いていました。地面から30cmは離れているであろう空間に、落ちもせずに足の裏を離していました。
一体、どんな原理で浮いているのでしょう?
翡翠にはさっぱり分からず、ただ驚きと、すごいと称賛する気持ちばかりが膨れ上がりました。
翡翠は少女をじっくりと眺めた後、彼女の瞳に焦点を合わせます。
そして、訊かずにはいられない質問をしました。
「貴方は一体、だれですか?」
そう尋ねると、少女は元々笑顔だった表情をさらににっこりとさせた後、くるっと一回転して、優雅にお辞儀しました。ワンピースの白いレースがふんわりと靡いて、ドレスのような華やかさを醸し出していました。
そして、もう一度顔を上げ、翡翠に向かって口を開きました。
「今晩は。私はブルームーンの妖精、ルナです」
「えっ…よ、妖精?」
「ええ、そうよ。あやかしとも言われたりするはね」
いや、別に呼び方の違いはどうだっていいんだけど。翡翠としては、目の前の少女が人間ではないと言ったことが信じられません。
もしかして、からかっているのでしょうか?
こんな夜に、都市伝説なんて本気で信じて来たから?
しかし、ルナが人間ならざるものならば、宙に受けることは納得がいきます。人間が宙に浮くことなど、どうやったって出来ないのですから。
ルナの言葉を受け入れるか否か悩んでいると、ルナはクスリと笑いました。
「まぁ、突然そう言われても困るかもね。でも、私は正真正銘の妖精だから」
ほら、とルナは右手のひらをパッと開きました。すると、その中から幾つもの小さな星が現れました。ポップコーンが弾けるように、何もない手からどんどん星達は生まれてきます。
「ええっ!」
翡翠は叫んでルナの手を覗き込みます。その間も、星はルナの手によって生み出され、ルナの手のひらの上で踊っていました。
そして、ルナがパンッと手のひらを握ると、星は跡形もなく消えてなくなりました。
「どう?」
ルナは得意げに翡翠を見下ろします。
「……すごい」
「これでわたしが妖精だって信じてもらえたわね?」
「うん。あっ、でも、ならなんでそんな妖精がわたしの元に?」
新たに生まれた疑問を、翡翠はすかさずルナに投げかけました。
翡翠から溢れる質問に、ルナは呆れます。
「次から次へと…。まぁいいわ。答えてあげる」
ルナは人差し指を唇につけ、「それはね」と勿体ぶるような仕草を翡翠に見せました。
「貴方が呼び出したからよ」
「えっ、わ、私が…?」
「ええ。噂を聞いてやって来たんでしょう?」
「う、うん、そうだけど…。本当に願いを叶えてくれるの?」
正直、翡翠は不安でしかありません。
疑うように尋ねられたルナは、機嫌を損ねられたのか、少し顔をしかめました。が、次の瞬間には笑顔が戻り、自身の話を始めました。
「もちろん、叶えるわ。私はそのために生まれてきたもの」
「そうなの?」
「ええ、そうよ。月から生まれ、月と共に過ごし、月から人を見守る。それが私の使命」
「願いを叶えることは?」
「それはおまけ。でも、ちゃんと叶えるわ。噂の通りに、ね」
最後は翡翠に向かって、パチっとウィンクしました。
あどけない少女のようなのに、何処か大人びているように思えて、ミステリアスなルナ。
しかし、彼女の言葉は信用できそうです。
「さっ、貴方の願いは何?」
ルナは翡翠を右手で差しながら訊きました。
「何でもどうぞ」
月と同じ、真っ青な瞳で見つめられた翡翠は、一度目を閉じて深呼吸した後、何かを決意したように、カッと目力を込めました。
「私、琥珀くんと両思いになりたいんです!」
普段なら、恥ずかしすぎて声にも出さない言葉。なのに今回は、スラスラと喉から声が出て来てくれました。
ちゃんと間違えずに願いを言えたことに、翡翠はそっと胸を撫で下ろします。
「ふーん、成程…。恋愛成就ね」
かくいうルナは、翡翠の願いを聞いて興味深そうに目を細めました。そして、何度か頷いた後、唐突に口を開きました。
「なんで、その願いを、こんな都市伝説に叶えてもらおうとするの?」
「えっ?」
突然の質問に、翡翠は戸惑います。
「なんで…って」
まさか、そんなことが聞かれるなんて。
「えっと…、自分だけの力じゃ、無理だって思ったから」
「なんで?」
「だって、見た目がおかしいじゃない」
自嘲するように、翡翠は悲しい笑みを浮かべました。
「周りの人と、見た目が全然違う。そんな病気なんだから」
「病気?」
「そう、だって病気みたいでしょ?」
「うーん……」
ルナは顎に手を当て、翡翠を眺めます。しかし、彼女が思うのは美しい、または綺麗、という言葉ばかり。翡翠が嫌がっている理由が分かりません。
「そんなに変かしら……?」
「うん、そうだよ。きっと、みんなに変だって思われてるもん」
「それはないと思うけど?」
「そんなことないよ。私はおかしい。こんな自分は嫌い」
「うーん…」
ルナはもう一度翡翠を見ました。爪先から頭のてっぺんまで。何度も何度も、視線を上下させて、翡翠という少女を知ろうとしました。でも、やっぱり彼女が嫌がる意味は分かりません。
ルナは感想を素直に述べてみることにしました。
「見た目は変って、とっても綺麗じゃない。白銀の髪の毛とか、透き通るような白い瞳とか…」
「私はそれが嫌なの」
ルナの言葉を遮って、翡翠はピシャリと言い返しました。あまりの声の鋭さに、ルナは一瞬、気圧されます。
「そう、そうなのね…」
ルナは分かった、と言うように、静かに微笑みを讃えました。目を瞑って、腕を組んだまま、何やら考え始めます。そして、数秒間下を向いていた後、視線を戻して、翡翠を見ます。
「つまり、自分の見た目が嫌いだから、恋が実らないと思う。その恋を叶えてほしいというわけね」
「はい、そうです」
「分かったわ」
ルナは、誰が見てもわかる程、力強く頷きました。その、頼もしいルナの姿に、翡翠は少し安心感を覚えました。
ほっと息を吐き出し、朗らかな笑顔になった翡翠に、ルナは告げます。
「じゃ、願いを叶えてあげるから、明日また、ここに来て」
「えっ、今日じゃないの?」
期待していた言葉とは違うことに、翡翠は驚きと落胆を抱えました。
「今すぐには無理だわ。それに、貴方のことももう少し詳しく聞きたいし」
「じ、しゃあ代償は?払わなくていいの?」
「払わなくていいわけではないけど…。それは後払いなの。だから大丈夫。さっ、帰って。また明日ね」
不思議な見送りをされた翡翠は、戸惑いながらも神社を背後にして歩き出しました。
本当にこんなんで大丈夫なのかな?
数歩進んだところで、また、とても強い風が吹き通りました。翡翠は思わず髪を押さえます。
そして、風が去った後。
翡翠はなんだかさっきと違う雰囲気を感じ取り、ふっと振り返りました。
視界に、神社が大きく映ります。神社には、ただ、しめ縄が揺れているだけでした。
さっきまでいたはずのルナが、どこにも見当たりません。まるで、消えてしまったかのように。
「なんだったんだろう……?」
翡翠は夢見心地のような気分で、神社の階段を降りていきました。