その夜、私は絶望していた。
薄暗い自室の隅で、世界の全てに置き去りにされた気持ちになっていた。
私以外の人間全員が、私が寝ている間に、五倍速くらいの早送りで進んでいく。私が存在したことなんか、すっかり忘れて未来に向かって歩んでいく。そんな映像が、頭の中に流れ込んできて離れない。
真夜中の黒い波のように襲ってくる孤独に、一気にのみ込まれそうになった。
拭っても拭っても涙があふれ出るから、何とか泣き声だけは布団で吸音する。
「ううっ……ふっ……」
部屋を真っ暗にしながら、どのくらい時間が経ったか分からない。
涙が枯れた頃、私はベッドに顔をうずめながら、枕の下に隠れていたスマホに手を伸ばす。
布団を頭までかぶって動画サイトを開くと、一気に視界が明るくなった。
「誰か……」
ブルーライトの光に目を細めながら、かすれた声で、力なく助けを呼んだ。
――この四角い画面の中に、絶望から一時的に解放してくれる誰かがいてほしい。
そんな思いで、私はいつも視聴しているゲーム実況者、〝師走〟のチャンネルを開く。
今日も変わらず、ゲームをしながら雑談をしているだけの、ただの日常的なライブ配信が始まっていた。
銃を構えて建物に潜入する映像のみ流れており、顔は映されておらず、ときおり男性の気だるげな声だけが聞こえる。
今日はほかの男性実況者と二人で配信しているようだ。師走のぼそぼそとした声に、ただ耳をすませる。
会話の流れで、師走は学校に友達がひとりもいない、という話題になり、勝手に親近感を抱く。
私と同じだ、と少しだけ笑みがこぼれ、ふっと吐息が漏れたところで、コラボ相手が師走に問いかけた。
『孤高の師走さん、悩めるぼっちな視聴者さんたちに何か一言ある?』
『生きづらくても一緒に頑張ろ』
『あはは、棒読みだしテキトー』
友達のいない視聴者に対する師走の回答は、全然心のこもってない、本当にテキトーなアドバイスだった。
だから、全く泣くような場面でもなかったし、師走も感動的なことを言おうなんて絶対思っていなかったはず。
それなのに、そのときの私には、そのテキトーな言葉がとんでもなく刺さってしまった。
「生きづらくても、一緒に……」
生きづらくても、みじめな気持ちになっても、私、生きていていいのかな。
止まっていたはずの涙が、訳も分からず再びあふれ出す。
そうだ。どんなに人と生きる時間がずれていっても、置き去りにされても、私は生きていかなければならない。
「うっ、うぅっ……」
顔も名前も知らない相手に、勝手に救われた夜。
私は、一週間ごとに季節が巡っていく世界を、意地でも生き抜こうと決めた。
出会いの日
それは、ずっと水の中にいるみたいに、半分意識のないまま生きていた俺にとって、まさに目の覚めるような出来事だった。
「鶴咲青花です。趣味は〝師走〟のゲーム実況を観ることです。年に四週間しか起きていられませんが、どうぞよろしくお願いします」
ぽかんとしている俺たち生徒を置き去りにして、深々と頭を下げるその女子は、胸あたりの長さの黒髪をさらりと下に垂らしている。
その一秒後、すっと顔を上げると、自分の自己紹介があまりにも言葉足らずだったことに気づいたのか、「あ、今ニュースでよく流れている『四季コールドスリープ』を受けているってことです」と、ピッと指先をそろえた右手を上げて、付け足した。
高校二年生の四月のこと。
クラス替えもないまま進学して間もない頃に、ずっと病気で休学していた生徒がやってくるということで、教室内は少しざわついていた。
かなり病弱と聞いていたので、青白くて大人しい子を皆想像していたようだけれど、いざ目の前に現れたのは、色白ではあるがいたって健康そうな、本当に普通のノリの女子だった。
しかし容姿は普通どころではなく、朝ドラの女優みたいなぱっちりとした目で、王道の美人顔をしている。
面食らったクラスメイトはしんと静まり返り、あまりにもしっかりと挨拶をした彼女が席に着くまでただ茫然と見送る。
三十代半ばの、俺と同じくらいぼうっとした坊主頭の男性教師が、何かのメモを見ながら鶴咲青花の情報に補足を加え始めた。
「えー、鶴咲は四季コールドスリープ……新しい治療法が見つかるその日まで、できるだけ凍眠し、悪い細胞の増殖を止め、延命するための処置を受けている。治療できるまで眠り続けるのではなく、時間の流れとのギャップを最小限にするために、春夏秋冬に一週間ずつだけ目を覚まして登校することになった。できるだけ授業のことで、フォローしてあげるように」
メモを棒読みした教師は、いろんなことを無責任に俺たち生徒に託して、朝のホームルームを終わらせようとしていた。
フォローしてあげるようにって、いったいどうやってすんだよ。
進学校であるこの学校で、授業を年に数週間しか受けられないだなんて、どうやったってフォローできる訳がない。
そんな生徒たちの心の声を無視して、教師は教室から出ていく。
鶴咲は、ざわつく声をスルーして窓際の席――俺の左隣の席に着くと、早々にバッグからスマホを取ってワイヤレスイヤホンを耳にはめた。
そんな彼女を見て、生徒同士がひそひそと話す声が、微かに聞こえてくる。
「年に四週間しか目を覚まさないって、どんな感じなんだろ……?」
「誰か話しかけてみてほしいけど、隣はあの神代かあ……。話しかけなさそー」
「私、本物のコールドスリーパーに会ったの初めて」
皆、コールドスリープについて興味津々なようだが、じつは俺はずっと別なことでどぎまぎしていた。
『趣味は〝師走〟のゲーム実況を観ることです』
まさか俺のニッチなゲーム実況チャンネルを知ってるやつがいるだなんて、心臓が飛び出るほど驚いた。チャンネル登録者数十万人とはいえ、こんなに身近に視聴者が存在するとは。
しかも、今彼女が隣で観ている動画は、間違いなく俺のゲームの動画だ。知人のイラストレーターが好意で描いてくれたイラストのアイコンが、ちらっと見えたから分かる。
あのアイコンの絵と現実の俺とで一緒なのは、重苦しい長い前髪という特徴だけで、あとはかなり美化されている。
初めはこんなアイコンを使うことに対して恥ずかしさがあったが、せっかく描いてもらった手前、無下にする訳にもいかず、そうこうしているうちに登録者数が増えていったのだ。
顔出しは一切せず、手元だけ映しているので、周囲にバレることはまずない。
けれど、隣でまじまじと自分の動画を観られると、必要以上に緊張してしまう。
もし彼女に、その投稿者は俺だと言ったら、いったいどんな反応をするだろうか。
なんてバカなことを妄想しているうちに、ざわついていた生徒のほとんどは一限目の教室に移動し始めていた。
何人かが鶴咲に「移動だよ」と声をかけていたが、彼女はそれに気づくことなく、動画に夢中だ。
教えてあげるべきなのは、隣席である俺なのだろう。
しかし、朝から一言も声を発していなかったせいで、どのくらいのボリュームで人に話しかけたらいいのか喉が忘れている。
「一限、教室移動だけど」
恐る恐る話しかけてみるも、彼女はイヤホンをしているので気づかない。
自分の実況の声に掻き消されて気づいてもらえないだなんて、シュールすぎる。
無視して置いていこうとドアの前まで歩いたけれど、先ほど担任が無責任に言い放った〝できるだけフォローしてあげるように〟という言葉がぎりぎりで足を止めさせる。
「あれ! 皆いない⁉」
イヤホンを取った彼女が突然声を上げるので、俺は思わずビクッと肩を震わせてうしろを向いた。
バチッと鶴咲と目が合うと、彼女は「ごめん、次数学、教室移動なの?」と聞いてくるので、俺はこくんと頷く。無愛想な俺に臆することなく、彼女は慌てて教科書を手に持つと、ドアまで小走りでやってきた。
「ついていっていい?」
吸い込まれそうなほど大きな黒目で見つめられ、少し怯む。
女子とこうやって話したのなんて、いったいいつ以来だろうか。
入学してから無口を決め込んでいたせいで、当然のごとく誰からも話しかけられずに、二年生になった俺。
『何を考えているのか分からない』と親にも友人にも言われすぎたせいで、人と話すことが億劫になっていたのだ。
「この学校本当に広いねー。迷っちゃうよ」
「あの、鶴咲さん……。あと二分でチャイム鳴るけど」
俺は一緒に廊下を歩きながら、きょろきょろとあたりを見渡す彼女を少しだけ急かす。
「オッケー、走ろう! さん付けじゃなくていいよ。ねぇ君、名前は?」
数学の教室は走っても三分はかかる場所にある。
遅れることを覚悟して一緒に小走りをすると、走りながら名前を聞かれた。
長い髪が揺れるのを目の端で見ながら、ぼそっと答える。
「神代」
「下の名前は?」
「……禄」
「かみしろろく? 何それ! かっこいい名前。今度ハンドルネームで使ってみようかな」
煽ってる訳でもなく、無邪気に笑顔でそう言い放つ彼女が眩しくて、反応に困った。
何とか会話を持たせるために、今度は自分からも質問してみる。
「師走が好きって言ってたけど、ゲームよくやるの?」
「うん、せっかくの起きてる一週間も、ゲームばっかりやってるよ」
「それは……いいことなのか」
家族としては大切な一週間をゲームに費やされたら寂しいのではないだろうか。
そう思ったけれど、彼女は首を横に振ってサラッと返す。
「おばあちゃんも一緒に暮らしているんだけど、おばあちゃんは、私が好きなことに時間使ってほしいって」
「ふぅん」
「神代君はゲームやらないの?」
「いや、普通にやってる」
その質問に勝手にドキッとしながらもそう答えると、鶴咲は目を輝かせる。
「何やってるの? スマホゲーム? RPG? FPS? それともホラゲーとか?」
「FPS中心かな」
「そうなんだ! じゃあ、師走知ってるよね? 動画観たことある?」
そこまで素直に喜ばれると、どんな反応をしたらいいのか分からなくなってくる。
FPSとはいわゆるシューティングゲームで、本人視点で攻撃したり逃げたりするゲームのことだ。
いっそここで自分は師走だと伝えてみたら、彼女がどんな顔をするのか、見たくなってきた。
でも、クラスのやつにバラされたらだるいな……。
そう思うけれど、彼女は勝手に話を続ける。
「師走はね、実況の〝間〟がちょうどいいんだよね。ゲームの製作者側の意図も予想しきってるから、そこが面白い」
「へ、へぇ……、そうなんだ」
「師走がゲーム作ったりしたら、絶対面白いのできるだろうな」
「え」
もう授業には遅刻確定だけれど、俺の頭の中は彼女がふいに放った言葉でいっぱいになっていた。
なぜなら、本当に自分の将来の夢が、ゲームプログラマーだから。
じつは、師走とは別名義で、こつこつとゲームアプリを開発しているのだ。
自分の秘密を暴露されてしまう恐怖より、もっと鶴咲と腹を割って話したいという気持ちが勝ってしまった。
人と話してなさすぎたせいで、浮かれているのもあると思う。
だけど、俺は勇気を出して彼女に問いかけてみた。
「本当にそう思う?」
「え?」
「信じてもらえないかもだけど、じ、じつは俺、〝師走〟なんだよね……」
「え……?」
鶴咲の今までの反応を見ると、大声を出して喜ぶかと思ったけれど、彼女は痛いやつを見る目で眉根を寄せていた。
「それ、本当に……?」
「いや、えっと……」
「顔出しなしで全部が謎に包まれてる、最近登録者数が十万人になったばかりのあの師走?」
「登録者数までよく知ってるね……」
「ちょっと! 人差し指の付け根見せて!」
急にバッと手を掴まれたかと思うと、彼女はじぃっと俺の指を観察して、「本当だ……」と驚き震えた声でつぶやいた。
「ここにほくろがある! しかも、たしかに声も、似てる……」
「ほくろ? あ、本当だ」
「ちょっとYチューブのログイン画面見せて!」
彼女はまだ信じられないようで、俺に動画サイトのログイン画面を見せるようにせがんできた。
授業に遅れていることが気になったけれど、俺は言われた通り動画にログインする様子を見せた。
すると、鶴咲はわなわなと震えながら、俺のことを羨望のまなざしで見つめてくる。
「神じゃん……、神と出会ってしまった……」
「え……」
「起きててよかった……」
〝生きててよかった〟のノリでつぶやく彼女。
その台詞、笑っていいのかどうかも分からない。
俺は目を輝かせる彼女と見つめ合ったまま、遠くでチャイムが鳴るのを聞いていた。
ゲーム以外何もなかった俺の日常に、突然鶴咲青花が飛び込んできた瞬間だった。
目を覚まして
自分の心臓が、指定難病のひとつである病に冒されていることを知ったのは、ちょうど高校受験が終わった二月の終わり頃。
超放任主義の癖に勉強だけはちゃんとしろとうるさい歯科医師のお父さんのために、そこそこいい偏差値の学校に受かったはずだった。
ときおり自分の心臓が捻り潰されるような痛みがあり、だんだんとその感覚が迫ってきたので、受験が終わったあとにおばあちゃんに打ち明けて病院に連れていってもらったのだ。
最初はかかりつけの内科だったけれど、何度通っても一向に良くならず、大学病院へ回され、何度も検査してようやくそれが不治の病であることが分かった。
結果が分かった次の日に私は高校生になる予定だったけれど、無念にも入学式前に休学となったのだ。
病気を知ったおばあちゃんは何度も励ましてくれたけれど、深夜にいつも泣いているのを知っていた。お父さんはいつも通り冷静な反応で、でもやっぱり少し動揺していたようにも見える。母親は私が三歳のときに同じように病気で亡くなっているので、二人は二倍つらかったかもしれない。
私に残された選択は、このまま治療薬の開発を待ちながら生きるか、治療薬ができるまでコールドスリープするか、の二択だった。
「コールドスリープって……、たしか最長七十年間眠り続ける処置だよね。目を覚ましたときに、私の知り合い皆死んでるかもしれないんでしょ? 七十年後の世界にひとりで生きていくなんて、想像しただけで恐ろしいんだけど」
病院で説明を受けた日から、毎日毎日家族会議。
私の言い分に、おばあちゃんはつらそうな顔をし、お父さんは険しい表情を見せる。
「そんな世界で生きてたって、意味ないじゃん。私……、いきなり未来に飛ばされるようなもんじゃん!」
「青花。担当医は私も信頼を置いている方だ。進行を食い止めて治療法が見つかるのを待つことが最善だ」
「まだ実例だって少ないのに。お父さん、そのお医者さんに実績つくるの頼まれたんでしょう!」
「いい加減にしなさい!」
突然大きな声を出され、私はビクッと肩を震わせる。
白髪交じりの髪の毛をしっかりオールバックでまとめている、いかにもお医者様な雰囲気のお父さんがこうやってすごむと、一瞬にして緊張感が張り詰める。