ハッと目が覚めてがばっと起き上がる。額も背中も手のひらも、嫌な汗を掻いている。

……またスタートラインから一歩も走りだせない夢を見た。もうこれで四日目だ。刻一刻と目の前に夏の大会が迫ってくるのに、いいイメージトレーニングが出来ない。




『川崎さん。今度の川崎さんの試合さ、見に行っても良い?』

安藤はあの次の日、まるで消しゴム貸して、くらいの軽いノリで穂南にそう言った。他に安藤と遊びたそうな子なんて、クラスにいくらでも居るじゃないか。なんで穂南の試合なんだ。ちらちらとこちらの様子を窺っている女子たちの視線が煩い。

『嫌だよ。あんたみたいなチャラけた人が来るところじゃない。みんな真剣なんだ。遊びに来るような感覚で来て欲しくない』
『遊びなんかじゃない。ちゃんと真面目に応援するよ。なんか昨日から俺、ちょっと気分いいんだ。きっと穂南と話したからだと思う』

穂南に笑いかけるその顔は、何時ものチャラチャラした顔じゃなくて、なんていうか……、片足、どっかに着地した、みたいな顔だった。

(ずっと、みんなに言えなかったこと、言えたから……?)

穂南はチーム競技はやったことがないけど、野球のピッチャーともなれば責任重大だ。それを失敗して、悔いて、隠したまま後ろ向きに今までふらふら遊んでたのが、心の内を吐露したことで、心境が変わったとか、そういう事なんだろうか。

(……もしかして、ずっと、分かってもらえる誰かに聞いて欲しかったのかな……)

そうでなければ、あんなに嫌悪感滲ませていた穂南に言わないような気がする。穂南がゴールラインを走り抜けることしか考えてなかったから、安藤は打ち明け話をしたんじゃないだろうか。打ち明けて、慰めてもらいたいだけだったら、何時も周りにいる女子たちに話せばいいことだし。それに、『真面目に応援する』っていう気持ちも、もしかすると気持ちが晴れて前向きになったからなのかもしれない……。

『……来ても良いけど、絶対邪魔にならないで。私だけの大会じゃないんだから』
『サンキュ、穂南! 絶対邪魔しねーから!』

ニカッと笑った顔には、何処にも軽薄な色は見当たらなかった。




あの日から、スタートを切れない夢ばかり見る。その度にこうやって夜中に飛び起きて、じっとり滲んだ汗をぬぐう。今すぐ走りだせれば、こんな不安は吹き飛ぶはずなのに。スターティング・ブロックを蹴る感覚を忘れそうで怖い。あれに足を掛けた時に見る、ゴールラインの向こうは、以前と同じように明瞭に見えるのだろうか。

不安で潰れそうだ。

これが最後の夏だという事実が、お化けのように穂南にのしかかる。怖い。決勝……、いや、今までだって、決勝になんて進めなかった。こんな調子じゃ、地区予選だって勝ち抜けるかどうかなんて分からない。相手が数倍速かったら? それよりも、穂南の脚が、動かなかったら……?

『そういう時は、勝った時のことを考えるんだよ』

ふと、安藤の言葉を思い出す。安藤は勝って、表彰台の上から見る景色を思い浮かべろと言ったけど、陸上で『勝った』時に見る景色は、誰も居ないゴールラインのその向こうに、自分だけが居る世界だ。一瞬だけかもしれない。でもそれは、確かに、『一番』だけの瞬間(もの)なのだ。

(……行きたい。みんなを置いて、私が一番にゴールラインを駆け抜けた世界に……)

ふ……っ、と、肩のこわばりが取れる。足がスターティング・ブロックを蹴る感覚を、思い出せるかもしれない。

いつも不安ばかりだった。負けたくないから努力を重ねた。全ての努力が結果に結びつく世界じゃないけど、努力しなかったら勝てない。でも。

(それだけじゃない……。勝つ、って、自分で信じると、こんなにも視界が変わるんだ……)

勝つ想像に溺れちゃいけないけど、後ろ向きすぎも良くないんだ。安藤はあの時の打ち明け話で、それを穂南に教えてくれたんだ。

(次にスタートラインに立ったら、ゴールラインの向こうに駆け抜けた自分を想像できるのかな……)


それは、楽しみな気がした。