雨雲から雨粒が落ちて来るまでには、そう時間はかからなかった。大会前に体調を壊すような無理はしないという顧問の判断で、今日の部活は終了となった。あと十日経ったら地区大会が始まってしまうのに、雨による練習時間のロスは、穂南にとって大きかった。
(でも、体も軽いし、タータンを蹴る時の踏み込みも、前よりぐっと良くなってる気がする……)
春から取り組んできているフォームの改善が、此処へ来て成果を生み出していることが分かり、穂南は口元をほころばせた。その時。
「川崎さん」
呼ばれて振り向くと、丁度通り過ぎようとしていた昇降口に、安藤が居た。何故帰宅部の安藤がこんな時間に学校(ここ)に居るんだろう。どうせまた女子たちと遊んでいたに違いない。それより。
「……なに」
安藤は鞄を肩に引っ掛けた状態で昇降口の屋根の下に居り、空からは雨が降ってきている。安藤が穂南を呼び止めた理由がなんとなく分かって、穂南は渋面を作った。
「そんなに怖い顔しないでよ。駅まで入れてってくんないかな」
「一緒に居る女子はどうしたの。その子たちに入れてもらえばいいじゃない」
折角いい気分で歩いていたのに、一気に気持ちが苛立つのが分かった。この男と関わり合いたくない。そんな気持ちで言うと安藤は、「宿題写したのがバレて、居残りしてた」と正直に答えた。
なんだ、結局自業自得で居残りして、夕方から降水確率30%だった天気予報だったのに、傘を持っていないのも自業自得じゃないか。それなのにこの男は、周りを利用してのうのうと生きていこうとする。自分の脚で地面を蹴っている穂南とはやはり相容れない、と思った。
「駅まででいいんだよ、駅まで行ったらコンビニあるだろ。そこで傘買うから」
お願い! と手を合わせて頭まで下げられては、拒絶しにくい。この男はそんな処世術まで持っているのか。男子としての、面子はないのか。
「……今日だけだからね」
「サンキュ!」
仕方なく穂南が承諾すると、安藤はたたっと三段の階段を降りて穂南の傘に収まった。一緒の傘に収まると、意外と肩幅が大きいのだという事が分かる。穂南は傘を持ち直して、少し上に持ち上げた。
「川崎さん、やっぱり走るの速いねー。部内でダントツじゃない? うちの高校、そもそも陸上部強いみたいだけど、川崎さんは段チでレベルたけーよ。凄い」
見てたのか。あの時に帰っていたら、こんな風に傘を借りる必要もなかっただろうに。どうせ居残りの後、また無駄な時間を過ごしていたんだろう。容易に想像がつく安藤の行動に、内心呆れる。
「私は自分が欲しい結果の為に、努力してるだけよ。何もしてない安藤くんとは違う」
「ははっ。キツいこと言うね。じゃあ、努力してる川崎さんは、無敵なわけだ」
簡単に言うんだな。勝負の世界を、何にも知らずに飄々と歩いてきたに違いない。安藤なんかが、夏が特別であることを知っていると思ったのは間違いだった。
「努力したからって、みんなが無敵になれるわけじゃない。結果が怖いと思う経験は、誰でもするものでしょ」
いくら練習を積み重ねても、いくら部活で記録を上げても。付きまとう不安はいつも同じだ。特に今年は、今度の夏の大会が高校生活最後の競技会で、もう後がない。仲間と喋ったように、足が思うように動かなくて、スタート地点から全く走れない夢なんて、しょっちゅう見る。夏が近づくにつれて脚が動かなくなる夢が、実際に本当になったらどうしようという不安の風船は、限界まで膨らんでいた。夏が特別だと言った安藤に、このことが分かるだろうか。
虚勢を張って、前を見据えて応じた穂南をどう思ったのか、安藤が良いこと教えてやろうか、と明るい声で言った。
「そういう時は、勝った時のことを考えるんだよ。勝って、陸上だったらそうだなあ……、表彰台の一番上から見る景色を想像する。他の選手も、陸連のおっさんも見下ろすの。想像してみ? すっげー気持ち良くね? アドレナリン出るじゃん。そうすっと、めちゃくちゃ燃えんだよ」
安藤の声が、良く響く。案外、まともなことを言うんだな、という印象。
今までの安藤には感じない、打てば響く感触を、穂南は感じていた。
「あんたもそういう経験あるの? 誰よりもモテた時とか?」
穂南が問うと、安藤はアハハと笑った。
「ばっかだなあ。モテるモテないは千差万別じゃん? そんなのの一番になって、何が楽しいの」
「じゃあ、なにで燃えたの」
安藤のことは、同じクラスになってからのことしか知らないが、どんなことにも真面目に取り組んだ様子は見受けられなかった。だから、穂南が感心するようなアドバイスをして来たことが、意外だったのだ。穂南の問いに、安藤の笑顔が少し寂し気に陰る。
「……俺、中学んとき、野球やってたんだよな。ピッチャーだったの。……でも、大会前に肘壊してパァ。勿論けが人だから補欠にすら入れなくて、だから球場に応援にもいかなかった。……怖かったんだ。俺が居なくて勝つ試合も見たくなかったし、俺が居なくて負ける試合はもっと見たくなかった。結局高校も県外のこんなところに来た。俺はあんなに一緒に頑張って来た仲間からも逃げたんだよ。……サイテーでしょ。でもさ、みんなを全国まで連れて行きたかった気持ちはホントなんだよ……」
いつも明るくちゃらちゃらと笑っている安藤が笑顔を陰らせて、悔しそうに言う。怪我をしてから何度も見たという、自分が居なくて勝ち進んだチームの夢を、安藤は苦々しく語った。
「俺が居なかった方が、チームにとって良かったのかって、何度も思った。俺がみんなを全国に連れて行くなんてのは、独りよがりの思い上がりだったんじゃないかって、夜中に飛び起きるたびに何度も思った。……それを確認するのが怖くて、俺は今でも逃げてんの。だから、前見てる川崎さんにはそんな思いして欲しくない。前見て、勝つことだけ、考えてて欲しい」
どっしりと、胸の奥に響く言葉だった。安藤は、青春を掛けた試合の場に立つことすら出来なくて、それを今でも悔いている。
「ごめん……、聞かなきゃよかった……」
何と言っていいか分からなかった穂南は、そう言うしかなかった。しかし安藤は案外吹っ切れた様子で、穂南に対して笑った。
「逆に言えて良かった。ちょっと胸がすっとした。……だからって俺の分、背負わなくていいからな。俺の人生とあんたの人生は別々なんだから、別々に荷物背負う必要があんだよ」
自分の後悔は自分で背負うと、安藤はもう決めている。それだけでも凄く立派だ。穂南は最後のこの夏、表彰台に上れなくても、同じように思えるだろうか?
「……意外と真面目だったんだね」
「意外とね。根は、真面目なんだよ、俺」
アハハと安藤が笑う。
穂南は、笑えなかった……。