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座席が隣という事で、グループ学習の授業でも穂南は安藤と同じグループに分けられた。それは仕方のないことなのだが、如何せん、授業にやる気のない安藤がグループの足を引っ張るのは目に見えていて、そして実際そうだった。
意見の集約などは授業中に他の生徒のカバーもあってなんとかできたが、肝心の発表に使うパワーポイントの資料が問題だった。
そもそも安藤に詰めの作業を分担させるのも嫌だったが、作業はグループ全員で行わないと意味がないので仕方なかったのだけど、結果として、穂南がその尻拭いをしなければならない事実は、穂南を苛立たせることにしかなっていない。
「なんで来週発表なのに、パワポのデータ忘れてくるのよ」
「だからそれはゴメンって、授業の時も謝ったじゃん~」
「そうやってへらへらして何に対しても真剣みがないから、忘れ物もするのよ」
校内生徒へのアンケート調査なんていうデータ取りを安藤に任せられなかった為、アンケート結果から導き出された全校生徒の傾向とその考察について、グループのメンバーで話し合ったことを集約して発表用のパワーポイントの資料にすることを安藤に任せていた。しかし、今日の授業が一学期の最後に発表するための資料作りの時間だったのに、肝心のパワポのデータが入ったUSBを家に忘れてきたという。
「まあ、一度作ってるから、もう一度アウトプットすれば良いだけだよ」
「他の子が作った、それまでのフローチャートと並べて見なきゃ、良いかおかしいか、分からないじゃない。だから授業中に確認して、修正する時間が設けられてたのに」
パワポの資料がないと、来週の発表原稿も作れない。一応、資料の下書きはあるから、今日の授業ではそれを使って、途中まで原稿を作った。しかし、安藤が忘れてきた分の原稿は作れていない。
「良いから、早く手を動かして。私はそれ見ながら、発表原稿作るから」
穂南が今日の授業で作り上げた発表原稿を見直しながら言うと、安藤の、やってるじゃん~、と、とても反省しているとは思えない声が返ってきた。
「口は要らないから、手を動かして」
「動かしてるって。これ、大体のレイアウト。そんで……、ここにアンケートの大まかな分類、……と、とくに目立った意見。こっちに……、考察……は、今日の授業中に川崎さんがまとめてくれたデータをぶち込む」
パチパチと素早くキーを叩く安藤の様子を、ちょっと見守ってしまった。画面に出来ている資料は、決していい加減ではなく、とても見やすくアンケート結果がまとめられていた。そして、これまでの作業のフローチャートとも、おおよそ内容がマッチしている。フローチャートは今日、作ったばかりだから、それとの齟齬の無さは、今日の授業の内容が頭に入っていて、それを受けて、安藤が今、資料を作り直す際に修正を入れたことが凄く分かる。
「……あんた、馬鹿じゃなかったのね……」
少しあっけに取られていると、安藤は穂南を苛立たせる顔で、へらっと笑った。
「見直した?」
その言葉に、悔しくて言い返せない。何故、悔しいんだろう。努力してないと思った安藤が、やすやすと資料を作ってしまったことが、そんなに許せないのか。
「……、……なんでそれを簡単にできるのに、普段、あんなに忘れ物したり、赤点取ったりしてんのよ……」
安藤は、穂南の言葉をよそに、教室の窓の外を見た。窓の外では、夏前の最後の土砂降り、とでもいうような、梅雨末期の雨が叩きつけていた。
「もうそろそろ梅雨も終わり、って感じの降り方だなあ……。そうすっと、高校最後の夏かあ……。何しよっかなあ……。海も、プールも、毎年過ぎて飽きてきたしなあ……」
「人の言う事、聞いてた? 聞いてないなら、どうでもいいこと言ってないで、資料の続き作って」
ぴしり、と言い切る穂南を、安藤が覗き込むようにして窺ってきた。……そういう、チャラい行動、凄く頭にくる。
「どうでもよくないでしょ。高校最後の夏だよ? 川崎さんは大会に出るんでしょ? 陸上部だったよね」
知ってたのか。どうせ放課後に女子たちと残って遊んでいた時にグラウンドを見かけただけにすぎないだろう。こっちは真剣勝負でグラウンドに居るのに、その正反対さったらない。穂南たち三年生が、この夏にかける意気込みだって、理解していないに違いない。だから簡単に、大会に出るんでしょ、なんて言えるんだ。その大会が、穂南たちにとってどんなに大きな目標かも知らないで。こうやって、走れない時に、穂南がどんなに不安になるかも知らないで。
「陸上部なのはそうだけど、大会のことをあんたに話す必要はない」
「えー、でも、調子良さそうだったじゃん。一緒に走ってた子を二馬身引き離してゴールしてたりしてさ。あれ、一緒に走る子っていっつも一緒なわけじゃないでしょ? それなのに常にその子たちより速いって、すげーじゃん」
期末テスト前という事もあり、タータンで走れなくなって三日目。続く雨の鬱陶しさの所為で、穂南の中では既に『走っていない』という不安が生まれていた。その不安で膨らんだ風船を、針でつつかれたような気分になって、瞬間的に声を荒げてしまう。
「煩いな、安藤くんには関係ないでしょ」
「こっわぁ。……でも、そんくらい、夏の大会に本気だってことだよね」
「……っ!」
チャラけた言い方に、穂南の本心をむき出しにされて、一瞬虚を突かれた。はっとして安藤を見ると、安藤は意外にも真剣なまなざしで穂南を見ていた。穂南はその強い眼差しに臆して、不甲斐なく俯いた。……心の中に何時も巣くっていて、夏が近づくにつれて大きくなってきた、不安との闘いを見破られたような気持ちになったのだ。
「……そうだよ。大事な大会なんだ……。……それを前に……、……私だって、……、……不安がないわけじゃない……」
『鉄女』なんてあだ名、穂南の上っ面にしか当てはまらない。本当は陸上も勉強も、努力の上に成り立っている。努力が出来なければ、結果は出ない。天才じゃないんだから、休んだら栄光はいとも簡単に手のすき間からすり抜ける。
なんでこんな奴の前で、こんなに弱気になってるんだ。でも、どんどん膨らむ不安の風船は、いつ、安藤の針に突かれて破裂するか分からなかった。
「……走ってないと不安になるんだ……。何の努力もしたことないあんたには分からないと思うけど……」
思ってもみない程、弱々しい声が口から零れた。雨の所為だ。夏になって、ギンギンの日差しの下でただただ走っていれば、こんなこと考えなくて済むのに……。安藤の声が、雨のベールのように穂南の鼓膜にまとわりつく。
「どうしたんだよ、あんなに自信満々に見えたのに」
そんな風に見えるのは、やっぱり安藤が穂南の上っ面しか見ていないことのあかしだった。
「あんたはそうやって外側しか見ないからそう言うんだ……。あんたには私の気持ちなんて、一生わかんないよ……」
積み重ねた努力が一瞬で崩れ去るもろさを、穂南は知っている。こんな恐怖を安藤と共有できるはずがない。それなのに、安藤は、分かるよ、と静かに言った。
「……分かるよ。夏の大会は、特別だもんな。……それまでの事全部が、一瞬で弾けちまうみたいで、だからこそ、悔いは残したくないって思うよな」
静かな声だった。穂南の鼓膜に真っすぐに届く、これまでの安藤とは思えない程真剣な声。驚いて穂南が安藤をまじまじと見ていると安藤は、へへっ、と照れ笑いのようなものをして、教科書に視線を落とした。
「わー、川崎さんにつられて、つい真面目に語っちゃった。えーと、次の資料だよね……」
一瞬垣間見えた安藤の真剣な顔は、今まで教室で見てきた軽薄な笑いとは打って変わった、……どこか愁いを帯びた表情(かお)だった。その落差に、穂南は混乱する。
(なんで? なんで、夏が特別だって、分かるの……?)
春でも秋でもない。夏の大会こそが、穂南たちの目指すタータンだ。その気持ちを、安藤も知っているというのだろうか?
タタン、と、安藤がキーを弾く音がした。どう? と言われて見た画面には、今までの授業での準備内容から、ワークの方法、それに調査方法などが見やすく配置されていて、本当に悔しい。
「……じゃあ、私の今日の授業のデータを流し込んでおいて。終わったら、きちんとパソコンの電源落としておいてよね」
穂南はそれだけを言って、安藤を残して教室から出た。
でも、安藤から夏の話題が出たことが、どうしても頭に残ってしまった。