「11秒54! なかなかいい数字じゃないか」

顧問のストップウオッチに表示された数字を自分でも確認する。ここの所、穂南は100mの調子を上げていた。夏の大会で、いい成績を残せるような気がする。高校最後の大会だ。なんとしてでも表彰台に上がりたかった。

「自分でも、集中できているのが分かります。なんていうか……、スタートラインから見るゴールラインの向こう側が、凄く明瞭に見えてます」
「良いイメージトレーニングが出来てるのかもしれないな。雑念がないのはいいことだし、このままの調子でいけよ」
「はい!」

顧問の期待を背に、もう一度スターティング・ブロックの位置まで戻る。今は部内で順番に記録を取っていて、夏の大会前のこの時期、みんなが神経を集中させているのが分かった。この、ピリッとした緊張感の中に居るのが大好きだ。みんな走るのが好きで、そのことに集中している空気が自分にも染みわたり、それが良い好循環を生み出していると思う。トラックこそが、穂南が生きる場所であった。

さあ、と風が流れる。雨の、匂いがした。



ぱたぱたと降り始めた雨は、部活が終わる頃には本格的な雨となっていた。部活を終えた穂南たちがクラブハウスを出て校門へ向かおうと傘の花を開かせていると、丁度今頃帰るのか、安藤が女子たちに囲まれて傘を開いていた。

安藤は確か帰宅部だったはず。そういえば今日古文の授業で小テストの赤点の生徒を対象に補習を行うと先生が言っていたっけ。先生の言葉に安藤が嫌そうな声を出していたから、きっと対象者だったのだろう。そうすると、周りの女子たちは安藤の補習が終わるまで彼を待っていたのか。よくもまあ、そんなことに時間を割けるな、と穂南は思う。明らかに遊んでいる安藤と、安藤を囲みたい女子たちの気持ちが全く分からなくて、彼らが視界に入っただけでイラつくのが分かる。

(あんなルーズな奴が人気があるなんて、まったく理解できない)

存在だけで人を苛立たせる特技は、他の人にとって害にしかならない。席が隣になってしまったことで、安藤のいろんなことを知ってしまって、イライラする時間が増えたことに、穂南は嘆息した。