「……はあっ、……はあっ……」
西の空はとうに暮れ、ぱたぱたと落ちる汗も、夜の暗がりで見えない。どす黒い雲の底辺から落ちた幾つもの小さな雨粒が、タータンの上に灰色の染みを作っている。立ち上る夏特有の、夕立の予兆による湿気で息がしにくい。
もう何十本走っただろう。数えてなかったから分からなかったけど、兎に角沢山走った。走ることで頭の中が空っぽになっていくのが、本当に気持ちいい。息が詰まるほどの圧倒的な湿気の中、何も考えずに、ただ前だけを見る。それだけのことが、人間関係を編み始めると困難なのだと、今回よく分かった。
スターティング・ブロックに足を掛ける。
(On your mark)
手をラインについて。
(Set)
パン、という頭の中のピストルの音とかぶる音が、グラウンドの端からはっきり真っすぐに鼓膜に届いた。
「川崎さん! 雷なってるよ!」
スタートラインから飛び出した足が止まる。振り向くと傘を差した安藤が走ってこっちに来ていた。
「危ないよ。雷雨の時に、グラウンドに居た学生が雷に打たれて亡くなったの、知ってるでしょ?」
安藤は汗でじっとり濡れた穂南の腕を引いて、自分の傘の中に穂南を入れようとする。熱せられたタータンの上に落ちた雨粒から立ち上るむわっとした空気の中に、穂南は安藤の汗の、においを見つけた。
それが。
一瞬で穂南の五感全てを奪い去る。安藤しか見えなくて、安藤しか感じられない。
「……っ!」
嫌だ。自分は走ってだけ、居たい。他に何も考えたくない。
(負けたの、あの子に)
嫌だ! 負けることなんて考えたくない!
(安藤くんが、居るから)
関係ない! 安藤のことなんて、考えたくない!
(励まして、くれて)
違う! フォームが良くなったからだ!
(はげまして……)
ちがう!!
「離して!」
パシン! と乾いた音が狭い空間に響く。穂南は咄嗟に安藤の手を払っていた。安藤が驚いた顔で穂南を見ていた。
「……穂南……?」
「あんたがこんなことするから、私が誤解されたじゃない!」
「誤解って?」
まるで分っていない様子の安藤に苛立つ。そもそも、安藤のへらへらした態度には常々苛立ちを感じていたのだ。心の中に合ったわだかまりが一気に沸騰する。気が付いたら、叫んでいた。
「あんなこと言われたのも、こんなにイライラするのもあんたの所為だ!! なんにも頑張ってないくせに、飄々と歩いてくの見ると、腹が立つ!!」
血が、沸騰している。ぐつぐつと、体の中で泡立っている。すごく、嫌な感覚。全部全部、安藤の所為だ。
(嘘だ……。八つ当たりだ、こんなの)
頭の隅に居た僅かな理性が、かろうじてその場に足を縫い付けていた。安藤は暗がりの中、真っすぐに穂南の顔を見て、はっきりと言った。
「どーしたんだよ。まっすぐ前見てんのがあんたの良い所だっただろ。余分なこと考えんな。あんたが今、生きてんのは、ゴールで一番になる為だ」
はっきりと。言い切る安藤が正しいと思う。大きな雷鳴の中、耳の奥に響くように届いたその言葉は、穂南の波立った心を鎮めた。大会まであと十日。何も考えない。ただ、ゴールラインを走り抜けることだけを考える。
(そうだ。考えるのは、それからでいい)
もやもやイライラしていた気持ちが、すっと浄化される。大きく息を吸って、はあっ、と吐いた。
「……そうだね。今は、大会のことだけ考える」
穂南の言葉に、安藤は頷いてくれた。