呼ばれてクラブハウスを出ると、グラウンドには制服姿のクラスメイトが居た。確か安藤を取り囲んでいた女子のうちの一人だ。いかにも敵意剥きだしで、なんで穂南にそんな用事があるんだろうと思う。

「なに、話って」
「単刀直入に言うわ。夏樹くんに構わないで」

はあ? 言ってることの、意味が分からない。

「構う構わないのレベルじゃないでしょ。隣の席ってだけで、何もしてないじゃん」
「だって、夏樹くん、気になる子がいるって言うんだもん……!!」

声を荒げた女子に対して、穂南は一瞬、言葉を発することが出来なかった。

「あんたなんて、どうせ夏樹くんのいいとこ、全然知らないんでしょ!? だったら、夏樹くんに構うの止めてよ!」

しかし、自分を責められて、はいそうですね、と言える程、穂南は大人じゃなかった。

「構ってなんかない! 何時も休みの時間になるたびにあんたたちが隣の席囲んでて、邪魔だと思ってるくらいだわ! 安藤くんも、あんたたちも、私の邪魔しかしないじゃない!」

叫んだ瞬間に、パン! と頬が鳴って、彼女に叩(はた)かれたのだと知った。

「夏樹くんのこと、そんな風に言うなんて、サイッテー! 夏樹くんのこと何にも知らないくせに、表面(おもてづら)だけ見て人をジャッジするなんて、最ッ低! 金輪際、夏樹くんに係わんな!」
「係わりたくもないわ!」

穂南が吐き捨てるように言うと、相手は「ホント、サイッテーな女!」と最後に穂南を侮辱して去って行った。

最低なのはどっちだ。こっちは安藤に振り回されただけだ。穂南に後ろめたいことなんて何もない。でも……。

ワークの居残りでイライラしていた穂南に、自然に接してくれた。傘の中で安藤からもらった言葉は、穂南を悪夢から救ってくれた。そのことに……、……自分の気持ちが揺らいでいるのを、本当は知りたくなかった……。勝負の世界は何人もの敗者の上に、たった一人の勝者が居る。夏の大会でその勝者になりたいなら、それに集中すべきだ。他は要らない。そう分かってる。でも……。

あの女の子は、穂南よりも、もっと安藤のことを色々知ってるんだろう。勝者の候補の一人として、敗者になるべき穂南に、怒りをぶつけてきた。それをかわすことは出来たけど、言い返すだけの知識や感情を、穂南は安藤に対して持っていなかった。負けたのだ。穂南は、彼女に。彼女たちに。

膝が震える。ぱっとジャージの上から震える膝を押さえ込んだ。手も、小刻みに震えてる。怖い。負けるって、……こういう事か……。

(違う! 私の勝負の場は、こんなところじゃない! 競技会場の、タータンの上だ! 此処じゃない!!)

安藤なんて、関係ない。元から、違う世界の人だ。穂南は陸上に、安藤は……。
安藤は……?
あの打ち明け話が安藤を救ったのなら……、穂南は……? 穂南だって、安藤の言葉に救われていたんじゃないのか……?

(違う!! 私は私の努力で地面に立ってる! 逃げた安藤くんとは違う!)

勝者になりたい穂南が、敗者の安藤に救われてどうする。ただひたすら前を見て、走って、走って、走って……、その先のゴールラインの向こうに行くことだけが穂南の夢だ。

その場から取って返してクラブハウスに戻る。

「ごめん! もう少し自主練してから帰るから、部室の鍵、預かっとくわ」
「えっ? 良いけど、……オーバーワークにならない……?」

友達の気遣いも嬉しいが、今は兎に角走りたい。雑念を取り払わないと、明日からの練習だって、もしかしたら大会当日だって、集中できるかどうか、分かったものではない。

「大丈夫、適当に切り上げるから。気分変えたいだけなの。だから心配しないで」

そう言うと、友達は鍵を渡してくれた。穂南は心置きなく、先程まで走っていたグラウンドへと戻る。日はとうに暮れて、赤く染まった空が西の空の黒い雲の縁を染めている。遠くに雷鳴が聞こえるが、そんなことは気にしていられなかった。兎に角、走りたい。走ってさえいられれば、穂南は幸せだし、安心できる。スターティング・ブロックをセットし、足を掛けて、両手をラインにつく。姿勢を低くして、脳内の合図とともにスタートダッシュを繰り返す。何本も、何本も。頭が空っぽになるまで、走り続けた。