◇◆◇◆
部屋に戻れば、時計の針は夜の十時半を過ぎていた。屋敷内もしんと静まり返っている。早い者は休んでいるし、起きている者も部屋でゆったりと時間を過ごしているのだろう。
氷月は自室からそろりそろりと風呂場へと向かった。何も無ければ、他の姉妹たちはすでに風呂を使い終わった頃の時間だ。それでも、誰にも会いませんように、と願いながら歩く。
「やはり、来たわね」
風呂場の前で待っていたのは、一番上の姉の睦月。氷月の願いなど虚しいものだった。
「今からお風呂? どうぞ。鬼封じから戻ってきたところですものね。で? 鬼は無事に封じられたのかしら?」
氷月はそれに答えることはできない。何しろ今日は鬼封じをしに行ったのではない。鬼憑きの確認だ。何も言わず、着替えを抱きかかえている氷月に睦月はイライラした様子を見せる。
「聞かれたことには答えたらどうなの? あなたのそういうところがイライラするのよ」
このように感情をぶつけてくる睦月も珍しい。一体、何に腹を立てているというのか。もちろん、氷月にはわからない。
「で? 鬼を封じてきたのかしら?」
イライラしながら同じことを睦月は尋ねてきた。
「……。今日は、鬼憑きの、確認だけです」
彼女にやっと届くような声で、氷月は答えた。
「はあ? 鬼憑きの確認? 鬼憑きの人間の情報はもらっていたのよね。だったら、さっさと封じればいいじゃないの」
「……。今日は、鬼憑きを確認するだけだ、と、卯月兄さんがおっしゃったので、それに従っただけです」
チッと、憎々しげに舌打ちをする睦月は、そこに卯月の名が出てきたからであろう。卯月の命は絶対である、という風潮がこの兄弟姉妹たちにはある。彼が黒と言えば白くても黒になるような。それだけの権力者で兄弟姉妹の中で誰よりも力がある男。
ふん、と鼻息荒く、睦月は立ち去っていく。彼女の姿が廊下の向こう側に消えるまで氷月はじっと見ていた。
彼女の姿が見えなくなり、ほぅと息をついた氷月は浴室へと向かった。少し緊張に包まれた気持ちを服と一緒に脱ぐ。浴室に入れば、白い湯気が襲い掛かってきた。
檜の匂いに包まれながら、身体と頭を洗って、湯船へ浸かる。
「ふぅ……」
思わずそんな声が漏れてしまうような至福のひと時。着替えは、あのとき霜月に言われてから、脱衣所ではなく浴室の方に籠に入れて持ってきてある。だから、ゆっくりと湯船に浸かっていられる。何も気にすることは無い。
目を閉じれば、余計に檜の香りを感じることができた。
「鬼憑き、鬼封じ、鬼を感じる、鬼を視る……」
当たり前だが、ここに来てからは鬼ばかり。鬼遣いとしてここにいるのだから、それが当たり前と言われればそれまでなのだが。
「鬼を感じる……」
それがよくわからなかった。何となく嫌な感じがする、感じたのはそれだけ。はっきりとわかったことではない。霜月はそれがわかるらしい。さらに鬼も視えたらしい。それが五歳から鬼遣いとしてここにいる彼との差なのだろうか。
深く息を吐いてから、湯船からあがった。汗か湯かわからない滴が身体を伝う。
手早く着替えて、部屋へと戻る。部屋に戻る間、他の兄弟たちとは会わないように、とそう願って。
パタンと部屋に戻って、やっと一息つく。この部屋と風呂場への移動する間が、意外と緊張する時間でもあった。部屋に備え付けられている小さな冷蔵庫から、ペットボトルの水を取り出す。部屋に冷蔵庫だなんて、高校生には贅沢な代物だが、ここではそれが当たり前らしい。鬼遣いとして動くようになれば、決められた時間での食事ができなくなる場合もあるため、そのようなときのために、冷蔵庫に食べ物や飲み物が納められているのだ。
キャップを捻り、一気に口の中に流し込む。干からびた身体に水分が染みわたっていく感じがした。身体は乾いていた。恐らく、心はもっと渇いている。
(お母さん……。おじいちゃん、おばあちゃん……)
ここに来る前、共に過ごしていた家族。母は亡くなってしまったが、祖父母は生きている。氷月がいなくなって、祖父母はどうしているのだろうか。
小学校の卒業と同時にここに来て三年が経った。三年前から、ここでの氷月の扱いは変わらない。一番下っ端。他の姉妹には虐げられ、嫌味を言われ、挙句、鬼遣いとして相応しくない、と。
彼女の三年間を見ていた卯月は優しい。共に訓練に励んだ霜月も、口は悪いが行動は優しい。だが、その優しさすら怖いときがある。
(お父さん……)
父親はよくわからない。会うことも少ない。月に一度、その顔を見ることができればいい方。一体、何をやっている人なのか、よくわからない。そもそも鬼遣いの頭領と呼ばれる人間が、何をしているのかがわからない。他の兄弟たちと同じように鬼を封じているのだろうか。だが、話を聞いている限りでは、その様子もなさそうだ。
父親の年齢もよくわからない。母親は、二十歳で氷月を生んだことだけは聞いている。だが、他の兄弟たちのことを考えれば、少なくともそのときは三十を過ぎていただろう、と思う。
氷月はもう一口、水を飲んだ。ペットボトルの水は、いつの間にか半分以上も無くなっている。それだけ乾いていた身体。
一番上の睦月は氷月より一回りも年が離れている。そのくらいの年齢であれば、結婚をしないのだろうか、とも思う。それとも結婚できない特別な理由があるのか。そもそも鬼遣いは結婚できるのだろうか。
結婚――。
それはやはり氷月のような年齢にとっては結婚というものは特別な憧れがある。大人になれば結婚するものだと思っているところもある。
(疲れた……)
明日は土曜日で学校は休み。それだけでも救われたと思う。
(結婚。お父さんとお母さんは、結婚していたのかな……)
濡れた髪の毛のまま、氷月はベッドに座る。
ここに来たばかりのときはよくわからなかったが、他の兄弟たちも父親を父さんと呼んでいる。ということは、やはり、父親はみな同じなのだろうか。ということは、あの父親は自分の母親の以外の女性とも関係を持った、ということなのだろう。それが氷月にはよくわからない。好きになった人同士が結婚をして、子供を授かるものだと思っているから。
でも、少しでも血が繋がっている兄弟姉妹であるなら、もう少し自分に優しくしてくれてもいいのに、と思う。ずっと一人っ子でいたから、兄弟姉妹がいると知った時には純粋に嬉しかった。だけどそこにいた兄弟姉妹は理想とはだいぶかけ離れているものだった。つまり、がっかりしたのだ。兄弟姉妹だけど兄弟姉妹ではないような関係に。そして、母親を同じくしないと言う兄弟姉妹たちに。
(わけが、わからない)
氷月はかぶりを振る。ここに来てからは本当にわけがわからないことばかり。この生活がいつまで続くのかさえもわからない。できることなら、今すぐここから逃げ出したい。それができないのは「真名」をあの父親に奪われているから。「真名」を取り返さない限り、すぐさま連れ戻されてしまう――。そう言っていたのは霜月だ。五歳から鬼遣いとしてここにいる彼は、ここに来た当初、何度も脱走しようとしたらしい。何度も脱走し、その度に連れ戻され、とうとう諦めた。逃げても無駄だと、幼い心でも理解できた、のだとか。
(真名。私の名前。私の、本当の名前……)
氷月はそれが思い出せないことが悔しかった。母親がつけてくれたはずの名前。自分の本当の名前はどこに消えてしまったのだろうか――。
氷月はそのまま、ベッドにごろんと倒れた。
部屋に戻れば、時計の針は夜の十時半を過ぎていた。屋敷内もしんと静まり返っている。早い者は休んでいるし、起きている者も部屋でゆったりと時間を過ごしているのだろう。
氷月は自室からそろりそろりと風呂場へと向かった。何も無ければ、他の姉妹たちはすでに風呂を使い終わった頃の時間だ。それでも、誰にも会いませんように、と願いながら歩く。
「やはり、来たわね」
風呂場の前で待っていたのは、一番上の姉の睦月。氷月の願いなど虚しいものだった。
「今からお風呂? どうぞ。鬼封じから戻ってきたところですものね。で? 鬼は無事に封じられたのかしら?」
氷月はそれに答えることはできない。何しろ今日は鬼封じをしに行ったのではない。鬼憑きの確認だ。何も言わず、着替えを抱きかかえている氷月に睦月はイライラした様子を見せる。
「聞かれたことには答えたらどうなの? あなたのそういうところがイライラするのよ」
このように感情をぶつけてくる睦月も珍しい。一体、何に腹を立てているというのか。もちろん、氷月にはわからない。
「で? 鬼を封じてきたのかしら?」
イライラしながら同じことを睦月は尋ねてきた。
「……。今日は、鬼憑きの、確認だけです」
彼女にやっと届くような声で、氷月は答えた。
「はあ? 鬼憑きの確認? 鬼憑きの人間の情報はもらっていたのよね。だったら、さっさと封じればいいじゃないの」
「……。今日は、鬼憑きを確認するだけだ、と、卯月兄さんがおっしゃったので、それに従っただけです」
チッと、憎々しげに舌打ちをする睦月は、そこに卯月の名が出てきたからであろう。卯月の命は絶対である、という風潮がこの兄弟姉妹たちにはある。彼が黒と言えば白くても黒になるような。それだけの権力者で兄弟姉妹の中で誰よりも力がある男。
ふん、と鼻息荒く、睦月は立ち去っていく。彼女の姿が廊下の向こう側に消えるまで氷月はじっと見ていた。
彼女の姿が見えなくなり、ほぅと息をついた氷月は浴室へと向かった。少し緊張に包まれた気持ちを服と一緒に脱ぐ。浴室に入れば、白い湯気が襲い掛かってきた。
檜の匂いに包まれながら、身体と頭を洗って、湯船へ浸かる。
「ふぅ……」
思わずそんな声が漏れてしまうような至福のひと時。着替えは、あのとき霜月に言われてから、脱衣所ではなく浴室の方に籠に入れて持ってきてある。だから、ゆっくりと湯船に浸かっていられる。何も気にすることは無い。
目を閉じれば、余計に檜の香りを感じることができた。
「鬼憑き、鬼封じ、鬼を感じる、鬼を視る……」
当たり前だが、ここに来てからは鬼ばかり。鬼遣いとしてここにいるのだから、それが当たり前と言われればそれまでなのだが。
「鬼を感じる……」
それがよくわからなかった。何となく嫌な感じがする、感じたのはそれだけ。はっきりとわかったことではない。霜月はそれがわかるらしい。さらに鬼も視えたらしい。それが五歳から鬼遣いとしてここにいる彼との差なのだろうか。
深く息を吐いてから、湯船からあがった。汗か湯かわからない滴が身体を伝う。
手早く着替えて、部屋へと戻る。部屋に戻る間、他の兄弟たちとは会わないように、とそう願って。
パタンと部屋に戻って、やっと一息つく。この部屋と風呂場への移動する間が、意外と緊張する時間でもあった。部屋に備え付けられている小さな冷蔵庫から、ペットボトルの水を取り出す。部屋に冷蔵庫だなんて、高校生には贅沢な代物だが、ここではそれが当たり前らしい。鬼遣いとして動くようになれば、決められた時間での食事ができなくなる場合もあるため、そのようなときのために、冷蔵庫に食べ物や飲み物が納められているのだ。
キャップを捻り、一気に口の中に流し込む。干からびた身体に水分が染みわたっていく感じがした。身体は乾いていた。恐らく、心はもっと渇いている。
(お母さん……。おじいちゃん、おばあちゃん……)
ここに来る前、共に過ごしていた家族。母は亡くなってしまったが、祖父母は生きている。氷月がいなくなって、祖父母はどうしているのだろうか。
小学校の卒業と同時にここに来て三年が経った。三年前から、ここでの氷月の扱いは変わらない。一番下っ端。他の姉妹には虐げられ、嫌味を言われ、挙句、鬼遣いとして相応しくない、と。
彼女の三年間を見ていた卯月は優しい。共に訓練に励んだ霜月も、口は悪いが行動は優しい。だが、その優しさすら怖いときがある。
(お父さん……)
父親はよくわからない。会うことも少ない。月に一度、その顔を見ることができればいい方。一体、何をやっている人なのか、よくわからない。そもそも鬼遣いの頭領と呼ばれる人間が、何をしているのかがわからない。他の兄弟たちと同じように鬼を封じているのだろうか。だが、話を聞いている限りでは、その様子もなさそうだ。
父親の年齢もよくわからない。母親は、二十歳で氷月を生んだことだけは聞いている。だが、他の兄弟たちのことを考えれば、少なくともそのときは三十を過ぎていただろう、と思う。
氷月はもう一口、水を飲んだ。ペットボトルの水は、いつの間にか半分以上も無くなっている。それだけ乾いていた身体。
一番上の睦月は氷月より一回りも年が離れている。そのくらいの年齢であれば、結婚をしないのだろうか、とも思う。それとも結婚できない特別な理由があるのか。そもそも鬼遣いは結婚できるのだろうか。
結婚――。
それはやはり氷月のような年齢にとっては結婚というものは特別な憧れがある。大人になれば結婚するものだと思っているところもある。
(疲れた……)
明日は土曜日で学校は休み。それだけでも救われたと思う。
(結婚。お父さんとお母さんは、結婚していたのかな……)
濡れた髪の毛のまま、氷月はベッドに座る。
ここに来たばかりのときはよくわからなかったが、他の兄弟たちも父親を父さんと呼んでいる。ということは、やはり、父親はみな同じなのだろうか。ということは、あの父親は自分の母親の以外の女性とも関係を持った、ということなのだろう。それが氷月にはよくわからない。好きになった人同士が結婚をして、子供を授かるものだと思っているから。
でも、少しでも血が繋がっている兄弟姉妹であるなら、もう少し自分に優しくしてくれてもいいのに、と思う。ずっと一人っ子でいたから、兄弟姉妹がいると知った時には純粋に嬉しかった。だけどそこにいた兄弟姉妹は理想とはだいぶかけ離れているものだった。つまり、がっかりしたのだ。兄弟姉妹だけど兄弟姉妹ではないような関係に。そして、母親を同じくしないと言う兄弟姉妹たちに。
(わけが、わからない)
氷月はかぶりを振る。ここに来てからは本当にわけがわからないことばかり。この生活がいつまで続くのかさえもわからない。できることなら、今すぐここから逃げ出したい。それができないのは「真名」をあの父親に奪われているから。「真名」を取り返さない限り、すぐさま連れ戻されてしまう――。そう言っていたのは霜月だ。五歳から鬼遣いとしてここにいる彼は、ここに来た当初、何度も脱走しようとしたらしい。何度も脱走し、その度に連れ戻され、とうとう諦めた。逃げても無駄だと、幼い心でも理解できた、のだとか。
(真名。私の名前。私の、本当の名前……)
氷月はそれが思い出せないことが悔しかった。母親がつけてくれたはずの名前。自分の本当の名前はどこに消えてしまったのだろうか――。
氷月はそのまま、ベッドにごろんと倒れた。