ところどころ裏返った怒鳴り声には、動揺や谷向くんのことを心配しているように聞こえる声が、入り混じっていた。
「そんな奴じゃなかった? じゃあ俺はどんな奴だよ? お前、俺のことそんな知らねーだろ? 俺でさえ俺のこと分かってねーんだから分かるわけねぇ」
「お前は俺にとってヒーローだ。今もそれは変わらない」
 谷向くんの質問に自信を持って答える七瀧くんの姿を目にして、気分がかさつく。
 一時間しか眠れなくてほぼ徹夜状態だった寝起きに、お母さんに頭を掴まれて強く揺さぶられた、あの直後のように頭がぐらぐらする。
「嘘つけ。変わっただろ」
 私がそのぐらぐらに耐えている真っ只中にたった一言言い残して、谷向くんは、体育館裏から離れていく。
 犬嶋くんは困っているような顔で七瀧くんと私の顔をちらちら見ていた。けど、拳を握り締めると背を向けて、谷向くんの後を追いかける。
 榎塚くんが歩き出す直前に、七瀧くんではなく私の方を、泣き出しそうな表情で見たような気がした。そんなことあるわけないし、見間違いか、私の都合のいい妄想だろう。
「ねぇ……。谷向くんって、七瀧くんにとってヒーローなの?」
 七瀧くんをいじめていた三人の後ろ姿が小さくなってから質問する。
 七瀧くんは、愚問を訊いた生徒を嘲笑う先生のように、笑った。
 私の濁った目を通して見たからそう見えただけで、実際はただ笑っただけなのかもしれないけれど。
「人って変わるよな……。主に悪い方に」
 私は榎塚くんの顔を思い浮かべながら頷いた。
「そうだね……。私の知ってる榎塚くんはこんなこと……いじめに加担するような人間じゃなかった」
 いつもみんなの前で堂々と発言していて、教師や大人相手でも物怖じしない、正義感に溢れる人間。それが、榎塚燎という男。
 しかし、私が片想いしている時に、キラキラフィルターがかかった目で見ていたから、そんな風に見えていただけで、思い込んでいただけなのだと思う。
 もし、榎塚くんが本当に正義感溢れる人物なら、母親に向かって『死ねよ』という暴言を吐いた七瀧くんのことを許せないと思ったから、いじめに加担した。という一つの可能性に思い至る。
「白侑はヒーローだよ」
 笑ったことが、ヒーローであると肯定したことになるから、もう答えないと思っていたのに、七瀧くんは答えた。答えて欲しくなかったな、と思った。
「みんな変わったけど……一番変わったのは白侑だ。それでも、ヒーローだっていう俺の認識が変わることはあり得ないけどな」
「……どうして?」
「俺……チビでひょろひょろしてたから小一の時も、体格に恵まれてるボスにいじめられてたんだ。頭叩かれたり、傘で殴られたり、後ろから突き飛ばされたり蹴られたり……。白侑は俺をいじめから救ってくれたヒーローなんだ」
 誇らしげな笑顔でそう語る七瀧くんを見て、胸が苦しくてどうしようもなくなる。この感情はどう処理すればいいのだろう。教えて。
「白侑は悪役に向いてない。柄にもねーことするから大きなミスをしでかす……。お前もあいつの顔見て何か感じたから、ビンタすんのやめたんだろ?」
「うん。なんか……凄く苦しそうな顔してた」
 迷ったけど、過去の自分の表情にそっくりだった話云々をするのはやめておいた。
 好きだからこそ、暗い自分を知られたくないことはあると思うし、密かに好意を寄せていた男子から暗いとはっきり言われてショックを受けた経験もある。
「だよな。俺にも苦しそうに見えた……。この前、俺にいじめられてる理由を知りたいなら死ぬなってさ……言われたんだ。なんかよく分かんねーけど、苦しんでるあいつを置いて死ぬわけにはいかねぇと思った」
 いじめを受けている七瀧くんの方が間違いなく苦しいはずなのに、苦しめている谷向くんが苦しそうだから、死ぬわけにはいかない?
 七瀧くんは谷向くんのために生きている。
導き出された結論に胸を痛めているところに、「赤根川」と七瀧くんの声が耳に入ってくる。
 今は入ってきて欲しくなかった。聞きたくなかった。
「何?」
「お前は変わるなよ」
「……なにそれ。どういうこと?」
「言葉通りの意味だよ。お前だけは変わらないでくれ」
「あと、俺が寝てる間に……勝手に消えたりすんなよ」
「えっ、今から寝るの?」
「寝るわけねーだろ。せっかく久しぶりに、貴重な昼休みの時間が余ったのに無駄になんかしねぇよ。お前と一緒に過ごす。……俺が人殺しだって知っても態度を変えずに、毎日話しかけてくれて、ありがとな」
 私は無言で首を横に振った。
「これから先もずっと、私は変わらないよ。態度を変えることもない。変わったり、変えたりすることなんてあり得ない。うざいしつこいって嫌われても、七瀧くんの傍にずっといるから」
 捻くれ者の私が珍しく素直に自分の気持ちを伝えたのに、七瀧くんはふふっと鼻で笑った。むっとして尋ねる。
「何で笑うの?」
「最初はしつこいうざいって思ってたよ。何で急に話しかけるようになったんだって、考えても訳分かんなかったし」
 諦めきれなくて、少しでも興味を持ってもらうために話しかけたと素直に答えるわけにはいかない。
 いつだっただろう。愛情の反対は無関心だと聞いたことがある。
 七瀧くんにとって、私という人間は、無関心の枠に入っているだろうから、私はせめて、その枠から脱出したかったのだ。
「でも、お前が傍にいてくれてよかった」
 本当に? と聞き返したかったけど、頑張って取り繕った微笑みを向けた。喜んでいるように見えればいいな、と心の中で祈る。
 傍にいて欲しいのは私じゃなくて谷向くんなんじゃないの、という面倒くさい質問も飲み込んで、胸の奥の方に押し込んだ。