俺、お前にだけは●●●って言われたくないみたいだわ

 私がリアクションする間などなかったように思う。
 七瀧くんは谷向くんが掴んでいる割り箸を掴んで自分の方に近づけて、ワームを口の中に入れた。
 口をもぐもぐと動かして、気を遣ってか、控えめな咀嚼音を立てた。
 それでも、食べていないのに食べているような錯覚に襲われて、猛烈な吐き気が催してきた。
 七瀧くんは前方にしゃがんでいる谷向くんに向かって土下座するように地面に蹲り、お゙ぇ゙っとえづく。
 そのまま吐き出すかと思ったけど、出てきたのは唾液だけだった。
「……駄目だ。吐けねぇ。けど、吐いたら克服したことになんねーもんな」
 ゴホゴホと苦しそうに咳き込む。何度もえづいた後、水のように透明な液体が数滴地面に落ちた。
 俯いている顔の方からほぼ垂直に零れ落ちたから唾液や汗だと思ってけど──違った。唾液や汗だけではなかった。
「お前……、虫苦手だったよな? 特にミミズとか青虫とか毛虫が。だから昨日の夕方、自販機でワーム買ってきたのに、俺の知らない間に克服してたのか? 食べたくない嫌だって嫌がってたのは演技か?」
 七瀧くんがおもむろに顔を上げる。澄んだ黒色の瞳がじわぁと耐えかねたように涙で溢れて、ぼろぼろと大粒の涙が零れ落ちる。
「演技じゃねぇよ……。今、克服したんだ。克服せざるを得なかった。赤根川の前でダセェところを、これ以上晒し続けないようにするために」
「……へぇ。……俺のお陰で克服できなかった虫を克服できたんだから感謝しろよ。……今日珍しく給食残してたから、昆虫食なら食べれるかなって思ってプレゼントしてあげたんだよなァ……。俺って超優しい。まだ、コオロギもセミもあるから遠慮せずに食えよ。人殺し」
 眼前に怒りの炎が猛々しく燃え上がり、目がチカチカする。
 袋を開けて虫を取り出そうとしている谷向くんにがつがつと詰め寄って、右手を思い切り振りかぶる。
 その瞬間に、歪んだ視界にはっきり映った、谷向くんの顔がとても苦しそうで、
「あれ? ビンタすんじゃねーの?」
 振り下ろして谷向くんの頬を平手打ちするはずだった右手で、スカートの端を強く握り締める。
 谷向くんの顔が、何が正しくて何が間違っているのか、自分は何のために頑張っているのか、分からなくなった日の、鏡に映った私の顔にあまりにもそっくりすぎたのがいけない、と思う。
「ねぇ、答えて。……七瀧くんの給食に何か変なものを入れて食べられないようにした?」
 谷向くんは一瞬目を丸くしたあと、少し目線を下げた。
「消しカスとチョークの粉入れた。……なあ。俺のこと、ムカつくならビンタしろよ。さっき、何で直前でやめたんだよ?」
「……暴力を振るったら駄目だと思ったから」
 好きな人が傷つけられている場面を目撃してもなお、怒りの感情を制御して、平手打ちをする直前にやめることができた自分は。
 七瀧くんのことをそこまで大切に思っていないのではないか。
 そんな不安に苛まれて心臓がばくばくして息が詰まり、直ちに自分を殺したくなる。
「しろよッ!! ビンタ!」
 頬に飛んできた谷向くんの唾を顔をしかめながら拭う。
「何で怒ってるの? そんなにビンタされたいの?」
「さ……、されてぇよ。だってよ、ほら、俺女の子大好きでドMだから、お前にビンタされたら嬉しいんだよ」
 先月の文化祭準備期間一日目に、バルーンに空気を入れていた最中のように、谷向くんは私の目の前でぎこちなく笑う。
 あの時は初めてで慣れていなかったからだろうけど、今はどうしてそんな風に笑うの。
「嬉しいなら、尚更ビンタしない」
 つ、と谷向くんは短く舌打ちをして、不満そうな顔で目を伏せた。
「やっぱその選択肢を選ぶよなァ……。じゃあさ、胸触ったらさすがにビンタするよな?」
 思わず言葉を失う。
 返事どころか考える間すら与えてくれずに、谷向くんが私の胸に向かって両手を伸ばしてきた。
 発した自分さえ耳を塞ぎたくなるぐらい甲高い悲鳴を上げて仰け反る。
「やめろ!!」
 谷向くんが虚ろな眼差しでさらに手を伸ばしてきて恐怖で固まり、このままでは避けきれないとパニックに陥る。
 その時だった。いつの間にか立ち上がっている七瀧くんが私と谷向くんの間に割って入った。
 目の前に現れた背中は身長差が六㎝でそんなに変わらないのに、大きくて頼もしいと心の底から感じた。
「白侑、お前そんな奴じゃなかったろ!? 女子の地雷ガンガン踏み抜いてたけど、あれは全部わざとじゃなかったし、お前がわざと人を傷つけることなんて、一度もなかったよな!?」