私と七瀧くん、なぜかどちらも落ちなかった。ふと気づけば、下に引っ張られる力が弱まりふわりと軽くなっている。
 ひょっとして、奇跡が起きて空中に浮遊する魔法がかかった? 混乱するなか、上から手を握られるような感触と確かな温もりがあることにハッと気づいて、固まる。
「邪魔しにきたぞ。……(てん)ちゃん、もう大丈夫だよ。俺たちがぜってー死なせねぇから」
「…… (えの)(づか)くん?」
 声を聞いて何となく榎塚くんかもしれないと思っただけだったから、自信がなかった。
 視線だけ右に向けると、涙でぼやけた視界の中に、困ったように笑っている榎塚くんがいた。
「りがかって呼んで欲しかったな。俺が天ちゃんって幼稚園の時につけたあだ名で呼んだから。ううんいいや。いつまでも覚えてんのは俺だけだよな。……天ちゃんもシローもお疲れ。もう力抜いていいぞ。後は俺たちの力で持ち上がるから」
 早口で言った榎塚くんは「()(おと)!!」と大声で呼んだ。
「おう、いつでもいいぜ!」
 榎塚くんの横にいる(いぬ)(じま)くんが明るく返事をする。
「じゃあいくぞ。……せーのッ!!」
 榎塚くんの掛け声が耳に届いた後、榎塚くんと犬塚くんが七瀧くんの両手を掴んで上に引っ張った。
 七瀧くんが崖上に引っ張り上げられるのと同時にどすんと音がして振動が地面から臀部に伝わる。
「よっしゃあッ!!」
「救助完了!!」
 続けざまに大きな声が鼓膜を揺らす。私は崖上に無事に生還したうつ伏せ状態の七瀧くんに近寄った。
「七瀧くん!!」
「おい。生きてるか……?」
 谷向くんの問いかけに七瀧くんは「んー」と言葉になっていない返事をした。
「七瀧くん!」
 私が背中を軽く揺すると、七瀧くんは静かに身体を起こした。深く長い息を吐きながら足を伸ばす。
「ねぇ。生きてる、よね?」
「……ああ、生きてる。残念ながら死に損なった」
「残念じゃない。私は七瀧くんが助かって心の底から嬉しいよ……。あのまま落下しなくてホントによかった。ここに、生きて戻ってきてくれてよかった……」
 私が手の甲で涙を拭いながら微笑みかけると、七瀧くんは目を丸くして、やがて僅かだけど口元を緩めた。
「なあシロー。いじめっ子が人命救助したらおかしいか? でもよ、あのまま放っておいたら透埜も赤根川は二人一緒に落ちて、二人を追いかけてお前まで飛び降りそうだったから」
 犬嶋くんがそう言うと谷向くんは静かにかぶりを振った。
「いや、別におかしくねぇよ」
 と、谷向くんは緩んだ口元を引き締めて、榎塚くんと犬塚くんに向かって深々と頭を下げた。
「悪かった。お前らが来なかったらマジでそうするつもりだった……。お前らのお陰で助かった。心の底から感謝する。ありがとう」
「どういたしまして、って返せばいいんだよな?」
 犬塚くんは榎塚くんに顔を向ける。
「ああ、それでいい。こーゆうのは目撃するだけでも心臓に悪いし心中なんてふざけた真似すんなよ? 二度目は助けねぇぞ」
「ああ、悪ィ。そんなこと言って、燎くんのことだから絶対助けてくれるくせにー」
「にー」
「うっせぇ。雫音も、白侑の語尾だけ繰り返すなバカ」
「あー、バカって言う方がバカなんだぞ!」
 犬塚くんが小学生のような発言をしてみんなが笑い声を上げた時、七瀧くんがふらふらと立ち上がった。
 地面につきそうなほど深く頭を下げて、「恩に着る」と真剣な声で言う。
「雫音、(かがり)、白侑、赤根川。あり、」
 がとうと言い終わる前によろけたから慌てて立ち上がって支える。
「無理しないで。生還したばっかりなんだから」
 顔を窺ったら七瀧くんは唇をわなわなと震わせていた。
「お前から礼言われると、なんか複雑だし罪悪感で胸がきゅってなるな」
 犬塚くんが苦々しい表情で言うと同じような表情をした榎塚くんが、
「お前が今日自殺図ったのって、俺らがいじめたからだろ。……ごめんな。白侑から話を聞いて、死ねよって一回言われただけで死んだ。メンタル弱い母親が悪い。俺は悪くないって反省せずに開き直ってると思ってたんだ」
「俺は悪くないなんて思ったことは一度もねぇよ。俺が悪い。俺は、お前たちからいじめられる前から何度も死のうとしてた。母親を殺した自分が普通に生き続けるのはおかしいって思ったから。……けど、自殺するのは、母親を自殺させた罪悪感や苦しみから、逃げることとイコールだと思った。だから、俺は六歳の時から今までずっと死ぬに死ねなかったんだ。……正直、いじめられたことは俺にとってアンラッキーでもありラッキーでもあった」
「アンラッキーでしかねぇだろ」
「いや……。いじめられてる時に死ねば、俺は罪悪感や苦しみから逃げたわけじゃない。いじめによる苦しみから逃げるだけだって、自分にそう言い聞かせることができるから、その点においてはラッキーでしかなかった。今なら死ぬことができる。絶好のチャンスだと思って、飛び降りたんだ」
「お前は六歳の時点で既に追い詰められてたのか……。何も知らなかった。勝手に決めつけたりしないで、お前の口から直接聞くべきだったな。……お前は人殺しなんかじゃねぇ。いじめて、本当にごめんな」
 榎塚くんが七瀧くんに向かって頭を下げると、「ごめんッ!」と犬塚くんも勢いよく頭を下げた。
「とーや……。俺も反省してないって完全に誤解してた。取り返しがつかないことをした。傷つけて、ごめん」
「いい、謝んなよ。二人とも、助けてくれてありがとう。お母さんを殺したのに法律では裁かれなかった俺を、罰してくれてありがとう」
 七瀧くんは無理に笑っていると分かる苦しそうな笑顔で笑う。それを間近で目にしている、その場にいる全員の目が潤む。無論私も。
「七瀧くんはもう充分理解してるし反省してる。罰せられるべき人間じゃないよ。苦しみや罪悪感から、『逃げる』んじゃなくて、解放されていいんだよ。それから……お母さんを殺したことにはならないと思う」
 私の言葉に七瀧くんは弱々しくかぶりを振った。
「行方不明になった年は殺したも同然だと思ってたけど……違う。殺したんだ」
 私の言葉を受け入れなくていいから、これ以上苦しんで欲しくないという私の気持ちだけは受け止めてくれたらいいな、と思う。いつか。