「分かった。死なないから離せ」
 しばし黙り込んだ七瀧くんはそう返答する。踏みとどまらせることに成功した。ダジャレのお陰かどうかは分からないけど、天寿と名付けてくれた父親に感謝した。
「嫌だ」
 しかし、七瀧くんの願いは聞けない。
「痛いんだよ」
「でも……」
「離せよ。痛いのは嫌いだ。これ以上痛みを味わわせないでくれよ」
 卑怯だ。そんなこと言われたら、何も言えなくなる。
「絶対死なないでよ!?」
 強く釘を刺すと、「ああ」と七瀧くんは肯定したけど、心配だ。
「早く離せ」
 頭を抱えて思い悩んでいると七瀧くんから急かされる。
「なあ。大好きって言ったよな? 大好きな人の言葉を信じられないのか? 嘘なんじゃないのか?」
 そう言われてしまっては「嘘じゃないよ!」としか言い返すことしかできない。
 私は大丈夫かな? とびくびくしながら離した。
 七瀧くんが動いた。一瞬心臓が止まる。けど、私の方に身体を向けようとしているだけだった。
 このままではぶつかって逆に落下してしまうと思って、三歩後退って七瀧くんが振り返って立つことができるかつ間違っても落下しないスペースを空ける。
「ありがとな……。赤根川。白侑」
 七瀧くんが、この瞬間を狙っていたように目を細めてにやっと笑った。
 やばい。ぞっとして全身が総毛立つ。
 疲れ果ててホテルのふかふかのベッドの上に倒れ込むように。目の前にいた七瀧くんが仰向けに落ちて、私から離れていく。動きがスローモーションに見える。まだ間に合うと思った。前につんのめり、膝に強い衝撃を感じるなか、下に向かって思い切り手を伸ばす。
「七瀧くんッ!!」
 間一髪掴めたのは左手の指だけだった。肩が外れそうだ。崖下に引っ張られていて気を抜けば落下してもおかしくない。
 大きく見開かれた七瀧くんの二つの瞳には私が、いや映っているのは私だけではなくて。
 谷向くん──。ハッと息を呑んで右隣を見る。
 谷向くんが居て、七瀧くんの左手を、かろうじて掴んでいる私とは違い、がっしりと掴んでいる。
「赤根川さんに負担かけたくねーなら今すぐ右手動かして俺の左手掴めッ!!」
 七瀧くんは谷向くんの顔を見上げてくしゃっと顔を歪めて、やがてその顔を隠すように俯いた。
 私と谷向くんが掴んでいるから、七瀧くんは崖に落下せずに宙に浮いているというだけで、まだ助かったとは言えない危険な状況だ。
 何よりも、このまま引っ張り続けると七瀧くんの指が心配だ。
 突然の事態に動揺していたのか。谷向くんは掴めと言いながら差し出していなかった左手を、七瀧くんに向かって差し出した。
 しかし、七瀧くんは俯いたまま何も言わない。
「透埜ッ!!」
 谷向くんが七瀧くんの名前を久しぶりに呼んだ。
 その声に背中を押されたように、七瀧くんは勢いよく顔を上げて、谷向くんの左手に向かって手を伸ばす。
 谷向くんは七瀧くんの左手の指を掴んでいる私の手ごと掴んで、上に引っ張った。
「今、引き上げてやるからな」
「待て!」
「何でだよ!?」
 七瀧くんの言葉に谷向くんが戸惑った声を出す。
「待ってくれ。……とりあえず掴んだだけだ。だから、もう離していいか?」
「何言ってんだよ!?」
 谷向くんが怒鳴り、私も必死に止める。
「駄目だよ!!」
「白侑が俺をいじめていた理由も聞けたし、赤根川が俺を好きになってくれた理由も聞けた……。本当にもう思い残すことは何もないんだ」
「バカッ! 俺がお前をいじめてたのはお前のためだったんだぞ!?」
「俺のため?」
「そうだ!! そもそも、お前が頼んだんだぞ。俺の暴言を否定して欲しいって……。お父さんも姉ちゃんもじーちゃんもばあちゃんも、親戚の人たちも、みんなお前のことを責めなかったって。お前は悪くないから気にしなくていいって。それが……逆に辛いって。だから、『死ねよ』って吐き捨てた自分を自分が否定し続ける。白侑も否定して欲しい。お前は俺にそう頼んだよな?」