「津城、早く」
「すみません!今行きます」
 後ろから渡辺先輩に急かされて、ギターケースを閉じる。
 そして、お守りをそっと指でなぞる。
 2週間くらい前、奏にもらったキーホルダー。肌身離さず持っていたくて、ギターケースに付けている。
 お守りに元気をもらってから先輩のところへ行くと、チューニング終わった?といつもの質問をされる。
 終わりました、と言いながら弦を弾くと渡辺先輩は無言で頷く。これは、OKのサイン。
 2週間部活に行っていたら、『津城』と呼び捨てしてくれるようになった。少しだけ心を開いてくれたんじゃないかなって勝手に思ってる。
 すっかり日課になったスターチスの練習。
 まだ先輩から「完璧」とは言ってもらえてないけれど、最後までストップがかかることなく弾けるようになった。
 今日もギターを構えて、スターチスを弾く。何回弾いてもスターチスは飽きない。ほんとに素敵な曲だなぁとつくづく思う。
 弾き終えて顔を上げたら、仏頂面の先輩。
「津城。それ、人前で弾ける?」
「え……?」
 先輩に言ったっけ。夏祭りのステージに出ること。
「弾けないよね。人前で弾かないとしても、そういう心構えで弾かないとだめ。津城は音楽を甘く見すぎ」
 そういうことか。
 渡辺先輩や美紗、それに奏の音楽が素敵になのは『人に聴かせる』って心構えがあるから。逆にわたしは『ある程度弾けたら満足』してる。
 それじゃ、だめなんだ…………。
「あと、コード覚えてる?」
「なんとなく覚えてます……」
「なんとなくじゃ困るよ。コードが覚えられないと無理だからね」
 コードは、始めたときから逃げてきたものだ。
 ネットで調べると毎日少しずつ練習すればいいと書いてあったけれど、難しいしめんどくさいし、と思って、とりあえず弾けたらいっかと見ないふりをしてきた。
 ふりだしに戻った気分だ。
 ぎゅっと唇を噛みしめると、力加減を誤って血が滲む。痛い。
「津城が弾けてきたから言ってるんだよ。津城はもっと上手くなれる」
 そんなわたしの様子に気付いてか、先輩はそう付け足す。
 でも、それって完璧じゃないってことだ。
 完璧に弾けなかったら、奏の音楽を邪魔しちゃう。奏の音楽は、あんなに素敵なのに。
 もう夏祭りまで2ヶ月もない。
「先輩、どうすればいいですか……」
 口からこぼれ落ちた言葉。
 渡辺先輩は黙ったまま、ギターを取り出す。
 先輩が弾き始めたのは、スターチスだった。
 天音の雰囲気に近い優しさがあって、でも、渡辺先輩だけの音色だ。
 さっきの『人に聴いてもらう』っていうのがようやく呑み込めた気がする。
 それに、強弱が付いていて、曲の表情が豊かだ。
 人を引き込む、魔法みたいな音楽。
 同じ曲を弾いても、こんなに違うんだ。
「どう?」
 先輩は、わたしに何を試したいのかな。
 わたしに『差』を見せつけたいの?
 先輩の音を素敵だって思うほど、心が締め付けられる。わたしの音はそれには及ばないんだって。
 「先輩の音は、ひとつひとつが聴きやすくて、優しくて……素敵でした」
 先輩はふぅん、とだけ頷いて、またギターを弾きだす。
 何が違うんだろう。
 わたしだって、先輩と同じように頑張ってるのに。
 何年も何年も、積み重ねてきたのに。
 この差はなんですか……?
 練習すればするほど、上手くなるんじゃないのかな。でも実際は、練習するほどに下手になっていく。
 スターチス、猫柳、リンドウ。
 とにかくがむしゃらに音を鳴らす。
「津城、それじゃだめ」
 渡辺先輩は、ストップをかける。
 どこがだめなんですか。
 そこまで教えてください。
 分からないから弾けないんです。
 先輩は「だめなところ」が自分で分かるかもしれないけど、わたしは分からない。
 先輩は、楽しそうにギターを弾き始める。
 わたしがギターを弾いて楽しいって最後に思ったの、いつかな。
 奏に聴いてもらえたとき?
 渡辺先輩に褒めてもらえたとき?
 いや……もうずいぶんそんなこと思えてない。
 だけど、楽しくなくても、わたしはギターを続けなきゃいけない。
 奏に迷惑をかけちゃだめだ。
 だけど、どうしたらいいか分からない。
 何から始めたらいいのか、どこを改善すべきなのか、全然分からない。
 ギターを構えたまま動かないわたしを見て、先輩は立ち上がる。
「津城は、全部の音を大事にしてない」
 そして、その言葉を残してどこかへ行ってしまう。
 それが、先輩なりのアドバイスなんだろうか。
 確かにわたしは、苦手なところを飛ばして弾いたり、好きなところだけ弾いたりしてる。
 だから、苦手なところはいつまでも弾けない。それで、どんどん「苦手」って思っちゃって、そこのフレーズが弾けなくなってしまう。
 でも、その苦手なところはどうやって克服すればいいんですか?
 考えても考えても、答えは出なくって。
 ギターをケースに閉まって、このぐちゃぐちゃの思いに蓋をした。
 
         *

「響子〜っ!部活行こ!あれ、ギターは?」
「ごめん美紗、今日は行かない」
 もう無理だよ、と心の中で付け足す。
 頑張った。わたし、頑張ったんだよ。
 上手くなろう、素敵な音を奏でよう、そう思って、2週間弾き続けたよ。
 だけど…………もう心はぼろぼろだ。
 ギターを弾くのが、怖い。
 何をやっても、上手く弾けない。実力の限界だ。
「なんで……渡辺先輩、すごい喜んでたんだよ?津城は毎日来て頑張ってる、こんな後輩はじめてだって。それに私、響子がいつもギター楽しそうに弾いてるのすっごい憧れで」
「そんなの知らないよ!美紗はいいよね、すぐに上達して!」
 美紗の瞳に、傷ついた色が走る。
 でも、止められなかった。
「音楽なんて、大嫌いだ!」
と言ってしまうのを。