久しぶりに会った奏は、髪がボサボサで、目の光も消えて、優しい笑顔を浮かべることもなかった。
「……帰って」
冷たく言い放って玄関のドアを閉めようとする奏。
わたしはその手を強く掴む。振り解けないほどに。
「勝手に押しかけたのはごめん。でも、奏が大丈夫じゃないでしょ。わたし、帰らないよ」
迷惑だって分かってる。それに、嫌われるかもしれない。
でも、世界から、奏の音楽が消えてしまうのは嫌だ。
「奏、聞いて。お願いだから聞いて」
奏に目を合わせたいのに、彼は目を逸らしてしまう。
「もう話したくない」
頑なにわたしを拒む彼。
まるで、いつかのわたしみたいだ。
あのときは、ぎゅってして寄り添ってくれたっけ。
同じようにぎゅっと抱きしめられたらよかった。
でも、わたしは不器用で、大事なところで怯んでしまうから。
「奏……聞いて」
強く握りしめていた手を、きゅっと包み込む。
奏の優しさには敵わない。
でもね。人のぬくもりって、素敵だよ。
奏のおかげで、気付けたんだから。
あとは、奏にお返しするだけだよ。
「奏が歌で誰かを傷つけてしまったのかもしれないけど、でもね、音楽って、人を救う、元気にする力もあるんだよ。わたしがそうだった。奏の音楽で、頑張ろうって思えた。だからもう、これ以上自分を責めないで」
奏の真似をして、微笑みを浮かべる。
天音の歌は理想論で傷付く。
そういうコメントが幾つもあった。
でも、その言葉だけじゃなくて、天音の歌を聴くと頑張れるってコメントも、確かにあった。
「あたたかい言葉だけ受け取って、嫌な言葉を無視できたら楽だけど……それって難しいよね。だからね、一緒に立ち向かいたいの。────わたしたち、相棒だから」
奏に伝わったかな。わたしの想い。
奏の口は、なんで、という風に動いた。
「なんで響子、知ってるの……っ」
震える言葉。奏の目が涙で潤んでいく。
「夢の中で、女の子が教えてくれたの」
目を瞬いた奏の瞳から流れた涙をそっと拭った。
*
奏はもう話せる状態じゃなくって、でも、震える声で教えてくれた。
はじまりは『こんな夢みたいな話ありえない。余計つらくなる』という書き込み。
もちろんそれもつらかったけど、そのコメントを書いた人に対する誹謗中傷があったことがもっとつらかった。
その次の日に音楽番組に出たけれど、心が不安定で、すごく中途半端な歌になってしまった。
それで、『天音は歌が下手だ』って言われるようになった。
心が弱くて、歌も下手で、それに誰かを傷つけてしまうなら、もう歌わない方がいい。そう思ったらだんだん歌えなくなっていった。
奏は静かに目を閉じる。
その手はすっかり冷え切って、わたしの手も冷たくなっていった。
奏にあげたい言葉をたくさん考えていたのに、奏の話を聞いていたらなんにも言えなくなってしまった。
「歌いたいって思っても、喉がキュッと締め付けられて、声が出なくって……。響子に打ち明けようと思った。でも、言えなかった。こんな話しても響子が困るだけだなって。」
奏は優しすぎる。心配になっちゃうほど優しい。
自分のことを後回しにして、他の人のことを優先しちゃう。
誹謗中傷に傷付いたのも、自分より聴いてくれた人が攻撃されるのがつらかったからでしょ?
「なんでそんな優しいの……」
「約束なんだ。…………天音との」
空を見上げた後、わたしに視線を戻す奏の目から、流れてこぼれ落ちる涙。
「天音は、僕の双子の妹だよ」
久しぶりに見た奏の微笑みは、哀しくて、でも、すごく美しかった。
*
テレビに映し出される映像に、息を呑む。
わたしの夢の中の世界。
そう思っていたものは、病室だった。
病室の壁を埋め尽くす、花の絵。そして、その真ん中でベッドに座る女の子。そのとなりにはギターが置いてある。
『天音!今日もおつかれさま』
そう言いながら駆け込んできた男の子──奏は大きなキーボードを抱えている。
女の子──天音ちゃんは、目を見開く。
奏はニコッと笑って、天音ちゃんの前に座る。
『天音と演奏したいな〜と思って』
『いいの?先生に怒られないの?』
『いいの!』
天音ちゃんはギターを、奏はキーボードを構えて、1-2-3の掛け声で音楽を奏で始める。
2人が演奏したのは、スターチスだった。
天音ちゃんの高くて柔らかくて優しい声、ギター、奏の楽しげなピアノの音が病室に響く。
2人は演奏を終えて、嬉しそうに微笑み合う。
『ねぇ奏、ギター弾いてよ。弾けるでしょ?おねがい!』
『やだよ、僕下手だもん』
『下手なんて嘘だよ!天音が証明する!』
奏は大きなギターを抱えて、彼女の言う通りに弦を押さえる。そして彼女が歌い出す。
『君はわたしの光なの』
そのフレーズは、何回も聴いてきた、大好きなフレーズ。
わたしが見たのは、この光景だ。
夢の中とそっくりそのまま、2人は微笑み合いながら演奏を続ける。
涙が止まらなくて、でも2人の音をひとつも聴き逃したくなくて、泣き声を抑える。
曲が終わって、奏がビデオを早送りする。
次に映し出されたのは、痩せ細った天音ちゃんと、その手を握る奏。
『奏……約束して……音楽を続けるって』
『約束する。僕歌手になるよ。頑張るから。天音も生きてよ……っ』
天音ちゃんは泣きじゃくる奏を、そっと抱きしめる。
『ぎゅぅってしたら元気が出るでしょ?奏は大丈夫だよ』
これは、奏がくれた言葉だ。
でも、それよりも引っかかるものがある。
奏の「生きてよ」って言葉。ピアノが置いてある部屋にあった、2人の写真。
「天音はもう…………いないんだ」
世界から、音が消えた。
天音ちゃんは、もういない……。
つまり……亡くなっちゃってるんだ。
そう理解した瞬間、世界から色も無くなって、何も感じられなくなった。
身体に重りを付けられて海に投げ出されたみたいだ。
苦しい。息ができない。
重い身体を持ち上げて、奏の方を見る。
涙で滲んだ視界の中で、奏は哀しい笑顔を浮かべていた。
「奏……っ!」
気が付けば、抱きついていた。
天音ちゃんとしゃべったこともないのに、すごくつらい。
それはたぶん、天音ちゃんがわたしの心の中に生きているから。数え切れないほど、夢の中で天音ちゃんを見てきたから。
「無理して笑わないでいいんだよ……つらいよって投げ出していいんだよ……」
奏はきっと、天音ちゃんが亡くなって、修復不可能なくらい、心が壊れてしまったんだ。でも奏は、人前で悲しんだりせずに正常な心を取り繕ってる。
周りの人、それに天音ちゃんに心配させないために。
「奏が壊れちゃったら、天音ちゃんもつらいよ……それに奏の花が枯れちゃうよ……」
奏は虚ろな目をして、わたしの肩の向こう、窓の外を見つめる。
「神さまは……不平等だよ……」
天音ちゃんがしてたように、奏の背中をそっとなでる。
「天音は明るくて人気者で、音楽の才能があった。でも僕は才能なんてなかったし、天音だけが一緒にいてくれた。双子なのに大違いだね。でもね……神さまが奪っていったのは天音だった……」
分かるよ。痛いほど分かる。
神さまは、みんなに平等じゃない。
恵まれる人は恵まれるけど、そうじゃない人には何にもくれない。
「なんで……死ぬなら僕がよかった……」
「そんなことない!奏が死んだ方がいいだなんて、そんなこと……」
「僕に生きてる価値なんてない。僕に生きてほしいと思う人なんていないよ」
なんでそんなに自分を否定しちゃうの?
奏は優しくて、素敵な人だよ。
それに、この世に死んだ方がいい人なんていない。どれだけ悪い人でも、生きてほしいと願う人がいる。
「わたしは奏に生きててほしい!奏がいなくちゃ困る!」
必死に訴えるけど、奏は聞いてくれない。
言葉で通じないのなら、もう無理?
そんなことない。この世界には、音楽がある。
「奏、聴いて」
ギターを構えて、深く息を吸う。
そして、リンドウを弾き始める。──歌を歌いながら。
音が外れたり声がうわずったり、上手とは言えない歌だ。
でも、これでいい。この音楽で、奏に伝えたいことがある。
ギターを横に置いて、奏の肩を掴む。
「全然完璧じゃなかったでしょ?でもいいんだよ。完璧な人なんていないんだ。だから奏、一緒に前を向こう。手を繋いで、だめなところを補い合っていこうよ」
リンドウの花言葉は、『悲しみに暮れるあなたを愛する』。そんな風に、暗闇で1人震える奏に寄り添いたい。
そんな想いを込めて奏を見つめる。
お願い、伝わって。
「こんな僕でも、いいの……?」
奏の眼は、まだ不安げに揺れている。
でも、確かにその眼に光が灯ったから。
もう大丈夫だ。奏の花は咲き続ける。
──天音ちゃん、見守っててね。夏祭り、絶対成功させるから。