15 ただの炭酸で

『あと一駅で渋谷着くぞ』
『分かった、改札出たところで待ってるね』

 線路のカーブに揺られながら、千鈴とスタンプを送り合って遊ぶ。他の人に関係がバレないように、時間をズラしてレンタル会議室のある目的地へ向かっていた。

「よし、行くか」

 スマホをポケットにしまいながら小さく呟いたタイミングで、ちょうど電車がホームに到着する。俺はカメラや三脚のせいでいつもより重さ三割増しのリュックをグッと背負い直し、開いたドアから駆け出して改札に向かった。

「結構久々に来たね、こっちの方」
「始め二回の撮影はここだったもんな」

 渋谷のバスケットボール通りや道玄坂の反対側、オフィスの多い宮益坂へ。しっかりと覚えていたので、大きな通りを一本外れたレンタルスペースまで迷わずに行けた。部屋に入ってすぐ、「私も慣れてきた!」と自信満々で三脚を組み立てる千鈴と一緒に、手早く撮影の準備を進めていく。

 あっという間に十一月に入った一週目、街の木々は徐々に紅葉の準備を始めている。一方で気温もぐんぐん下がっていき、道行く人も気がつけば秋を通り越して冬の装いを始めていた。

 先月投稿した、テレビやタブレットでの観劇に合うお菓子を探すという企画は、再生数が三百を超えてこれまでの動画の中でも一番好評だったし、千鈴もかなり楽しかったらしいので、「合う飲み物を探そう」というテーマで続編を作ることにした。千鈴とは先月下旬にも本屋デートに行き、二人の仲も深まった気がするし、本当に色々なことが順調に進んでいる。

「よし、有斗、入ってきていいよ!」

 着替えを終えたらしい千鈴に呼ばれ、キッチンからリビングへ入った。アイボリーのスウェットに、それより薄いベージュのグレンチェックのパンツ。家での観劇をテーマにしてるからか、かなり部屋着感が強い服装で、彼女自身も随分リラックスしていた。

「あとは後ろを飾って、と」
「あ、壁紙ね」

 以前も使った花柄の小さい壁紙を、画角に入る壁の部分に貼っていく。ちょっとした工夫でも映像は変わるもので、ファインダーの中に映る部屋は随分オシャレになっていた。

 飲み物を飲むときはテーブルを使うけど、挨拶は全身を映した方がいいので椅子に座った真正面からカメラを向ける。

「じゃあ有斗、よろしくね。可愛く撮ってね」
「それはカメラに頼んでくれ」

 軽口を叩きながら、「五秒前! 四、三……」とカウントを入れる、右手の指を全部折りたたむと、彼女はタブレットを片手に、いつもの明るいトーンで話し始めた。

「はい皆さん、こんにちは。お芝居、楽しんでますか? 演劇ガールです! 前回の、『家でお芝居を見るときにはどんなお菓子が良いのかな?』が好評だったので、今回は飲み物編をやってみたいと思います。まあお菓子と違って音が出るとか手が汚れるとかはないんですけど、ペットボトルとか紙パックとか瓶とか、形の違うもの用意してるんで、意外と差ができるかな、なんて思ってます」

 言いながら、彼女は椅子の下に置いていたペットボトルの炭酸と紙パックの紅茶を胸の前に当てて見せた。

「まずは今日タブレットで観るお芝居の紹介ですね。今回は演劇集団タロットの『キック・ミー』です。私を蹴って、って意味なんですけど、自分ではうまく言いたいことが言えないヒロインが、突然現れた生き別れの兄を名乗る男性に煽られて、どんどん本当の自分を出していくって作品で……」

 オープニングトークから流れるように本編へ進む。今日は勢いもあるので、何も区切らずにそのまま撮影を続けた。これだけ喋れれば、多少トチってもネタにしてそのまま使える。いつも喋ることをノートに書いて練習している成果なのだろう。

「では、飲み物を試す前に、この劇の一番好きな台詞をやってみたいと思います。生き別れの兄が言う台詞なんですけど、これは途中の間がすっごく難しいので何回か練習しました」

 そして椅子から立ち上がり、体全体を斜めにした。実際のシーンと同じ立ち位置なんだろう。

『自分の期待値なんて下げた方がいいって思っただろ? でも、それがずっと続くとダメなんだよ。最大値が下がっちまうんだ』
 その最後の『だ』を言い終わるか終わらないかのときだった。

「ぐふっ、ぐふっ!」

 千鈴が(むせ)る。カメラに「ちょっとタイム」とばかりにパーにした手を見せ、咳を繰り返した。

「大丈夫か、千鈴」
「うん、平気。ちょっとね」

 ハンカチで口を押さえながら彼女は苦笑いする。残念だけど今のは使えない。もう一度撮り直しだ。

「さっきはごめんね、有斗」
「いや、問題ないよ。じゃあジュース飲んでいくぞ」

 台詞を撮り終え、いよいよタブレットでお芝居を見ながら飲み物を飲み比べてみる。机の前に場所を移動して、カバーをパタパタと折って斜めに立てかけたタブレットと数種類のジュースを並べた状態で、彼女は目を見開いて話を始めた。

「それでは早速、ペットボトルの炭酸『ストロングソーダ・梅』から試してみたいと思います!」

 プシュッとペットボトルのフタを開け、どこか怖がるように、彼女はペットボトルをゆっくりと傾けていく。
 しかし。

「……んふっ、ぐふっ!」

 彼女はまた激しく咽る。こっちを見ないまま、手のひらでストップを伝えてくる。

「いやいや、そんなにNGシーン作らなくても――」

 冗談を言いかけ、そこで言葉を止める。一つの疑問が、頭を(かす)めた。

 おかしい。これまで撮影しているときにこんなに咽たことはなかった。炭酸が強くて咽た? あんなにゆっくり飲んでたのに? そもそもなんであんなにおそるおそる飲んでたんだ? そして、仮に炭酸で咽たのだとしても、さっきのお芝居の再現のときに咽たのは説明がつかない。別に理由があるはずだ。

 炭酸のせいではないとしたら。風邪? 体調が悪い? いや、ひょっとしたら体調じゃなくて……

 曖昧だったネガティブな仮説が、次第に輪郭を帯びていく。

「喉、悪くなってるのか」

 俺の問いに、彼女は微かに笑って、小さく首を縦に振る。その表情には、辛さを吐き出すSOSではなく、「やっぱり隠せないよね」という諦めのような想いが込められていた。


「なんか、喉が痛くてさ」

 撮影を一旦中断して、余っている椅子を持ってきて机で千鈴と向かい合う。気楽なトーンで話す彼女の「痛い」はしかし、軽いものではなさそうだった。

「台詞言ってたときもちょっと違和感あって咽ちゃったんだけどさ。なんか、普段から喉の奥がウッてなることが増えてて。今飲んだ炭酸も結構刺激が強くて痛くなってゲホゲホしちゃった。我慢しようと思ったんだけど」
「別に我慢するところじゃないって」

 ツッコミのように返事したものの、内心とてもザワザワしていた。炭酸が痛いと感じたことなんか、俺は今まで一度もない。彼女がどれだけ悪化しているのか、この症状は治るのか、想像がつかずに不安だけが風船のように膨らんでいく。

「とりあえずアレを……」

 気分を落ち着かせるようにハッと短く息を吐いた彼女は、机に置いていたバッグからアクア色のケースを取り出した。大きさも形状もメジャーのようなそのケースのフタをパカリと開けると、開けた部分に口を付け、息を吸い込む。種類は違うけど、中学の時に気管支が弱いクラスメイトが使っていたのと同じ、吸入するタイプの粉末薬だった。

 その姿を見て、ぞわりと鳥肌が立つ。心の一部がぐにゃりと凹んだ気になる。「千鈴の具合が悪いこと」を真正面から理解してしまったから。

 千鈴はあまりにも日々変わらず元気で、九月末から見た目には何の変化もなくて。だからこそ、こうして彼女が病んでいる姿を見ると、大きすぎるギャップに脆くも動揺してしまう。

「なあ、大丈夫か? 今日は撮影やめても――」
「やめないよ」

 全部言い終わる前に、彼女はこっちを向き、俺の提案を打ち消す。その黒々とした瞳は、強い覚悟を宿していた。

「痛みには波があるから、もう少ししたら治まると思う。そしたら有斗、もう一回撮ってよ」
「別にそこまでしないでもいいんだぞ? また時間なら作るからさ」
「それじゃイヤなの」
 そう言って、千鈴は撫でるように右手で自分の頭を押さえた。

「ワガママだって分かってるんだけどね。もともと時間作れる日が週に二日あったとしてさ、あと何本撮れるんだろうって考えるようになったんだ。一回パスしたら、それだけ撮れる本数が減っちゃうんだよね。だから、今できるなら、今やりたいなって。ほら、さっきも台詞で言ったじゃない? 『これくらいしかできないだろう』って自分の期待値を下げちゃうと、きっと最大値も下がっちゃうから」

 YourTubeの企画やトークについてまとめているノートを机に出して開き、ゆっくりページを捲る。やや俺も見えるような位置に置かれていたのに気づいたのか、不意に彼女は「恥ずかしいから見ないで」と、そのノートを持ち上げて胸元に引き寄せた。

「強いんだな、ホントに」
「私が?」

 全く予想外のことを言われたのか、驚いたように眉を上げている。

「クラスでもいっつも明るいしさ。みんな千鈴が病気なんて絶対に気付いてないと思う。こんなに大変なのに、落ち込んだりしないで振る舞えるのはすごいよ。それに動画のことだって、こうやって『残したい』って決意してちゃんと続けられるの、千鈴は強い人なんだなって思う」
「……そんなことないよ」

 千鈴はぽつりとそう呟いた後、俺の言葉と自分の返事を咀嚼するように、小さく何度も頷く。

 俺はさっきのノートにちらと見えた彼女の殴り書きを思い出していた。話す内容らしきものをまとめた横に、罫線を無視して斜めに「喉が苦しい」と書かれていた。あの文字を見たとき、どうしようもなく胸がギュッと締め付けられたのだ。

 あんな風にノートに書いてまで動画を頑張っている彼女が、なぜ自分が強くないと思うのか。話を聞きたかったけど、それ以上踏み込まれたくなさそうな表情をしていたので押し黙った。いつか理由を教えてもらいたい。もっと彼女のことを知りたい、そしてできるなら彼女の力になりたいという想いが心の中でぐるぐると渦を巻く。一ヶ月半前はただ動画を手伝ってあげるだけのつもりだったのに、気付けば彼女のことがとても愛おしくなっていた。

「どうしてもって言うなら動画撮影も編集もやるけどさ。でも、もともと千鈴が言ってた『声を残したい』って意味ではもう結構投稿したし、喉に大きな負担かけるようなことはさせられないから。絶対無理はするなよ」
「ん、分かってる。ありがと」

 座ったまま頭を下げて、彼女はポケットに入れていたのど飴を舐め始めた。時折「あ、あ」と小さく声を出して、喉の状態を見ている。

 それを見て俺は、彼女が、季南千鈴が、近いうちに本当に声を失ってしまうのだと、否応なく理解させられた。



 16 世界中に

「ふう……」

 十一月五日、金曜日の十二時過ぎ。一階の中庭にあるベンチに座って、花のない雑草の景色だけを視界に入れながら嘆息する。昼休みは始まったばかりで、生徒はほとんどいない。まだ教室でお昼を食べているのだろう。千鈴も、女子の友達と一緒に食べていたな。

 この前、薬を吸入していた千鈴のことを思い出す。想像が悪い方にばかり転んでしまい、リラックスするためにご飯の前にここにやってきた。

「よっ、アルト」
「慶、どした?」
「ん、渡り廊下で下眺めてたら見えたからさ」
 声をかけてきた吉住慶が、隣のベンチに腰掛けて、グッと伸びをした。

「そうだ、中三のときに同クラだった淳史(あつし)さ、来年の春に関西の方に引っ越すらしいぞ」
「マジか。送別会しないとな」
「誰かに幹事お願いしよう」

 俺がぽつんとここにいることを心配して来てくれたに違いない。様子を窺うように、雑談を投げかける。

「季南さんの動画投稿、順調?」
「ん、まあな」
「そっか、良かった」

 今この話題を深掘りする気にはなれなくて、適当にはぐらかして、「あ、そういえば聞いたぞ」と続ける。

「慶も山辺さんと放課後一緒にいたらしいじゃん」
「山辺さん、知ってるのか」

 一年のときに同じクラスだったと教えると、慶は細く溜息をついた。

「ちょっとファミレスで相談乗っただけだよ。山辺君さんのところ、お父さん病気で入院してて大変みたいでさ。ほら、うちも父親入院したことあったから、それでな」
「病気……」

 あまりにもピッタリすぎるタイミングで出てきた単語を、思わず繰り返してしまった。俺の反応に、慶は目を見開いて顔を覗き込む。俺が病気だと勘違いされたのではないか、と瞬間的にパニックになってしまい、慌てて手を大げさに振り、「いや、俺じゃなくて!」と結果的に墓穴を掘ってしまう。

「アルト、俺じゃないってどういうことだ……?」
「いや、その……友達から聞いた話で!」

 これ以上、この話を誤魔化し切るのは難しいので、友達の話で押し通す。かなり頭のキレるヤツだけど、どうかバレませんように。

「友達の大事な人が病気でさ。命に関わるものじゃないんだけど、本人が不安がってて……友達がさ、『相手にどうやって接したらいいかな』って困ってるんだよね……」
 かなり無理のある話、信じてもらえないかもしれない。

 緊張で心音が大きくなる。唾を飲む音が喉の奥から聞こえる。

「……なるほどね」
 そこまで聞いた慶は、シルバーのメガネを両手で外して、空に書いた自分の考えを読むかのように上を見上げる。

「オレだったらどうするかなあ。相手と一緒に暗くなっても多分良いことないし、かと言ってひたすら励まし続けるのも、相手がしんどくなっちゃうかもしれないしな。だから……そばにいるかな」
「そばにいる? それだけ?」

 あまりにも単純な答えに訊き返すと、彼は「そう」と頷きながら短い前髪をサッと撫でた。

「前にいて導いたり引っ張ったりするんじゃないよ? マラソンとか駅伝の監督に近いのかな。走ってる人の横にいて、『その調子だ』って褒めたり、ペース落ちてきたら『頑張れ』って励ましたり。そうやって、並走してあげるのがいいんじゃないかなって思う」
「なるほどな」

 前で案内するわけでもなく、後ろからひっそり支えるわけでもなく、横にいてあげる。確かに、それが千鈴との理想の関係かもしれない。

「ありがとな。うん、俺もそれが良い気がする。友達に伝えとくよ。よし、お昼食べてくるかな」
「解決しながら良かった。オレも教室戻るよ」
 立ち上がった俺に、彼は「そうだ、アルト」と声をかけた。

「ん? どした」
「その友達に伝えてくれよ。困ったらまたここで話聞くよ、って」

 思わず顔が強張り、その後苦笑いしてしまう。やっぱり、慶のことは騙せない。でも、それでもこうしてちゃんと話に乗ってくれたことが、本当に嬉しかった。

「おう、伝えておくよ。多分、喜ぶと思う」
「それなら何より」

 俺に背を向けて手をヒラヒラさせながら、慶は中庭から渡り廊下に行き、教室のある南校舎に向かって歩いていった。

 ***

「んっと、ああいうのは何のコーナーにあるんだ」

 本棚をゆっくりと巡りながら独り言。司書さんがいるカウンターには木製の立方体を組み合わせるタイプのカレンダーで、「十一月六日土曜 返却 十一月二十日」と表示されている。

 いつも借りたい本は高校の図書室で借りるし、ちょっと雑談が聞こえた方が(はかど)るタイプらしく勉強も家やファミレスでやるので、図書館に来ることはあまりない。今日は本を、彼女の病気に関係する本を探しに来ていた。

 慶からアドバイスを貰ったように千鈴と並んでそばにいるためには、病気を不安がるだけじゃなくて、俺自身もきちんと向き合う必要がある。

 千鈴から聞いた話をもとにネットで調べてみたけど、同じような症状の病気はやっぱり咽頭がんしか出てこなかった。彼女の言う通り、本当に珍しい難病なんだろう。であれば、治療法は調べられないし、病院と医者に任せるしかない。「これを食べれば治る」なんていう民間療法のサイトも幾つか見つけたけど、なんだか胡散臭くて勧められなかった。

 とすれば、俺にできるのは、彼女が声を失くした後の話だ。喋れなくなった人がどんな風にコミュニケーションを取るのか。そこが分かれば、彼女も少し安心するかもしれない。おそらく介護・福祉の書棚に行けば、探しているものに近い書籍があるんじゃないだろうか。

「……あった!」

 障がい、というカテゴリーの棚を見つける。千鈴が障がいなんて、と考えると複雑な気分になった。

 まずは手話の本。なるほど、耳の聞こえない人のためのもの、というイメージが強かったけど、確かに話せない人にとっても手で喋れるのは便利かもしれない。

 次に見つけたのは、筆談。書き方のポイントや冗長にならないための言葉の置き換え、筆談するのに便利な文房具やアプリ。スムーズに会話するためには、幾つかコツがあるみたいだ。

「他には……ん?」

 指を水平に動かしてタイトルを確認しながら棚を上から順に見ていくと、「この一冊で丸わかり! 食道発声法」という本が目に留まった。ザッと見ただけだと仕組みはよく分からないけど、要は体の器官である食道の一部を利用して話せるようになる、ということらしい。

 うん、いいな。これだけあれば、千鈴も喜んでくれるだろうか。たとえ声を失くしても、クラスメイトとも家族とも、もちろん俺とも、ちゃんとコミュニケーションが取れる。その希望があれば、彼女も今よりもっと前を向けるかもしれない。

 俺は意気揚々と本を両手で抱え、自動貸し出し機に向かって足早に歩いて行った。

 ***

「さて、千鈴!」

 自信に満ちた声で彼女の名前を呼んだのは、土曜に本を借りてから四日経った、十日水曜だった。前回と同じように、たまに咳込んで休憩を取りながら、演劇ガールの九本目の撮影を終えた直後。もっと短い時間で終わることは分かっていたけど、敢えて二時間予約したレンタルスペースで、彼女は何の用か分からず、ポカンとしてこっちを見ている。

 十一月ももう中旬に差し掛かろうとしている。SNSからはハロウィーンの話題がすっかり消え、クリスマスのネタも出始めた中で、いつの間にか彼女と動画を作り始めてから一ヶ月半が経っていた。

「どしたの、有斗?」

 返事の代わりに、俺はリングファイルを出した。中を開くと、色鮮やかなルーズリーフが出迎える。時間に余裕をもって少し長めに予約しておいて良かった。ゆっくり説明できる。

「千鈴の話聞いてさ。ちょっと考えたんだよね。声が出なくなった後にどうするかって。一応俺なりに、手話とか筆談とか調べてみたんだ。あと食道発声法も!」

 千鈴に話す暇も与えず、ページを捲る。カラーコピーした本の一ページ、普段の授業より真剣にまとめたノート、ポイントが分かるように貼ったシール。日月火と時間を使ってまとめた、俺の力作だった。

「な、どれか一種類じゃなくてもさ、こういうのを幾つか組合わせていけば、みんなともコミュニケーション取れるんじゃないかな。筆談って簡単だと思ってたけど、結構コツがあるんだな。俺初めて知ったよ」
「……ありがと」

 彼女は一言、ポツリとお礼を呟く。その言い方はしかし、心からの感謝ではなく、無碍(むげ)に否定することをためらうような、気遣いのトーンだった。

「でも、うん、この辺りは、間に合ってるかな」
「……ま、そうだよな。お医者さんとかにも言われてると思うし」
 彼女の反応に、少しだけドライに返した。

 自分で自分を俯瞰で見て、「嫌な返事してるな」と思う。こうなる可能性もあると分かっていたけど、日曜から頑張って作ったものが受け入れてもらえないのは、やっぱり苛立ちが募る。

 真顔でそんなことを考えていた俺に、彼女はゆっくりと頭を下げる。

「それもそうなんだけど……ごめんね、有斗。多分、ちょっと違ってて」
「違うって?」

 ぶっきらぼうに聞いてしまう。すぐには穏やかな口調に戻せなくて、自分で自分が嫌になる。

「手術の後も、やりとりは出来るよ、きっと。それこそ筆談で、ノートに字書いたっていいんだし。でもね、そうじゃないの。声がなくなるのが怖いの」

 その言葉に、俺は思考が固まる。俺が言っていたことと同じじゃないか、と思って数秒後、とんでもない思い違いをしていることに気付いて「あ……」と弱々しい声を出した。

「声がなくなるのが怖いの、すごく怖いの。出なくなるのが、声が出せなくなるのが、怖いの」

 寒さを我慢するかのように両腕で自分を包み、千鈴は口を開いた。怖い怖いと同じ単語を繰り返すその姿は、さながら動画編集で一つのシーンを切り取って、繰り返し再生したかのよう。冷静でないことは、俺にもすぐ分かった。

「もう自分の声が出せない。今こうやって話してる声が消えちゃうの。誰にも届かない、自分の耳でも聴けない。食道発声も調べたよ。でも、『こういう方法で音が出る』ってだけだった。今の私の声じゃない。だから、どうやったってもう、どうにもならないんだなって」
「ごめん! ごめんな、千鈴!」

 座っていた椅子を倒すように勢いよく立ち上がり、誠心誠意頭を下げる。わざとらしくなければ、土下座したっていいと思ったくらいだった。

 俺はバカだ。手話だの筆談だの、勝手に解決法を見つけた気になって、「これで喜んでくれるに違いない」なんて期待を押し付けて、悦に浸ってノートをまとめて。

 医者じゃないから、なんて考えて自分にできることを探した結果、千鈴の感じている不安と悲しみを見誤った。こんなこと、彼女の立場になって想像してみたらすぐに分かったはずなのに。

 コミュニケーションなんか幾らでも取れる。友人なら、指差すだけで伝わることだってある。大事なのはそんなことじゃない。

 日々話している、誰かに伝えようとしている、ふと歌っている、大好きなお芝居をしている、その声を失うことが何より怖いのに、俺はそれを埋める方法ばかり考えていた。


「ねえ、有斗。ちょっと前に私のこと、強いって言ってくれたよね?」
「ん、ああ」
「あれさ、ちょっと嬉しかったんだよね。そう見えてるなら、私が周りにはちゃんと気を遣えてるってことかのかなって。本当は、私はそんなに強くないから」

 椅子に座り直した俺に、彼女は微笑みかける。でもそれは、今まで見た中で一番悲しい笑顔だった。

「いっつもね、怯えてるんだよ。喋れなくなる夢もよく見る。体は弱ってないし、頭はまともに働いてるから、手術の日に向かってカウントダウンを進めてるみたいに生きてる。全然強くないんだ」
「そっか……」

 相槌を打つことしかないできない。それでも、彼女の吐き出す濁った想いを、受け止めたい。

「余命僅かな高校生の小説とか幾つか読んだけどさ、みんなすごいね、病気のことなんか表に出さないで、気丈に振る舞ってて。私はああはなれないんだ」

 饒舌に、彼女は話し続けた。演劇ガールで大好きな台詞を話しているときより流暢で、でもあれよりずっとずっと暗い、端々に鉛の球が付いているかのような言葉。

「前にさ、私のノート見たときあったでしょ? あの時に、私が殴り書きしてたの見えた?」
「ああ。喉が苦しい、って書いてあった」
 彼女は頷いて、僅かばかり咳込んだ。

「あれね、わざと見せたんだ。有斗に知っててほしくてさ。みんなに秘密にしてるから、世界中で親の他に一人くらい、私がこんなにしんどい思いしてるって分かってほしくて。だからわざと見えるように開いたの」

 そうだったのか。だからあのとき、ノートを少し俺寄りに置いてたのか。

「……幻滅した? 季南千鈴はこんなヤツだよ」
「…………しないよ」

 絞り出すように、胸の中で泳いでいた小さな本音を返す。彼女の話を聞いて少しだけ嬉しくなったと、と言ったら彼女は怒るだろうか。ちゃんと怖がっている普通の女子だったと分かったこと、そしてその弱さを俺にだけ見せてくれたことで、心がじんわりと熱を持つ。そして、彼女の心の中が覗けたからこそ、途方もない切なさが溢れていく。

「他の人ならいいのに、って思っちゃうんだよ、私。なんで私なんだろうって。もっといるじゃん、そのくらいの罰が当たっても仕方がない人。私はそこまでひどいこと、してないはずなのになあ」

 こっちに一瞥もくれないまま愚痴のような呟きを吐き捨て、千鈴は大きく溜息をつく。

 ほら、こういう時は彼氏の出番だ。漫画でもドラマでもよく見るだろ? こうやって落ち込んでいる、ヤケになっている彼女に、救いの言葉をかけてあげるんだ。彼女が元気を取り戻せるような、奮起しそうな言葉を。

 違うって、そうじゃないんだよ、違うんだよ。彼氏なんだからちゃんとしろよ。

「ごめんね有斗。なんか、有斗の前では良い子やらなくてもいいなあって思――」

 久しぶりにこっちに視線を向けた千鈴の顔が、みるみるうちに固まっていく。
ほら見ろ、お前のせいだぞ。
 お前が泣いたりしてるから。

「俺も、一緒だから……俺も、他の人ならいいのにって、思ってるから。だから……千鈴だけがイヤなヤツなんじゃないよ」

 ポケットを漁るけどハンカチなんか入ってなくて、ブレザーの袖で目元を拭う。随分とカッコ悪い、だけどそんな理由では涙は止まってくれそうにない。

「ごめんね、有斗。私が変な言い方したから、悲しい想いさせちゃって」
「そんなんじゃなくて!」
 思わず叫んだ。今の俺に、ぐしゃぐしゃな心を隠す余裕はない。

「誤解しててごめんな、って。あと、強いなんて褒めてごめんな。千鈴、別に強くなくていい、今の千鈴のままでいいよ」

 千鈴は黙って首を横に振る。そんな曇った表情、させたくなかったのに。

「反省ばっかりだよ。今までも、もっとちゃんと話聞いてあげれば良かった。あとは……もう少し早く付き合ってれば、これまでにもっとたくさん話聞けたのになって」

 ネットを調べたとき、同じような悩みが書かれた質問箱のページの回答欄に、大人が「みんな多かれ少なかれそういうことはあるから。辛いのは君だけじゃないよ」と答えていた。違うんだよ、他人と比較して辛さの大小なんか決めなくていいんだよ。本人が本当に辛いと思うなら、「本当に辛い」でいいんだよ。

 そして今、千鈴は、本当に辛いのだと思う。

 本当に。なんで、なんで、千鈴はこんなに明るくて元気でずっとお芝居やりたいなんて夢もあるのに、なんでこんなことになるんだよ。ねえ神様、千鈴が何したって言うんだよ。ふざけるなよ。
 脳内で振り上げた拳は、俺自身に向けられている。


『もっといるじゃん。そのくらいの罰が当たっても仕方がない人』

 千鈴の言う通りだ。いっぱいいる。そして俺も、その一人だと気付かされる。

 何人もの他人を不用意に傷つけた。相手が悪いことをしていたのは事実だけど、薪をくべて、煽って、炎上で裁いた気になっていた。やったことの罪を重さに対して、大きすぎる代償を被った人もいるだろう。匿名の人間を私刑(リンチ)した俺達もまた、誰からも見つからない匿名だったのに。

 声がなくなっていいのは俺達みたいなヤツなんだ。千鈴じゃない。
まだ何の覚悟もできてないのに、色んな人への謝罪の気持ちが募って、「代われるものなら代わりたい」なんて言葉ばかりが頭の中を乱雑に巡った。

「……ありがとね。有斗がそうやって思ってくれるの、嬉しいな」
 千鈴は、俺の言葉を噛み締めるようにコクコクと頷く。

「強くなくていいよね……そうだよね……わがまま言ってもいいんだよね……」
 俺と彼女の視線が交わる。まっすぐ俺を見ていた彼女の目が、瞬きする度に赤くなっていく。

「もう一つわがまま言っていいなら……お芝居もっとやりたかったなあ。この声でたくさん台詞言いたかったなあ」

 やがてその目に水が溜まり、次の瞬きでポロリと水滴になって頬を伝った。

 座ったままの彼女に近づき、グッと抱きしめる。千鈴が痛くても構わないつもりで、きつく腕を寄せる。

「悔しい! 私悔しいよ! もっとやりたかったのに!」

 何もかけてあげられる言葉がない。「一緒に頑張ろう」なんて綺麗な台詞はいくつも浮かんだけど、今十分に頑張って生きている彼女には意味のないことだった。
 だから、俺ができることは一つだけ。慶からも教えてもらったことだけ。

「千鈴、そばにいるよ。演劇ガールの動画、たくさん撮ろう。」
「うん……うん!」
 背中に手を回してくれた彼女と、一緒に泣いた。

 一秒でも長く、君の声を残す。

 世界に届いてほしい。「季南千鈴はこんなに素敵な声をしていたんだよ」と、YourTubeの片隅から、世界中に響いてほしかった。