夕方四時前に郵便局を出た。
 通りには、晩の献立を脳裏に巡らしていると見受けられれる主婦たちが繰り出し、帰宅途中の中高生にすれ違いがてら遭遇した。

 郵便配達をしているとたまに声を掛けられる。

 「これ、持ってて」

 配達途中、特定のお客様の郵便物は受け取らない。

 「お近くのポストに投函して下さい・・・」

 そう案内して、引き下がる人、ごねる人、様々だ。

 中に、意に介さない、厚かましい輩がいた。

 例の如く、「郵便物持ってけ」と掴まった。

 「ポストへ・・・」
 と案内しながら、手に持っていた封筒に目がいった。

 封筒の余白隅々まで見渡した。

 何処にも切手が貼られておらず、我が目を疑った。

 「アンタに預けりゃ郵便代タダだろ」

 僕は相手にしたくなく、そいつを避けたかったので、無言で自転車に跨り何も言わずに立ち去ろうとした。

 その男は、自転車に跨る私の肩を掴み、切手がどこにも見当たらない封書を、

 「この紋所が目に入らぬか!」
 とばかりに、僕の目前に押付けてきた。

 「切手のない郵便物は回収されません」

 男は顎を突き出し、方角を指し示した。

 男の顎先にコンビニが見えた。

 「付いて来い。切手買って貼ってやるから。文句は居合わせねえぞ」

 無視すればよいものを何気に腕時計をみてしまった。

 配達に遅れ、最後に訪問予定の飛鳥 胡桃との約束の時間を違えてしまうことが僕にとって最大の恐怖だった。

 無視して自転車を漕ごうとした。すると、そいつは自転車を漕ぐ僕に飛び掛かり、首に腕を巻き付けてきた。

 「逃さねえぞ」

 「やめて下さい」

 「いや、お前には受け取る義務がある。その制服を着てる時点で」

 僕は強引に振り払った。

 関わりたくないので後ろは振り向かなかった。

 自転車を漕ぎ出し、走り出す際に、背中越しで、『ゴツン』と鈍い音が聞こえた。
 僕はただ真っ直ぐ前を見据えた。そう、飛鳥 胡桃の元へたどり着く為に。
 ただ、彼女に彼女と関わる誰かから、彼女のことを思いながら託された普通郵便3通とレターパック1件と国際郵便1通を届ける役割を果たすために・・・

 ぼくは、最終目的地へ予定通り辿り着く為に、極めて事務的に、可能な限り迅速に対処する事だけを頭の片隅に保持しながら、一件目の配達物を郵便ポストに投函した。
 腕時計を覗くと、予定時刻を大幅に超過していた。
 ペダルを漕ぐ脚により強い負荷をかけた。
 遠くで雷鳴が時折轟いていたが、雨滴は舞い降りず、ごく稀に、鼻の頭を霞める程度の雨粒が触れるだけだった。
 それから、腕時計を身に付けた左手でポストの封入口を跳ね開け、時刻を確認しながら郵便物をポストに投函していった。
 予定時刻をジリジリと詰めていった。
 途中猛スピードでやってくる救急車を見かけたが、アッと言う間に去っていったので気に留めることはなかった。

 辺りが薄暗く鳴り出した。
 交差点で信号待ちをしていたら、パトカーがサイレンを鳴らして飛び込んで来た。
 信号が青に変わった。
 パトカーはもう交差点に近接している。僕は時計を見た。この時間の熟すべきノルマに訪問件数が5件足りない。道路の反対側の横断歩道の信号は『青』だ。
 パトカーから、『緊急車両通ります。緊急車両通ります』のアナウンスが拡声器から響く。
 横断歩道を渡ってる人は一人もいない。
 
 彼女の声を思い出した。

 「今日から、私の専属担当でお願いしたいのですが・・・」

 僕の脚がペダルを踏み、横断歩道に繰り出していた。

 『緊急車両、通ります! 止まって! 危ない!」

 「GO!」
 信号は『青だ』

 『青』の歩行者マークはくっきりと点灯している。間違いなく点滅していない。

 「貴方に配達して貰いたいんです。私宛の郵便を・・・」

 事件・事故が起ころうと、この世の誰かが死にそうであっても僕は、届けなければならない。彼女に。彼女宛の郵便を。彼女に思いが込められたお届け物を・・・

 道路の反対側に渡り付いた時、後方でクラクションの音がした。
 僕は漕ぐ速度を最大MAXに上げ、車輪をフル回転させた。
 急ブレーキでタイヤが擦れる音が響いたが、すぐに音は遠のいていった。
 周囲の木々や建物が走馬灯のように遷移する程、僕は居場所を一瞬一瞬駆け抜けていた・・・

 夜を迎え、街路灯が灯る。
 街路灯の下で、郵便物の宛名と住所を確認する。毎回、次の訪問宅を間違いないよう慎重を期す。夜陰を迎えると投函スピードがガクッと落ちる。
 約束の午後八時が刻々と近付いていた。そろそろ事前連絡しなければいけない時間だ。あと十件近く配達を残していた。残り十五分前だった。連絡を入れると時間オーバーし兼ねない。連絡を入れるか、このまま突き進むか迷った。迷ったことで時間をロスしたことを覚悟し、腹を決めて、携帯を手に取った。

 彼女の番号に掛けた。

 数コールしても出ない。留守番電話になった。少し間が空いた。

 「・・・郵便局です。これから配達に伺います・・・」

 「コウノさん?」

 電話は繋がった・・・

 「時間通りね」

 「すいません。それが、ギリギリか少し遅れそうで」

 「えっ?」

 「途中、お客様に掴まってしまって」

 「そう。どんなお客さん?」

 「変なお客さんで。切手を貼ってくれなくて」

 「えっ? 郵便出すのに? そんな人いるの?」

 「切手貼ってくれなきゃ、郵便局の収入になりません。僕の給料も下がります」

 「フフ。今晩は、私が沢山郵便出さなきゃいけないのかなあ」

 「えっ、そんなに沢山?」

 「早く来て」

 「はい。出来る限り早く。ただ少し遅れるかもしれません」

 
 「駄目。時間厳守。貴方が午後八時って言ったんだから。私、時間を守れない人と約束を守れない男の人、好きになれないの」

 「ダッシュでお伺いします。午後八時にインターフォンを押します」

 「わかった。待ってます」

 ごく何気ない会話だ。ただ、お客様という目に見えない一線が何となくあるかもしれないという思いがとてつもなくもどかしい。
 僕の思いを届けたい。届いてほしい。ただひたすら彼女に近づく為に、残りの郵便を投函するポストを探し続けた。
 残り2件。あと1件こなせば彼女に届く。
 
 郵便物を見て僕の視点は金縛りにあった。

 宛名に見覚えがあった。

 僕はその氏名をよく、身分証に刻印されたものとして目の奥に記憶があった

 『竹無 要』

 珍しい苗字だったのでよく覚えている。

 送付先住所は、飛鳥 胡桃 の住まいと同じ。

 地番の脇に、『飛鳥 胡桃』方 と表記されていた。

 「竹無 要・・・郵便局員。ここの担当で行方をくらました男だ・・・」

 差出人が地番を間違えたのか? 両隣の建物を探した。両隣は最近解体工事があり、どちらも更地だった。

 飛鳥 胡桃の敷地に借家か別棟や離れがあるのでは?

 彼女はマスコミ嫌いで有名で、人間不信で名が通った作家だ。

 要塞のように周囲に塀を巡らし、塀の内側沿いには空に向かい聳える樹木で全て覆われている。

 どう考えても、郵便物の届先は、飛鳥 胡桃宅しかない。

 頭の中が真っ白になると同時に収まりきらない妄想が次々に駆け巡り、心穏やかではいられなくなった。

 電話が鳴った。
 腕時計を見た。
 
 「もしもし、時間守れなかったね」

 腕時計が八時一分を刻んでいる。

 「一分だけ待ってあげたんだけど」

 「すいません。もうご自宅の前に居ます」

 防犯カメラの赤いセンサーがひと際煌いた。

 「知ってるよ。郵便手にしながら考え事してたの」

 「お伺いしたいことが」

 「何?」

 「飛鳥様以外のお名前の方の郵便物が、お届け先に」

 「うん。分かってる」

 「竹無 要・・・様の郵便物は、こちらで・・・」

 「そうだよ。よくわかったね。どこまで推理できてます?」

 「推理?」

 「文学青年だって。要君が。サスペンスとかホラーとか子供みたいに独り言のようにいつも夢中で話してたって」

 「・・・」

 「でも退屈だったみたい」

 「退屈・・・」

 「自分がないよ。郵便屋さん」

 「・・・」

 「ただの郵便屋さん」

 「・・・」

 「届けるだけの人」

 「・・・」

 「伝書鳩みたい」

 インタフォーンから流れる、飛鳥胡桃の一言一言に身動きが一切取れない。

 「久し振りに、作品が書けそう」

 防犯カメラを僕は凝視し続けた。

 「私が書きたい作品が」

 真上で雷鳴が轟く。

 「冷徹さといい意味でのずる賢さと文句を言わせない位の裏切りが圧倒的大多数の凡人を完膚無きまでにねじ伏せられる」

 目前で稲光が光った。

 「貴方は、ただ届けるだけでいい」

 硬い木製の扉が開いた。

 中から男が出てきた。

 見たことのある男だった。ただ、郵便局員の制服は身に纏っていなかった。

 段ボール箱をひと箱差し出された。

 男は箱を開いた。

 案内状が多数入っていた。

 「発送お願いします」

 男は振り向き、扉の中へと消えた。

 インターフォンから、飛鳥胡桃の声が流れた。

 「貴方に大事なものを託すけど、絶対遅れないでね。遅れて届きませんでしたわ駄目だよ。よく判ったでしょ」

 『飛鳥胡桃♡竹無 要』婚礼の儀のお知らせ

 と、はっきり印字された文字が目に焼き付いた。

 「早く、免許取ってね。そうすれば、もう少し早く辿り着けるよ。目的地に」

 インターフォンから吐き出される彼女の声は、同時に鳴った雷鳴にかき消された。

 インターフォンの音声は切断され、防犯カメラから注がれる赤いセンサーは消えた。

 僕は佇んだ。

 しかし、雨は降っていなかった。繰り返し雷だけが鳴っていた。

 パトカーのサイレン音が刻々と近付き、音が次第に大きくなった。

 
 切手を貼らず、僕の首に巻き付いて来た男は、僕が払いのけた際、地面に後頭部から落下した。五十三年間の生涯だったと裁判で知った。

 僕は今、塀の中でこの文章を書いている。

 最近、飛鳥胡桃と文通を始めた。

 彼女は今、独り身らしい。

 今日、山田先生が面会に来ることになっている。

 山田先生も独りらしい。今は・・・


  (了)