寿命の見える少年と幸薄少女、硝煙の香り。






「闇医者、って……日本にもいるんだな」

 傷口が熱を持っているためか、やけにボンヤリする思考。
 そんな中で俺は、いまや下らない物事への感動を覚えていた。こんなのゲームとかの中でしか見たことがない、医師免許を持たない暗部の医者。
 そのもとへ担ぎ込まれた俺は、患部に包帯を巻かれていた。
 幸いに弾は貫通してくれていたらしく、大きな手術は必要ない、とのこと。

「お兄ちゃん……」
「海晴。うなされてるな……」

 ベッドに腰かけた俺は、そこで眠る妹を見た。
 海晴はあの後、意識を失ったのだ。相当に緊張していたのか、あるいは兄を撃ったことがそこまでショックだったのか。理由は定かではないが。
 とにかく、結果的に妹を殺人犯にしなくてよかった。
 勝手な憶測ではあるが、海晴の撃った弾はミレイに向かうはずだったのだろう。

「とりあえずは、良かった――か」
「良くないでしょう。なにを感慨に耽っているのかしら?」

 そう言うと、ツッコみを入れられた。
 声の主は――ダース。

「いや、良かったというか。誰も傷つかなかったわけだし……」

 出入口に腕組みして立つ彼の言葉に、俺は苦笑いをしてそう答えた。
 ダースはアレンの連絡ですぐにあの場に駆けつけたのだ。そして今、こうやって俺たちの護衛をしてくれている。殺風景なコンクリ部屋にオネェ。
 なかなかにシュールな光景だったが、それは置いておくとしよう。

「誰も傷つかなかった、ね……ミコトちゃん。貴方はお馬鹿さん?」

 俺の返答にやや苛立った様子でダースは言った。
 それはこちらを心配してなのか、あるいは以前の忠告を受け入れなかったことへの憤りなのか。もしくは、その両方である可能性もあった。
 とにもかくにも、この後に雷が落ちてくるのは予想がつく。
 そう思っていたのだが……。

「……はぁ。もういいわ」

 だが、存外にあっさりとした反応だった。
 彼はそう言うと、おもむろにこちらへやってくる。

「お嬢様を守ってくれたナイト様ですからね。感謝しないと……」
「ナイト様って、大げさな」

 そして、俺の肩に手を置いてそう口にした。
 思わず謙遜の言葉が出たが、ダースはゆっくりと首を左右に振る。

「そんなことないわよ? 現にミコトちゃんがいなかったら、お嬢様は亡くなっていたわ。妹さんを巻き込んでしまったのは残念、というところだけど……」

 彼は海晴に慈愛の眼差しを向けた。

「私たちの反抗勢力に脅されただけで済んだのは、不幸中の幸いね」
「不幸中の幸い……?」

 俺はその言葉に首を傾げる。
 すると、ダースは大きく頷いて言った。

「えぇ、そうよ。『イ・リーガル』の鉄則は、目撃者や駒は殺すこと。放置しておいては足がついてしまうから、ね」
「………………」

 そこには、やはり俺たちとは感覚の違いがある。
 一般人である俺と海晴には、まずない考えだと思えた。いいや、考えは分かる。しかし、それを平然と言ってのける辺りが、裏社会の人間たる所以か。
 俺は一つ息を呑んでから、それでもどうにか気持ちを落ち着けた。
 ここまできたら、引き下がれないのだから。

「それで、ミレイは……?」
「お嬢様はいま、アレンと一緒に本部へと報告を行っているわ。ボスも今回の一件を無視はできないでしょうし、何より貴方たちのことをどうするかを考えないと」
「海晴は、巻き込まれただけだ。何も悪くはない……!」

 俺は思わず声を荒らげた。
 すると、ダースは口元に人差し指を当ててウィンク。そして、

「それは心配しなくていいわ。ミレイお嬢様が取り計らってくれると思うから――ただ、一番の問題は貴方なの。ミコトちゃん?」

 そう話した。

「え、俺……?」

 俺は彼の言葉に首を傾げ、訊き返す。
 ダースはふっと、そこからは真剣な表情になって続けるのだった。

「ミコトちゃんは、今回の問題に深く踏み込み過ぎた。そして何よりも『イ・リーガル』の内情も知ってしまった。先日程度のことなら揉み消せたかもだけど、こうやって巻き込まれた以上は――私たちも放置するわけにはいかないの」
「それって、つまり……」

 ――俺はもしかしたら、消されるかもしれない、ってことか。
 そう口にしかけて、やめた。代わりに大きく息をついて、呼吸を整える。

「あら、取り乱さないのね?」
「大丈夫。ある意味で覚悟してたことだから」
「ふーん、なるほどね。肝が据わってるというか、意思が固いのかしら」

 ダースはくすりと笑って、だがすぐに表情を引き締めた。
 その時だ。ドアをノックする者があったのは。

「入るぞ」

 短くそう言って、ドアを開けたのはアレン。
 彼の後ろにはミレイがいた。彼女は、俺を見ると――。


「ミコトくん……っ!」
「おわっ!?」


 一直線に、抱き付いてきた。
 ふわりと女の子の香りがして、気が緩んでしまう。
 しかしすぐに気付く。ミレイは、

「泣いてるのか? ミレイ」
「だって、ミコトくん! 私、どうしたら良いのかって……!」

 泣いていた。
 その顔は見えなかったが、たしかに泣いていた。
 俺はそんな、マフィアの娘とは思えない、優しい彼女の背を軽く叩く。

「安心して。俺は死なないから、絶対に」
「そんなの、分からないですよ……!」
「約束するから、絶対だ」

 ゆっくりとミレイの身体を押し返し、そのくしゃくしゃの顔を見て笑った。
 大粒の涙を流す彼女に、俺は誓うのだった。

「大丈夫。俺はそんな簡単にはくたばらないから!」

 根拠はない。
 だけれども、不思議とそう口にできた。
 なにか特別なものに後押しされるように、俺はそう約束をする。

「友達の言うことは、信じる! ――だろ?」
「ミコトくん……」

 呆然とするミレイに、俺はそう言った。
 すると、そこで……。


「いい雰囲気のところ申し訳ないが、ミコト――話がある」


 アレンの声があった。
 彼はこちらを見て、真剣な表情を浮かべる。

「あぁ、話……ね。俺はどうなるんだ?」
「その顔を見るに、ある程度の覚悟は出来ているらしいな」

 俺が答えると、彼は仏頂面に薄く笑みを作った。
 そして、こう口にする。それは俺の今後について……。


「ミコト、お前は我々のことを深く知りすぎた。それは本来、許されないイレギュラーだ。そのためボスと意見を交換し、その処遇を決めた」
「………………あぁ」


 俺は頷く。
 殺されるか、監禁されるか。
 どちらか、そう思われた。だが、

「ミコト、お前はこれから――」


 アレンの口にしたそれは、あまりに想定外の言葉だった。




「我々『イ・リーガル』のファミリーとなってもらう」


 




 ――翌朝。
 俺は大欠伸をしながら、学校を挟んで反対側へと向かっていた。
 時刻はまだ早朝5時。街も目覚めていないし、当然に人足も少なかった。そんな中を真っすぐに、ある場所へと向かう。それというのは……。

「あぁ、早いな――ミレイ。おはよう!」
「ミコトくんっ! おはようございます!!」

 あの日の公園で、ミレイと待ち合わせをするためだった。
 秋へと移り変わる頃合いに、俺たちの関係は以前から少しだけ変化する。恋人だとか、そういうのではないけれど――友達よりは、心が近い関係だ。

 どうしてこうなったのか。
 話は当然に、アレンからの提案があったあの日にさかのぼった。


◆◇◆


「ファミリー……?」

 俺はその単語を聞いて、まず疑問符が浮かんだ。
 ファミリー、すなわち家族。というのは、マフィアの世界で組織の仲間を表す呼び名だった。そのことは過去に映画で見たから知っている。
 だが、それということは……。

「俺に、マフィアの一員になれ……ってこと、なのか?」

 つまるところ、そういうことだった。
 しかし、そこからが問題だ。正直なところ意味が分からなかった。
 首を傾げていると、事の流れを教えてくれたのはミレイ。彼女は潤んだ瞳で俺を見つめて、少しだけ不安そうにこう告げた。

「お父さんにミコトくんのこと、話していたの。そうしたら――その、とても面白い少年だな、って。将来の有望株として、組織に入ってほしいって言ったの」
「…………へ? お、俺が!?」

 驚いて声を上げると、小さく頷く少女。
 しかしそこで、アレンがこのように補足した。

「だが、これは苦肉の策でもある。お嬢様を救った人間を始末はできない。かといって、放置をすることもできなかった。だから、監視下に置く結論に至った」

 それは、感情が排除された論理的な帰結。
 なるほどミレイの言葉を理詰めで語るとそうなる、か。
 俺は一つ頷いて、アレンに向かって確認をするように問いかけた。

「でも、そうなると条件がありそうだな」――と。

 仮にも相手はマフィアだ。そういった組織だ。
 だとすれば、それ相応の交換条件や何かがあって然るべきだろう。

「あぁ、それなのだがな――」

 そう思ったのだが、アレンの口から出たのは意外な言葉だった。


「ミレイお嬢様を裏切らなければ、それでいい――とのことだ」
「え……?」


 思わず呆けてしまう。
 それってことは、つまり……。

「今まで通りにしていれば、それでいい……ってことか?」
「………………うむ」

 そういうことだった。
 俺はつまり、これまで通りにミレイの友達として彼女を大切にする。
 それこそが『イ・リーガル』の一員になる条件であり、役割だと云えた。

「それなら――」

 少し考えてから、俺は了承しようとする。
 その時だった。

「待ちなさい! そんな簡単に決めるべきではないわ!!」

 ダースが厳しい表情で、そう声を上げたのは。
 彼は腕を組んで、こちらを睨むようにして口にした。

「こちらの世界にやってくる意味――それを軽く考えてはいけないわ。毎日が生きるか死ぬか、その境目を歩くようなことなの。正義か悪、そんな二元論で語れないものも出てくる。ミコトちゃんには、その覚悟があるの?」
「それ、は……」

 そう言われて、ほんの微かに尻込みする。
 言うまでもないが、これまでの人生を一般人として歩んできた俺だ。そんな身がいきなり、生死を賭けた日々に飛び込む勇気を持つなど、簡単ではなかった。
 それを見透かしていたダースは、鋭くそれを指摘したのである。

「……ダース」
「ごめんなさいね、ミレイお嬢様。でも大切なことだから……」

 どこか悲しげな声で彼を見るミレイ。
 しかし、それでもダースは意見を曲げることはなかった。
 そうしていると、間に割って入ってきたのはアレン。彼はこう提案した。

「あぁ、だからオレから提案がある」
「提案……?」

 首を傾げると、アレンはこう続ける。


「ミレイお嬢様を守るため、ミコトの判断力を貸してほしい」――と。


◆◇◆


 そして、今に至る。
 通学路を歩きながら、俺は一つ息をついた。

「学校での、ミレイの護衛――か」

 そう、それが提案された内容だ。
 俺は仮のファミリーとして、学校でミレイを守る。
 それと同時に、緊急時には二人に連絡を入れて事態の鎮静化を図る。俺の身の安全はアレンとダースが保証する、というものだった。
 たしかに、普通の高校生である俺にできるのはそれが限界に思える。
 アレンは感情に流されない、そういう男らしかった。

「そういえば、体育祭がもう少しですね」
「ん、あぁ。そうだね」

 そう考えていると、ミレイが話しかけてくる。
 どこか楽しげに。

「私、そういった催しが初めてなので楽しみです!」
「ははは、帰宅部にはキツいんだけど」

 無邪気に喜んでいる少女に、俺は少し苦笑いをした。
 しかし、気持ちを切り替える。自身の持つ想いを確かめて、頷く。


 そして、改めて誓うのだった。
 こんな日々を続けられるように、俺が彼女を守ろう――と。

 




 それは休み時間に起こった。
 いくら護衛をするといっても常にそばにいる、というわけにはいかない。だがせめて目の届く範囲にいるようにする。それだけは約束だった。
 そんなわけで俺は、自分の席に気怠く座りながらミレイのことを眺めている。彼女はいま、他の女学生から誘われて何やら雑談をしていた。

 たどたどしい様子で受け答えするミレイ。
 しかし、そんな光景もまた日常の一場面だった。
 本日は平穏なり。彼女の寿命も大きく変化していないし、大丈夫だろう。

 そう思っていた時だった。

「坂上ってさ、赤羽と仲良いよな?」
「ん、なんだよ急に」

 不意に、そう声をかけられる。
 それは前の席の男子生徒――名前は田中。

「いいよなぁ! どうしてお前が、学園のアイドルとお近付きになってるんだよ!」

 彼はそう言って頭を抱えるのだった。
 ちなみに、学園のアイドルというのはミレイのこと。
 今さらながら彼女は学校の中でも一、二を争う美少女だった。そのため転校初日から校内は彼女の話題で持ち切りとなり、今では知らぬ者のいない有名人だ。
 もっとも、あの子がそれを自覚しているかは不明だが……。

「なんでって、隣の席だし……」
「そうだとしても、一緒に登下校とか聞いてないんですけど!? お前、自分が学校内で噂されてるの知らないのか!?」
「……え、俺もかよ」

 それは初耳だった。
 彼女と登下校するようになって数日だが、もう噂になっているのか。

「まぁ、それには事情があってだな。笑ってもいられないんだ」
「どんな事情でも羨ましいよ。替われよ~……」
「はははは……」

 田中が大きくうな垂れる。
 彼にミレイの素性を聞かせたら、どうなるだろうかとも思った。
 きっと、顔を真っ青にして先ほどの言葉を撤回するのだろう。言わないけど。

「さて、と――ん?」

 馬鹿げたことを考えている自分にも、軽く苦笑いしつつ。俺は視線をミレイの方へと戻した。すると、ある変化に気付く。
 なにやら女子生徒が騒がしい。
 それに、ミレイも見当たらなかった。どうしたのだろうか。

「どこいくんだ? 坂上」
「いや、ちょっとトイレに……」

 俺は適当に嘘を口にして田中を振り切り、教室の外へと出た。
 そして、右手を見るとすぐに異変に気付く。

「なんだ、この人だかりは……?」

 それは、人の波だった。
 男女比は半々といったところか。
 みなが口々に何かを言って、背伸びしながら何かを見ていた。勘ではあるが、ミレイはきっとこの奥にいるような気がする。
 そんなわけで例に漏れず、俺も背伸びをして奥を見た。
 するとそこには――。

「あ、ミレイだ。……男子生徒と、話してる?」

 やはり、彼女がいた。
 そしてその正面には一人の男子生徒。
 顔ははっきり見えなかったが、スラリとした体躯の三年生だ。

「なぁ、いったいどうしたんだ?」
「ん――告白だよ、告白!」
「あぁ、なるほど」

 近くにいた生徒に訊ねて、すぐに状況を理解した。
 なるほど。それは、もはや見慣れた光景の一つだった。
 先ほども述べたように、ミレイはすでに学園のアイドルとなっている。そんなわけだから、一日に複数人から告白される、なんてのもザラにあった。

 しかし、こんなに騒ぎになっているのは――なんでだ?

「まぁ、いいか。危険があるわけでもないし……」

 俺は彼女の寿命をしっかり確認して、教室に戻ることにした。
 すると、それとほぼ同時に……。

「あ、決着したのか」

 女子生徒の『えー!?』という声。
 それと、男子生徒の歓喜の声が聞こえた。
 つまるところは、そういう結果だったのだろう。俺はそれならと、ミレイが戻ってくるのを待った。そして、人波が流れるのを待つこと数分。

「お疲れ、ミレイ」
「あ、ミコトくん!」

 彼女が戻ってきた。
 念のために、俺はこう訊ねる。

「で、どうしたの?」――と。

 すると、彼女はこう答えた。

「えっと、お断りしました……」

 それを聞いて、俺は少しだけ胸を撫で下ろす。
 だけどそれ以上は特に気にすることなく、こう言うのだった。

「それじゃ、教室に戻ろうか」
「はい、そうですね!」

 俺の言葉に、柔らかく微笑むミレイ。
 穏やかなその表情に、こちらもまた自然と微笑むのだった。

 日常の一幕。
 それは何てことなく、過ぎ去っていくのだった。

 






 それは下校中のこと。
 俺は例によって、ミレイを公園まで送り届けていた。
 送り届けるとはいっても、寿命に気を割いてさえいれば普通に帰っているのと変わりない。護衛をしている感覚より、好きな子と一緒に帰る、そんな一つのイベント染みた感覚に近かった。

「ところでミコトくん。体育祭は、何に出るか決めましたか?」
「あぁ、そうか。明日それ決めるんだっけか……」

 その最中、ミレイがそう話題を振ってきた。
 俺はそれを聞いて、ようやく体育祭の存在を思い出す。
 我が校ではいくつかの競技に立候補して、参加しなければならないことになっていた。そこには強制力があり、帰宅部である俺などには辛いもの。
 最大限、体力を使わないそれの取り合いに勝利しなければならなかった。
 しかしミレイの手前、大声でそれを口にするのははばかられる。

「……ミレイは、なにに出るつもりなんだ?」

 なので、ここはあえて質問を返してみた。
 すると彼女は特に気にする様子もなく、小さな唇に人差し指を当て、空を見上げながら考える。そして、一つ頷いたかと思えば、満開の花を咲かせて言った。

「私は学年対抗リレーに参加したいです! あとは、借り物競争!」
「ずいぶんと落差があるな。それって、花形競技とお遊び競技じゃないか?」
「えへへっ! 日本のアニメとか見てると、借り物競争は楽しそうだったので! 学年対抗リレーは、クラスの女の子に推薦されているんです!」
「へぇ、推薦されるってことは――ミレイって結構、足速いの?」
「運動神経には、それなりに自信がありますよっ!」

 えっへん、と。
 小ぶりな胸を張って、子供っぽく笑う彼女。
 俺はそんな姿を見て微笑ましく思った。そうしていると、だ。

「ミコトくんも、学年対抗リレー出ましょう?」
「えぇ……?」

 不意にそんな提案をされた。
 思わず変な声が漏れる。ミレイはそんな反応をした俺に、

「どうされたんですか?」

 きょとんとした顔で、上目遣いにそう訊いてきた。

「えー……? いや、俺はちょっと、ね」

 目を逸らす。あまりに無垢な表情に、要らぬ意地が出てきた。
 こんな顔をされて、運動神経に自信がないのでやめておく、なんて口にできるだろうか。そのため俺は苦笑いをして頬を掻きながら、答えを濁した。

「いや、うん。考えておくよ……」

 ぶっちゃけ、俺が出場する可能性はゼロ。
 何故なら学年対抗リレーは、我が校一番の花形競技だからだ。
 俺が立候補した時点で、目立ちたがり屋の運動部員のブーイングに消されてしまう。というか、立候補すらさせてもらえないかもしれないが……。
 そんなわけだから、今はこの答えで十分だろう。

「そうですね! では、また明日に!」
「あぁ、気をつけてな」
「はいっ!」

 そうこうしているうちに、公園に着いていた。
 そこにはアレンが迎えにきており、彼にミレイのことを任せる。
 俺の役割はここまで。あとは、ゆっくりと自宅へ帰れば今日は終わりだった。

「……やあ。キミが――坂上命くん、だね?」
「ん……?」

 そう思っていたのだが、ミレイと別れた直後に声をかけられる。
 歳若い男性のそれに振り返ると、そこにいたのは同じ高校の上級生だった。胸の学生バッジの色が青だから間違いないのだが、なんだろうか。
 この上級生、どこかで見たような気がした。

「自己紹介がまだだったね、僕の名前は――|九条大我(くじょうたいが)。気軽にタイガとでも呼んでくれると嬉しいかな」
「はぁ、タイガさん、っすか」

 彼――タイガはふっと笑い、金に染めた短い髪を掻き上げる。
 長身で細身のように見えるが、腕や脚はしっかりと鍛えられている印象を受けた。なにかしらの運動部に所属しているのだろうか。
 顔立ちは整っており、パッと見は王子様系というか、そんな感じ。
 まぁ、そこまで興味は持てなかったけど。

「あぁ、よろしくね。ところで――」

 だが、不意にタイガは目を細める。
 そしてこう言った。


「坂上くんは、赤羽ミレイさんと……どういう関係なのかな?」


 とても冷たい声色で。
 それは威嚇するようなもの、だったのかもしれない。
 だが俺はとくに気にかけずに、少しの間を置いてこう答えるのだった。

「んー……今は、仲の良い友達、ですかね?」
「へぇ、なるほど。『今は』――ね」
「…………?」

 すると、どういうわけかニタリと笑うタイガ。
 そこに至ってようやく、俺は相手の様子がおかしいことに気付いた。首を傾げていると、彼は一歩、こちらへと歩み寄ってくる。そして、耳元で……。


「大怪我をしたくなかったら、赤羽ミレイさんとは関わらない方が良い」


 そう囁くのだった。

「え……、なんだって?」

 訊き返すと、タイガは少し距離を取ってこう言う。

「僕の知り合いには、この辺り一帯を占めているセンパイがいてね? キミみたいに弱々しい人間一人くらいだったら、簡単に沈められるんだ」

 その意味は、言わなくても分かるよね? ――と。
 タイガは爽やかな笑みを浮かべて語った。ここまで言われたら、頭の悪い俺でも意味が分かる。これは要するに脅しだった。ミレイを渡せ、というそれ。
 自分のバックには怖い人間がたくさんいるから、彼女から手を引け、と。
 しかし俺は、そこでまたも首を傾げてこう言ってしまった。




「はぁ、それで……?」――と。




 あまりにも間の抜けた声で。
 すると、タイガはきょとんとした。
 まさかの返答だったのだろう。しばしの沈黙が生まれた。

「キミは、馬鹿か……?」

 数十秒の間を置いてから、ようやく彼はそう口にする。
 しかし俺がさらに首を傾げると、どこか焦った様子で続けた。

「いいか? もう一度言っておくが、僕にはキミなんかすぐに殺せるような――そんな知り合いがたくさんいるんだ。怖くないのかい? 怖いだろう……?」
「…………いや、別に?」
「………………」
「…………?」

 またもや沈黙。
 俺は暇を持て余し、頬を掻いた。
 怖いはずがなかった。何故なら、それよりも怖い相手と、俺はすでに会っているから。それと比べてしまえば、不良グループの一つや二つ、なんてことない。

 しかし、それを知らないタイガは目を丸くしていた。
 話が決まると踏んでいたのだろう。しばらく、何かを考えていた。

 そして、おもむろに口角を歪めてこう言うのだ。

「いいだろう。キミの胆力は良く分かった」
「さいですか」
「それなら、こちらも正々堂々勝負しようじゃないか!」
「はぁ、それで?」

 俺は完全に生返事。
 そんなこちらに、タイガはこう宣言した。


「体育祭の、学年対抗リレーで勝負だ! 赤羽ミレイさんを賭けて!!」


 あまりにも一方的に。
 俺はそれを聞いて、改めてこう答えるのだった。



「……はぁ」――と。



 まったく、関心のない声で。

 






 さて、タイガにあのように言われたわけだが。

「別に怖くはないんだよな、アレンとダースに頼るつもりはないけど」

 これといって俺は、その脅しを気にしていなかった。
 というかむしろ、彼の身を案じている。下手にミレイに手を出せば、タイガの方が危険だった。なにせ、今さらながらミレイはマフィアのボス、その娘だ。
 事情を知れば手を引いてくれるだろうけど、それを話すわけにはいかない。
 だとすれば、どうするべきなのか……。

「うーむ……」
「どうしたんだよ、坂上。珍しく難しい顔して」
「珍しくは余計だろ? 田中」

 腕組みしながら考えていると、前の席の田中が声をかけてきた。
 間もなく体育祭の競技決めが行われる。その前の休み時間なのだが、例によってミレイは隣の席にいない。仲の良い女子グループに囲まれて、相槌を打っていた。
 そんな彼女の順調な学生生活を見守りながら、俺は思考を元に戻す。
 ここは一つ、試しに田中に意見を求めてみることにした。

「なぁ、田中。九条大我――って人、知ってるか?」
「ん、九条先輩か? サッカー部のエースだろ。有名人だよ」

 とりあえず情報収集と思ったら、即座にそんな返答。
 なるほど。しっかりした体格には、それなりの理由があったのか。

「その人に喧嘩売られたんだけど、どうすれば良いと思う?」
「はぁ!? お前、坂上……何したんだよ」
「いや、身に覚えはないけど……」

 とりあえず、とぼけておく。
 すると田中は大きくため息をついて、こう言った。

「九条先輩は、敵に回すと厄介だぞ? 女子のファンも多いし、下手に逃げ回ったりすると怒って何をするか分からない。少し気性が荒いからな……」
「マジかー……。それは厄介だ」

 主に、タイガの身が心配で。

「どんな条件の喧嘩なのか知らないけど、真っ向から受けるしかないな」
「ふむ。なるほど……」

 俺はそれを聞いて、考え込む。
 面倒事にならないよう、ミレイの護衛としての仕事がやってきたのかもしれない。だとすれば、俺はどうするべきなのか。それは……。

「いや、でもさすがにリレーに出るわけにはいかないよな……」

 ボンヤリと、そう思った。
 すまないタイガ。骨は拾うからな……。

「おい、席に着け~。競技決めをするぞ」

 そんな風に諦めを抱いていると、担任が入ってきた。
 そして、黒板に競技名を記入し始める。隣の席にはミレイが戻ってきて、なぜだか凄くニコニコしていた。理由を訊くと、首を傾げるばかりで何も言わない。
 女子グループで何かを吹き込まれたのか、と。そう考えていた。

 そう。あの瞬間までは……。




「……それじゃあ、最後に学年対抗リレーの出場者を決めるぞ」

 さて、時間も経過して最後の競技になった。
 当然ながらそれは、花形である学年対抗リレーである。
 担任がそう宣言をすると、ミレイがまずいの一番に手を挙げた。

「はい! 私、やってみたいです!!」
「他に立候補はいないな。それでは、女子は赤羽が出場だな」

 そして、次に男子を決めることに。
 俺は自分は関係ない、そう思って窓の外を眺めていた。すると、


「はい! 坂上ミコトくんが、良いと思います!!」
「………………へ?」


 隣の少女が、元気いっぱいにそう宣言するのが聞こえた。
 驚いて見るとミレイが再び手を挙げて、クラス中の視線を集めている。
 そんな姿を俺はポカンと、呆然として見守るしか出来なかった。反対の声を上げようにも、一拍遅れてしまい、さらにその隙間を埋めるようにして……。

「は~い、賛成!」
「アタシも坂上が良いと思う~!」

 なん、だと……?

「どうなってやがるんだ!?」

 女子が続々と手を挙げるのだった。
 そうなってくると、他の男子生徒は立候補できない。

「坂上、推薦されているが……どうする?」
「えぇ……!?」

 そうこうしているうちに、担任からの確認が飛んできた。
 俺は狼狽えて返事が出来ない。すると、隣のミレイが代わりにこう言った。

「大丈夫です! ミコトくんと、頑張りたいのです!!」

 それは、彼女の願い。
 俺と一緒に、この競技に出場したい。
 その気持ちが、ありありと伝わってきた。

「ミレイ……」

 そう言われると、むげにはできないだろう。
 俺はそこで気持ちを決めた。

「……み、みんながそれで良いなら」

 おずおずと、手を挙げる。
 すると、教室の中は拍手喝采に包み込まれた。

 いやいやいや。
 どうして、こうなった……!?

 






 というわけで、俺はミレイと共に学年対抗リレーに参加することになった。
 他の学生から不満が出ると思っていたが、そんなことはなく、むしろどこか温かく見守られている感さえある。その理由が分からずに首を傾げるしかなかった。
 だが、とにもかくにも出るといってしまったのだ。
 そうなったら最大限、足を引っ張らないように頑張らなければ……。

「ぜぇ、ぜぇ……っ!」

 そう、思っていたのだけど。
 俺は全体での初練習にて、すでに音を上げそうになっていた。
 このリレーは一人200メートルを走り、バトンを繋ぐ。その中でも俺はなぜかアンカーになっており、ミレイから引き継ぐことになっていた。
 それなのに、この体たらくである。
 いや。普通に考えたら、帰宅部員には荷が重すぎるって……!

「大丈夫ですか? ミコトくん……」
「へ、へーき、へーき……! ごほっ、心配いらないから、大丈夫!」

 しかし、ミレイに声をかけられると思わず強がってしまった。
 だって仕方ないじゃないか。男ならそうだろう? 好きな女の子の前で、情けないことは言いたくないって思うのは。俺だって、立派に青春したいのだ。
 それでも、疲労は顔に出ているらしい。
 ミレイはそんな俺に、スポーツドリンクを手渡してくれた。

「この後、ラスト一本走ることになってますけど……」
「んぐっ……ん、分かったよ。頑張る」
「はい! 頑張りましょうね!」

 それを喉に思い切り流し込み、彼女に答える。
 するとミレイは少し汗の浮かんだ顔に、爽やかな笑みを浮かべるのだった。

「でも、熱中症は怖いですから。ミコトくんは少し休んでて下さいね?」
「あぁ、ありがとう。そうするよ」

 そう言うと、彼女は一つ頷いて他のメンバーの方へ。
 残された俺は指示の通りに、木陰に腰を落ち着けるのだった。
 そして、天を見る。スポーツの秋という季節に差し掛かってはいるが、まだまだ気温は高かった。太陽が燦々と大地を照らし、コンクリートの上は歪んでいる。

「はぁ、それにしても……」

 と、そこで俺は後方へと振り返った。
 声をかけないわけにはいかない。そう思った。

「なんで、ずっと隠れて見てるんすか。タイガさん……?」
「別に隠れてなんていないさ。ちょっとした敵情視察、というやつかな?」

 そこにいたのは――タイガ。
 彼は髪を掻き上げながら、不敵な笑みを浮かべるのだった。
 何かしてくるわけではないので流していたが、俺たちの練習をずっと見られていたのだ。気にするなという方が無理な話で、ついに声をかけてしまったのである。

「しかし、キミは情けないな。僕との勝負は決まったようなものだね!」
「あー、はいはい。またその話ですか……?」

 さて、そうすると水を得た魚のように。
 タイガは自信満々に胸を張りながら、そう宣言するのだった。
 ぶっちゃけどうでもいいと思っている俺としては、聞き流し案件だ。とはいっても、これ以上彼を危険なところへ踏み込ませるわけにはいかない。
 どちらかというと、そんな気持ちをもってこう問いかけた。



「なんでそんなに、俺に突っかかるんですか? 何かしましたっけ、俺」



 すると、何やらタイガの笑みが凍り付く。
 数秒の間を置いてから、彼は不思議そうな声色でこう言った。

「…………キミは、なにを言っているんだ?」

 それは心底からの疑問だ、と言わんばかりの答え。
 俺は首を傾げた。そして……。

「なにって、ミレイのことが好きなら俺なんかに構う必要ないでしょう?」
「…………………………」

 そう続けると、タイガは額に手を当てて空を仰いだ。
 あたかも何かに絶望するかのように。

「あぁ、なんて可哀想なんだ。赤羽さんは……!」
「へ? なんで、そこでミレイ?」
「oh……」

 何故か海外の方のようなリアクション。
 そして、唐突に俺の肩をガッシと掴むのだった。

「キミは、罪作りな男だな!!」
「何この人、急に失礼」

 思わず冷めた目でツッコみを入れてしまう。
 するとタイガは、大きくため息をついてこう口にした。

「ふっ、だけどその悲しみももうすぐ終わる……」
「あのー? 一人で何言ってるんですかー?」
「待っていてくれ、赤羽さん……っ!!」
「待ってー、俺を置いて行かないでー」

 なにやら意味不明なことを言って、彼は校内へと戻ってしまう。
 そんな後ろ姿を見ながら、俺は呆然と立ち尽くした。

「大丈夫かな、あの人……」

 もしかして、頭でも打ったのか?
 そんな風に思って、本気で心配になってきた。
 しかし何はともあれ、人死にを見たくはないので勝負には勝たないと。そう思って俺は、重い腰を持ち上げるのだった。するとそこにタイミングよく、

「あ、ミコトくん! 最後の一本始めますって!」
「分かったよ、今行く!」

 ミレイがそう声をかけてくる。
 俺は何やら変な使命感を胸に、練習へと向かうのだった。

 





 さてさて。
 そんなこんなで、体育祭当日。
 俺はぐったりとした朝を迎えて、すでに全身筋肉痛な身体を無理矢理に動かした。入念にストレッチを行ってから、いつもよりさらに早く公園へ向かう。
 そこでミレイと合流して、雑談しながら高校へと――走った。
 なんでもウォーミングアップだとか、なんとか……。

「…………はぁ」

 そんな愉快な朝を終えて、俺は大きくため息。
 いいや。気持ちを切り替えるんだ。今日が終われば、地獄の練習からも解放される。そう思えば一日を頑張ろうと、そう思えるような気がした。
 それと忘れてはいけないのは、タイガのこと。
 彼の命もまた心配であった。いや、寿命的には大丈夫なんだけど、社会的に。

「やあ、逃げずに来たようだね! 我がライバルよ!」
「いやいや。いつの間にライバルになったんすか?」

 そんなことを考えていると、ついに体育祭が始まった。
 するとすぐに、俺たちのもとに件の彼がやってくる。
 何故かライバル宣言をされているわけだが、もはや気にしていられない。適当にツッコみを入れてから虫を決め込もうと、そう思った。だがしかし……。

「少し、時間をもらえるか。坂上くん」
「へ……?」

 なにやら指名を受けることになった。


 ――で。
 そのまま校舎裏に連れて行かれて、真っすぐに向き合うことに。
 二人きりという状況にうすら寒さを覚えるが、とりあえず相手に敵意を感じられなかったので流すことにした。しばらく時間をかけてから、タイガはこう言う。


「僕は赤羽さんを愛している」――と。


 それは、今さらながらな宣言だった。
 俺は「さいですか」と、小さくそう答える。すると彼は、

「確認だが、キミの気持ちも聞かせてほしい。坂上くん」

 そう口にして、目を細めた。
 つまるところ俺のミレイへの気持ちを言えと、そういうわけか。
 それとなると、引き下がることは出来ない。なので真っすぐにタイガの目を見て、こう告げるのだった。


「俺は心から、ミレイを幸せにしたいと思っている」――と。


 曇りなき心を。
 それを聞いたタイガは、くすりと笑った。そして、

「いいだろう。それなら――」

 こちらへと歩み寄り、すれ違いざまにこう言う。


「勝負だ。彼女を賭けて……!」


◆◇◆


「九条さんと何をお話していたんですか?」
「ん、別に。というかミレイ、タイガのこと知ってるんだ」
「ええ、以前に少しだけお話をしたことがあります。取り留めもないことですが」

 陣営に戻ると、ミレイとそんな会話をする。
 彼女がタイガのことを知っているのは少し意外だったが、そんなこともあるのだろう。俺はとくに気にすることなく、今日のプログラムを確認した。
 そして、ミレイにこう伝える。

「……あ、そろそろ借り物競争じゃない?」

 そう、次はミレイが楽しみにしていた競技だった。
 俺の言葉を聞いた彼女は、ハッとした表情になって駆け出す。その後ろ姿を見送って、俺は自分の競技の時間までを潰そうと、借り物競争の観戦に切り替えるのだった。とりあえず、ミレイの出番だけはしっかりと目に焼き付けないと……。

「よいしょ、っと……!」

 思って俺は、家から持ってきた一眼レフを構えた。
 そして、まずは整列する彼女をパシャリ。

「そろそろ、ミレイの番だな」

 そのまま待つこと数分。
 いよいよ彼女の順番が回ってきた。
 パーンと弾ける音と共に、ミレイは一直線に走り出す。そして他の誰よりも先に、借り物の書かれた紙を手に取って――。

「……ん、どうしたんだ?」

 俺は首を傾げた。
 何故なら、紙を開いた瞬間に彼女は硬直したから。

「難しいものでも引いたのか……?」

 まずそう思ったが、硬直するほどの物とは何だろうかとなる。
 他の学生が散っていく中、ミレイはしばしそのままでいた。しかし突然に動き出したかと思えば、何やらこちらへと一目散に走ってくる。
 どことなく頬を赤くして、俺のもとへやってきた。

「ミコトくんっ! えっと……!!」

 そして、視線を泳がせるミレイ。
 なんだ……? 彼女は、なにを探している?
 目の動きを追うと、どことなく俺を中心に回っているように思えた。だから、

「もしかして――!」

 俺はハッとし、確信をもって言う。



「この一眼レフか!?」
「違います!!」



 いつになく、ハッキリと否定されてしまった。

「え、だとすると……?」

 俺は頭を悩ませる。
 腕を組んで唸っていると、ミレイが急いだようにこう言った。


「わ、私と来てください! と――とにかくっ!」
「ふえっ!?」


 そして、思い切り俺の腕を引く。
 されるがままについて行くことになったが、いったいなんだろうか。
 走っている間にミレイの顔を見ようとすると逸らされるし、何やら耳まで真っ赤になってるし。謎は深まるばかりだった。
 けれども、どうにかこうにかゴールイン。
 ミレイは素早く紙を担当の教員に手渡していた。すると、

「ほほう……」

 その教員は、顎に手を当ててにやりと笑う。
 そして、俺たちがまだ手を繋いでいるのを確認して言うのだった。


「お幸せにな」――と。


 …………どういうこと?
 俺は首を傾げるしか出来なかったが、ミレイは意味が分かったらしい。
 とうとう爆発したのか、頭から湯気を出しながらうずくまってしまうのだった。それを見て笑う教員に、困惑する俺。

 そうして、体育祭の一日は過ぎていく。


◆◇◆


「……で、結局なんだったの?」
「い、言いませんから!! ……その、まだ駄目です」
「…………ん? それって、どういう意味?」
「とにかく、駄目なものは駄目なんです!!」

 陣営に戻って訊ねると、珍しく怒られた。
 プンスカと、子供のように頬を膨らせたミレイ。
 そんな彼女も可愛らしいと思えてしまうのは、さすがに惚れ過ぎかな、とも思う。でも可愛いものは可愛いのだし、この感情は正常なものだとも思われた。

「……でも、楽しかったです」
「そっか、それは良かった」
「はい……!」

 何はともあれ、彼女は満足しているようで。
 俺もそのことに安心して、微笑む。そうしているとミレイはおもむろに、こう語り始めた。

「本当に、楽しいです。こんな生活に憧れていたのです」
「ミレイ……」

 それは、今までの自身の境遇を振り返ってのこと。
 組織の騒動に巻き込まれて、命を狙われ、そして各国を転々としてきた。それを思うと彼女の今までの人生は、過酷という言葉では足りないのかもしれない。
 だが、そんな苦労を微塵も感じさせない笑顔を浮かべて彼女は言った。

「私、ミコトくんに会えて本当に良かったです!」

 それは、こちらにとっても嬉しい一言。
 俺はそれを受けて思わず、

「きゃっ……!?」
「あ、ごめん……」

 まるで、かつて海晴にしていたようにミレイの頭を撫でていた。
 彼女は少し驚いたのか、軽く身を縮める。しかし、拒絶することはなく――。


「本当に、ありがとうございます……」


 顔を真っ赤にしながら、そう漏らすのだった。

「あぁ、どういたしまして」

 俺はそう答えて笑う。
 そして改めて、本気で彼女を守ろうと、そう誓った。


 しかし、その時だった。
 一陣の風が舞い、目を閉じた次の瞬間。



「―――――――っ!?」



 ――また、だ。
 また、ミレイの寿命は大きく縮んでいた。


 






 ミレイの次の寿命は、今日の夕方――リレー競技が終わった頃。
 しかし今回は状況が不味すぎた。何故なら、全校生徒が集まっている上に、保護者などの観客の視線があったから。つまり360度、どこからでも彼女の命を狙えるのだ。もっとも犯人が、このように人目のあるところで殺すような馬鹿なことをするようにも思えなかった。

「いや、考えるのをやめるな。……可能性は、それだけじゃない」

 そうだ。思考を単純化してはいけない。
 初めてミレイを助けた時、彼女は何で死にかけたのか。
 それは少なくとも、偶然の産物のように思われた。すなわち、今回もなにかしらの事故によって、彼女の命が奪われる。その可能性も捨ててはいけなかった。

 ――事故か、殺害か。

 どちらとも取れる、そんな状況。
 俺の思考は、だんだんと暗いものに変化していく。
 しかしミレイを守るためには、疑心暗鬼になる程度が良いように思えた。

「さぁ、もうそろそろ勝負の時だね。我がライバルよ!」

 その時、タイガが陽気な声でそう話しかけてくる。
 リレーの入場ゲート前で整列すると、ちょうど彼は俺の隣だった。

「……ん? どうしたんだい、そんな怖い顔をして」
「いや、なんでも……」

 こちらを見て、不思議そうな表情を浮かべる相手。
 でも俺はそんな彼に構う余裕もなく、素っ気なくそう返答した。するとタイガは、それをどう受け取ったのか、満足げに頷いてこう言うのだ。

「その眼差し――ようやく、本気になったようだね」

 そのタイミングで、入場の音楽が鳴り響く。
 俺は彼の言葉などに耳を貸す気などなかったが、

「さぁ、死ぬ気で争おうじゃないか」


 その言葉だけは、やけにハッキリと聞こえるのだった。


◆◇◆


 リレー競技が始まった。
 バトンが繋がり、だんだんと会場のボルテージが上がっていく。
 歓声が大きくなり、自然の音が掻き消されていった。各々のチームを応援する声援が入り混じり、まるでこの空間だけが異世界のようでもある。
 だから思った。ミレイを殺すなら――今だ、と。

「いつだ……」

 下手に身動きは取れない。
 変な動きをすれば、また状況が変わってしまう。
 好転も悪化もあり得る。後者になることだけは避けたかった。
 一周200メートルのグラウンド。整列すると、幸いなことに彼女は俺の目の前だ。だから、常に寿命の確認だけはできる。念のために付けていた腕時計で、時刻と照らし合わせた。――まだ、幾ばくかの猶予はある。

「ミコトくん、頑張りましょうね!」
「……え。あ、あぁ!」

 そうしていると、不意に彼女に声をかけられて動揺してしまった。
 何とか返答するが、異変に感付かれたらしい。

「どうしました……?」

 首を傾げるミレイ。
 俺は精一杯の笑顔を浮かべ、こう答えた。

「なんでもないよ。優勝目指して頑張ろう!」

 それどころではない。
 そう理解はしながらも、あえてそう口にした。
 するとその時だった。彼女の隣に立つ、3年の女子がこう言う。



「――ふん。下級生のくせに、調子に乗らないでほしいですわ」



 それは、とても小さな声だった。
 だが神経質になっているからだろうか、俺の耳にはハッキリと届いた。それ以上はなにも語らなかったが、その女子生徒がミレイに悪意を持っているのは明らか。
 それでも、今後の展開に影響なんて……。

「え……?」

 ないと、そう思っていた時だ。
 俺はミレイの寿命が動いたことに気付いた。

「30分、延長された……?」

 それは意外なこと。
 俺は少しだけ目を疑った。だがそれと同時に、

「それじゃ、行ってきますね!」
「あ……」

 ミレイの番がきたらしい。
 彼女は明るくそう言ってから、走路に出た。
 そして、前走者からバトンを受け取って走り始める。

「どういうこと、だ……?」

 俺はそれを見守りながら、次走者として走路に並んだ。
 すると、その時だった。

「さぁ、準備は良いかい?」

 タイガが、俺の耳元でそう囁く。
 混乱の最中にかけられた声に、瞬間だけ気を取られた。直後、


「きゃっ!」


 短いミレイの悲鳴が、耳に届く。
 俺はハッとしてその声のした方へと目をやった。
 するとそこには先ほどの女子生徒と、もつれ合うようにして転倒する彼女の姿があった。苦悶の表情を浮かべるミレイに対して、すぐに立ち上がる女子生徒。
 なにかをミレイに言ってから、タイガへとバトンを繋いだ。

「悪いね、これも勝負――」

 その時に、隣のタイガがなにかを言おうとした。
 だが、それよりも先に――。


「大丈夫か、ミレイ!?」


 俺は自然と、彼女のもとへと駆けだしていた。
 近くにくるとすぐに分かったのは、ミレイの足が赤黒く変色していること。明らかに骨に異常がある。素人目でも判断できる状態だった。

「あはは、すみません。ちょっとだけ痛くて……」
「ちょっとじゃないだろ!? ほら、肩を貸すから……!」

 それでも走ろうとする少女を制して、俺はミレイのその身を支える。
 遅れてやってきた教員に、保健室へ連れて行くよう指示を受けて歩き出した。寿命を確認する――残り45分程度。俺は気を引き締めた。

 これは、事故死ではない。
 ミレイは間違いなく、何者かに命を狙われるのだ、と。

 





 保健室にやってくると、担当医の先生が対応してくれた。
 それでもやはり応急処置程度しか出来ないらしく、救急車を呼ぶと言って外へ出て行ってしまう。結果として俺とミレイだけが、そこに残されることとなった。
 グラウンドの喧騒を聴きながら、息を殺すようにしてベッドに腰かける。

 ――残り10分。

 ミレイの寿命を確認して、一つ息をついた。
 彼女を殺すのならば、いまこの部屋で、というのが定石だろう。もっとも、それは犯人が人目につきたくないという条件にのみ限られるが……。

「ミコトくん。そんな怖い顔して、どうしたのですか……?」
「あ、いや。なんでもないよ、気にしないで」

 そうしていると、ミレイが不安げにそう訊いてきた。
 どうやら顔に出ていたらしい。無理矢理にではあるが、俺は笑みを浮かべて答えた。しかし彼女は申し訳なさそうに頭を下げて、こう言うのだ。

「ごめんなさい。私が転んだせいで、せっかくの練習が……」

 それは、競技で負けてしまったことに対しての謝罪。
 きっとミレイは、ずっと一緒に練習をしてきた俺に申し訳ないのだろう。そして、他のメンバーに対しても。でも俺は、そんなことを気にしてはいなかった。
 何よりも、いま苦しんでいるのは間違いない――ミレイだから。

「大丈夫だよ。きっと、みんな許してくれるって!」
「でも、ミコトくん。あんなに練習したのに……」

 涙目になってそう口にする彼女の頭を撫でて、俺はこう言った。

「気にしない気にしない! 俺も十分に楽しかったから! それに――」

 心からの、誠意を込めて。



「ミレイと一緒なら、俺はなんだって嬉しいんだよ」



 それは俺の真っすぐな気持ちだった。
 ミレイはその言葉にハッとしたような表情になって、目を細める。

「ミコトくん……!」
「お、っと……」

 そして、ぽすっと、俺の胸に軽く顔を埋めた。
 受け止めた俺は彼女の足に響かないように注意して、優しく抱きしめる。そうすると、やはり思うのだ。理屈など関係なしに、俺はこの子のことが好きなのだ、と。
 守りたい。なにがあっても、守ってみせる。

 改めて、そう心に誓った――その時だ。



「きゃあああああああああああああああああああああああああああああっ!!」



 悲鳴が聞こえた。
 それは女子生徒のものだろう。
 ちょうど保健室の前で上がったそれに瞬間、身を固くする。

「ミコトくん、今のは……!?」
「静かに、ミレイはここにいるんだ!」

 俺は怯える少女に指示を出して、音をたてないように立ち上がった。
 少し早くないか。思って、ミレイの寿命を確認した。

「あと、5分か……」

 やっぱり、変化はない。
 そうなると、今の悲鳴は相手方の失策の可能性が高かった。

「いや、決めつけるな。考えろ……!」

 そう考えた瞬間だ。
 保健室の扉が、乱暴に開かれた。するとそこに立っていたのは……。

「なんだ、アイツは……!?」


 全身を黒で統一し、顔に般若の仮面を付けた筋骨隆々な男。
 右腕に一人の女子生徒を拘束し、左手には刃渡り10センチ以上の刃物を持っていた。下卑た笑い声を発しながら、そいつはゆっくりとこちらへやってくる。


 俺は唾を呑み込み、手元にあったハサミを掴んだ。
 ここでミレイを死なせるわけにはいかない。

「かかってきやがれ……!」


 自分を奮い立たせるように。
 俺は、そう小さく言葉を吐きだした。